LINEスタンプ 宛メとは?

私の人生どんな感じだったけなって振り返ってみたんだよ。基本ずーっと死にたいと思ってた。笑っちゃうよね

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ほぼ独り言。

もう大学4年。自分も友人も就活を始めて、なんなら内定を決めた子ももうすでにいる。
そして、私はそんな中今更過ぎる「この職を本当にやりたいのか?」という疑問を考えている。
今更。今更なんだよ。
いや、ずっと考えていたから今更ではないのか?
ずーっと考えて
ずーっと答えが出ない
そしてそのまま現在。
このまま就活をしたって落ちるだろう。
こんな考えのやつ私だって現場に必要ないと思う。
そしてこんなことを考えながらも現場に出れてしまえば、自分は馬鹿みたいに頑張ってしまうのだろう。
頑張って頑張って考えて考えて
そして周りから

「そうじゃない」

と言われ続ける。
なんてばからしい人生なんだろう。
なんて愚かなんだろう。

私の人生どんな感じだったけなって振り返ってみたんだよ。
基本ずーっと死にたいと思ってた。
笑っちゃうよね。
小学校1年くらいまでは思わなかった。
何なら死ぬのが怖いとすら思っていた。
なのにそのあとはずーっと死にたい考えていた。
私22だよ??
なのに。

小学校入学前
家族が好きだった。おいていかれるのが寂しかった。
少しずつ改善されていたけど、人見知りで
何をするにも勇気が必要だった。
失敗して笑われるのが
指摘されるのが怖かった
でも、それでも。。楽しかった
親友だってできた。
そして、親の姿をみて私もその仕事をやりたいと思った。
夢が持てた瞬間だった。
親のようになりたいといったときのあまり嬉しそうな顔をしない親の本当に嬉しそうな顔が忘れられなかった。
私もうれしかった。

小学校入学
入学してすぐは親友とも遊んで毎日が楽しかった
一人になってる子にも積極的に声をかけて
色んな子と話すのが楽しかった

でも、親友が転校していじめにあう日々が始まった
クラスに行ったらなぜか水浸しの自身の机
先生が水浸しにした子に怒りながら拭くのを手伝ってくれた
大丈夫かと声をかけてくれる。した子にも怒ってくれる優しい先生だった
でも、ずっとは見てられなくて給食中とかに家族の悪口を言われるようになった
悲しくて辛かった。
でも、そのころ両親がよくケンカをするようになった。
いや、前からしてはいたんだけどそれよりももっと激しい喧嘩だった。

学校に行けばいじめられ。
家に帰れば両親の喧嘩や離婚話を聞き続けることになった。
そんな生活が嫌で私は逃げるように元々していた習い事とは別の習い事を毎日いれた。

今思えば頼んですぐ了承してくれた親はいい人だと思う。
でも、最終的に1週間毎日習い事を入れた私はかなりのあほだと思う。
しかも、4種類ぐらい。

不機嫌な両親の顔を見て1日がはじまり何なら喧嘩を見るところから始まった
学校に行けば馴染めない周り
あまり遊ぶ友達もいない私はそのまま帰った
誰もいない家に帰って犬に習い事行ってくるねと声をかけて出ていった
そして帰ってきてまた両親の喧嘩を聞き続けながら眠る。
習い事を送り迎えするときには車の中でも不機嫌な様子だった。

そんなことをしながら毎日が過ぎていった。
当たり前と言われば当たり前だが、学校が終われば直帰するやつを遊びに誘ってくれる子もいなくなった
習い事で同じ子たちとは話していたけれど。

そして私は病気になった。
初めは病気なことも気づかなかった。
送り迎えの車で怒り続ける親の言葉を流し聞きし続け
家での喧嘩も話そこそこに聞いていた。
だから。親も私も気づかなかった。
親にまた話を聞いていないと怒られても、流し聞きしすぎたかと思うだけだった。

