ごろー
哲学ではないですが、
不登校などの時は
理性的な部分では寝る前に
「明日こそ、行くぞ」と思う
そして、
朝になり、朝食を食べる。
理性は
「ほら、行くよ。行くのが当たり前だろ。」
でも、心身?は
「玄関に向かうのも、むり。」
理性で一歩で進んだら、咳こんでからだがストップかけるようでした。
そして、9時くらい完全な遅刻の時間になると普通な呼吸ができるようになった。
両親は共働きで、家にも誰にもいないという状態も普通の呼吸に戻せる原因の一つだったかもしれません。
担任の先生からの電話が怖くて、
電話線を抜いたりもしてました。
理性・父性の考える「普通、常識」
身体が出来るレベルの解離にはかなり苦しめられました。
いまは社会生活が普通におくれない「変わり者」という思い込みを
作って、
遅刻を平気でする、食生活をおかしな仕方(非常食の非常時の食べ方を日常的にする)にしたりして、
バランスをとってます
哲学系の訳書はほとんど読み解けないです。
新書や哲学系の本の日本人の解説本などだと書いてある内容に
肯定的に詠んでいる自分と
内容にツッコミや反論をしている自分がいます。
あと、ものづくりをすると理想や設計とは違うもの出来てしまうことがあります
ここではいくつもの考えが出てきます
作り上げたのだから、良かった
こんなもの出来るなら、作らなければ良かった
もっと出来る部分がありそうだから、もうちょっとやってみよう
第2弾をすぐ作ろう
気分や体調次第でどの考えが浮かぶか分かりません。
今日は原始仏教的に
明日は禅宗的に
明後日はニーチェ的に
毎日、3つのどの教え優先させるかが変わるなんておこります。
でも、この3つの教えを大事にしているという自分の価値観そこまでずれてないと思います。
もし、哲学的な探求の小瓶をある程度のスパンで流したとします。
過去の自分の小瓶を振り返ると
自分の考えの変遷が見えてくるかもしれません。