例えば
空を自由に飛び回りたいと
カエルさんが言っても難しいし
鳥さんが水の中で暮らしたいと願っても
それは難しいです。
僕は痛み止めをたいてい毎日飲んでいます。
本当は飲まないようにしたいと努力をするけれど
痛みは人の意思では、自由にはできませんね。
人の意思では自由にならない努力の性質というのに気が付くと
努力はたった一人ではとても難しいものだと僕は思います。
だから
同じような願いを叶えた人にまずたどり着こうとすることは
自分の成長をとても強く促してくれるものだし
努力を叶えたら喜んでくれる人を探すことが
いつの間にか どんどん願いを増やしてくれると
僕は思っています。
僕は自分が努力が叶わない人になったときに
叶った人たちがなぜ素晴らしいとされるのか
思い知った経験があります。
僕は人を倒そうとして自分の夢を競争だと考えていたのに
選ばれている人たちの作品は、競争するためという考えより
作品に触れてくれる人にとって素晴らしかった のだと
これが世間のある一つの
評価の側面なのだと思い知りました。
都合は誰のどの努力から ほかの人へどういう努力に求められて
叶うかっていうのは、
結構年上の人間でも知らない人間が多い
一生自分だけの努力の側面の力だけで
夢や努力は叶っていると思い込んで
まだ夢を叶えていない人に
人として言葉をかけてあげることすらも
損をするという人も多いですよね。
鳥さんもかえるくんも、自分が叶えることはすべて難しいことです。
でも カエルくんが飛ぼうとして練習することは
カエルの世界では、ほかのカエルたちにとってとても
凄いことなのかもしれません。
競争に夢中な他の鳥さんや、カエルくんの仲間たちより
実は、競争にもならないくらい自分の何かを成長できること
それが努力と呼ばれているのだと僕は思っています。
それは「その目標ならあなたであれば」であるとか「少なくとも自分の経験上」であるとか「と私は信じている」が隠れている言葉なのかもしれません。そこは話した人でないとどうにもわかりません。
今出来ていないものの中には努力しなければ叶わないのや努力しても駄目なものももちろんあるでしょうし、やってみないと分からないものもやる前から分かっていることもあるでしょう。
ただ、実際にそれをするかはその人にとって努力する価値があるかどうかで決めた方が良いように思います。優勝を目指す全てのスポーツ選手が優勝できる訳ではないですよね。でも、それでも歩みを止めない人がいて、そういう人の中から優勝者が産まれているのは事実だと思います。