でも中学入学をして吹奏楽に入りそれは判明した。
顧問が変わり新体制になり1年でも大会に出れるようになったことで先輩たちの私たちへの扱いは悪かった。
私の頃はこんなものじゃなかったと隙あらばいい、
上手くできなければ責め立て、
休み時間に好きな曲を少し弾いても怒られた
きれながらばちでリズムをとるすがたのなんと恐ろしいことか。
そして、先輩との話の中でもその病気の症状は出るようになった。
「おかしいよ」先輩のその一言で病院に行き。
そして判明した。


親のけんかを止めたくて
もう一回家族でわらいたくて
ただそれだけだった、
そのはずだったのに

習い事では結果を出せるように頑張った、
ある習い事では大会に出れば大体入賞できるようになった
できるように習い事が終わった後も居残り練習を欠かさなかった。
最終的には段までとれたんだ。

難しい曲も弾けるように頑張った。人前でも緊張しないように練習もできる限り頑張った。
級とかはあまりとれなかったけど、曲を暗記して弾いて緊張はするけどミスせず演奏できるようになった。

親がやっていたからそこまで追いつけるように頑張った。なんなら級だけなら追い越した。
大会でも半分まぐれだけど、入賞した。

パソコンのタイピングだってそこそこ早くなったし、硬筆だってうまくなった。

毎日毎日頑張った。
級が上がれば親は「おめでとう」と言ってくれた
演奏がミスせずできればビデオを回しながら「お疲れ様」と言ってくれた
大会に出て入賞すれば祝いの言葉と一緒に少し誇らしそうにしている姿も見れた

うれしかった。
もしかしたら私が頑張れば
結果を残せれば
もしかしたら戻れるかもしれない
そう思ってひたすら頑張った。

中学に入って何個かやめてしまったけど、部活も先輩に文句を言われながらも頑張った
練習だってした
何度も何度も家でできるものを頑張り続けた。

それでも、親の喧嘩は止まらなかった。
次第に級が上がることも大会で入賞することも当たり前になった。
そして言われた言葉が
「また3位?」
その試合は、自分より格上(級的に)がほとんどの試合だった。
自分的には3位に入れただけでも良かったと思っていた。
でも、そんな甘い考えではだめだった。
私が頑張れば頑張るほど
頑張ったことが日常へと変化していった。
それが当たり前のことであると変わっていった。

そして私の心は折れてしまった、
努力をしても変わらない毎日
親の機嫌や仲裁をし続ける毎日
学校でいじめられたり怒鳴られる毎日
そんな毎日に嫌気がさして、
もういいやって。
習い事も部活もやめたんだ。

努力した。結果だって多少は残した。
でもそれは、私目線の話だった。

進学を前に言われた親の一言。
「あなたはなんでも中途半端だから。。。」

「ちゅうと。。はんぱ。。?」とつい返してしまった。
朝起きて少し遠めの学校まで歩いて行って
馴染めない学校でどうにか頑張ろうと
挨拶を絶やさなかった。笑顔も周りとのコミュニケーションも頑張った。
相手が望む都合の良い人を演じ続けた。
相手を否定せず、相手のきもちが上がる言葉を言い続けた。
喧嘩の仲裁を頼まれればどちらの側に立つこともせず、あくまで中立をとり、仲直りできるまで頑張った
学校の人からの評価が「○○は優しくてなんでも頑張ってくれていい子だよね」となるまで頑張った。

学校から帰れば、習い事の練習やそのまま習い事へ行った。
帰ってからはその部分を練習したりだってした。
結果が出せるように。
習い事が少なくなればその時間はそのまま部活へあてた。

家では親の機嫌を損ねないように頑張った
笑って機嫌を損ねないように。自分の話は極力しないように。愚痴なんてもってのほか。
玄関に靴が散乱してれば親が怒り出さないように自分のではなくとも片づけた。
物が起きっぱなしになっていれば見つかる前にかたした。
姉の掃除のできなさによく怒るから頃合いを見計らって片付けもした。
喧嘩をすればどちらかが悪くならないように仲裁もした
愚痴があるなら聞き続けた

病気だって治るように医者の指示を聞き続けた。
実際症状もよくなった。
それでもどんなに頑張っても親の怒りは収まらなかった
だから、もっと努力しようと頑張り続けた。
でも辛くて全部やめて逃げ出してその結果の評価が

「中途半端」

まぁ確かにその通りだ。
多くの習い事と学業を並行して行おうと
それぞれでそこそこの成績が出せようと
「そこそこ」ではない成績を提示し続けられなかった私はそうなるだろう。

でも、頑張ったんだ
もう一度家族でわらいたくて
あたたかい家に
仲良く笑っていられる家族を夢見て
がんばったんだよ

そして私は努力は報われないのだと思い知った。
私の努力だけでは変えられないものもあるのだと知った。

そこからはもう。いろいろおかしかった。
中学までの私を知る人と会いたくなくて
片道2時間近くかかる高校へ通った。
まぁ、ここなら資格を取るために大学へも進みやすいと言ってきたのも親だったが。
このころには親が提示したことを従うのが当たり前となった
選択して親が怒らない。その事実があればどうでもよかった。
親が勧めてきたところは他にもあった。
でも、そこが一番遠くて逃げたくてそこを選んだ。
私立だから怒るかもしれないと恐る恐るいえば、あっさりとオーケーされた。

でもそこからは地獄だった。
片道2時間。想像以上につらかった。
毎日習い事や部活、家でのご機嫌取りに明け暮れていた私は電車なんてほぼ乗ったことがなかった。
というか、ニュースもあまり見る時間はなく、SNSもしておらず携帯はあるが、調べている時間があるなら寝るか努力するかしていた私は電車がどんな感じかなんて知らなかった。

朝5時に目覚め、朝食はたべるとおなかを壊すようになったため食べられず、電車に乗る。
満員になり気持ち悪かろうと座ることも出来ず2時間耐え抜く。
なんなら遅延を想定してはじまるよりも30分も早く学校につくようにしていた。
その疲れのせいか、授業が始まる前に私の体力は限界になった、
授業もおろそかになり、ついていけない。
次第に体調は悪くなった。
朝ご飯も食べていないのに電車に乗れば腹痛と吐き気が出るようになった。
それでも家に帰れば親が怒る。
毎日電車を観察し、誰が早く降りるか知り、その人の前を陣取った(ストーカーみたいだな。)
座れれば即寝て最寄り駅1つ前に起きる。
そしてトイレに駆け込む。そして保健室にかけこみ、1限が始まる前に席に着く。
そして授業が終わり、部活に出て夜に帰り、勉強をして0時。

中々に辛かった。
今でも思う私は馬鹿だ。

そして高校に入っても人の顔色をうかがう癖は抜けなかった。
友達から信頼の言葉を受け取るたびに吐きそうになった
嘘もついた。
心の中で
ごめん。ごめん。ごめんなさい。
それが日常となって言った。

あぁ、もうむりだ。
そうおもったころコロナが始まった。

幸か不幸か、リモートになったことで体調は落ち着き、
毎日会うわけでもないため、友人の顔色をうかがうことも苦ではなくなった。
コロナが始まる頃には登校時間も慣れてきていたため平気だった
親の精神状態も落ち着き喧嘩も減った。

コロナによって状況が好転した。
私は、好転だとそう思った。
でも、きっとそれがいけなかった。
自分は回復したのだ!親も優しかったころに戻りはじめた!
と思ってしまった。
そして、私の中にかすかに残った幼少期の頃の夢を叶えられると思ってしまった。
高校自体その夢を叶えるために大学へ進みやすい所を選んではいたけどね。

これで、夢に集中できると思ってしまった。
そして、大学進学。
せっかくできた友人と離れたくなくて片道2時間はある大学へそのまま進んだ。
体調も戻った!環境もよくなった!もう大丈夫!親とのかつての約束をはたせると。

先見の明がある方ならわかるでしょう。
そんなわけはない。

大学に入り始めは良かった。高校が遠かったこともあり、片道もそんなに気にならなかった。
しかし、バイトをはじめたのが問題だった。
交通費を稼ぐためだったが、ここがまぁ何ともブラック。
労働時間がえぐかった。
1度シフトに入れば帰る頃にはもうへとへとだった。
それでも頼まれればシフトに入ってしまった。
1年まではそれでもよかった。ついていけたから。
でも、2年になり講義は厳しくなり、孤独感を感じる事象が増えた。
そして、そのタイミングではじめての彼氏ができた。
愛されることが嬉しかった。
でも、考えてほしい。
片道2時間。帰ればすぐに勉強・課題。そしてバイト。そして彼氏との時間。そして難しくなる講義
持つと思いますか?
答えはnoです。

そして、限界を迎えた私は色々あり彼氏と別れた。
そして、彼氏だけではなく友達との関係も悪化した。
疲れて疲れてもういいやと人の顔色を伺うことを辞めたのである。
顔色を伺うことを辞めれば友達との関係もだんだん悪くなった。
みんなも忙しくなり余裕がなかったのも原因の1つとは思うが。
そして、友達が消えていった。
正確には友達はいたが「ほんとうにともだちなのか?」と疑うようになった。
そして、コミュ障の私は新たな友達を作るにも失敗し、講義でも失敗し続けた

そして、3年。実習が始まった。今考えれば当たり前だが実習先も遠かった。
睡眠時間が3.4時間となり限界を迎えた。実習はうまくいかず、交友関係も先生との関係もうまくいかなかった。
精神状態は悪くなり、唐突に泣き出したり、暴れたり、騒ぎ出す自分が出来上がった。

そして現在。就活である。
休暇を挟んだことで多少精神状態は安定したがもうやりたくないよ。
もう、がんばりたくない。
文字に起こしてみれば何ともまぁ地獄な人生。
でも、きっとどこかの誰かから見ればマシな人生。

親の名誉のために言っておくが、親は私を愛していなかったわけでは恐らくない。
習い事もさせてくれた。ご飯も毎日作ってくれた。送り迎えも高校へも大学へも行かせてくれた。
だからこそ、私は幸せな家庭を諦められなかった。
私にかける愛情を感じていなかったのならきっともっとはやく諦められた。
成人し、子供ではなくなったころ私が小さいときに親の間で何が起こっていたかは聞いたのだ。

私が努力しても変えられなかったのは当たり前と言われれば当たり前。
「子供だから伝えなかった。教えなかった」
真実を知らなければ私の行動はただのピエロだ。
全く持って無意味だった。

裏を知れば何ともまぁ、あっけないことか。
私はずっと選択を間違い続けた。
私はずっと何も見えていなかった。
私はずっと努力している気がしていただけで努力していなかった
そして、そんな自分を今更どう変えたらよいのかもわからないのである。

恨むなら
あたたかい家族を望み、
力量に見合わないことをし続け、
先を見通せなかった
馬鹿であほで無力な自分を恨むしかない。


なんて、ばかなじんせい。
ばかだなぁ。
ほんんとうにわたしはばかだ。
しのうかな。
名前のない小瓶
203872通目の宛名のないメール
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お返事が届いています
ななしさん
数々の苦しみの中必死に生きて頑張り続けたあなたは本来とてもパワーに溢れた人に思う。

私と重なることも多くつらさが伝わった。
自分を犠牲にする形でなんとか好転させようとしたのだけれど、それによって自分を1番に愛せていなかったのだと感じる。物凄く苦しい日々が伝わる。今、虚しいのは当然だと思う。
なんとかして休む。
人の意見や目を気にせず好きなことを好きなだけする。誰かのために頑張り、無理する気持ちはしばらくどこかへ置いておく。なんならそんな気持ちは遠くに蹴り飛ばして。

そうやって「楽しい」を思い出して、時間をかけて心を癒やして、自分の気持を解き放し「死のうかな」の気持ちがいつの間にかいなくなるのを待つ。
厳密にはいなくなってることに気がつきハッとする日が来る。
そうやってまた人生が回りだす。自分の進みたい道が開ける。早まらず落ち着いてほしい。だれかの犠牲はやめる。
あなたはあなたの人生を生きる。今からそれに集中してほしい。周囲が、自分が変わるから消えないでね。
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以下はまだお返事がない小瓶です。お返事をしてあげると小瓶主さんはとてもうれしいと思います。
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