母親が癌になった。
乳がんで初期だから、命の危険はない、らしい。もともと私の家は癌家系だから転移している可能性も無きにしもあらず、といったところならしい。直接の言葉は聞いていないけれど、よくわからない。
母親がゴールデンウィークに、下宿に遊びに来る、といきなり言い出した。母の口からは癌の言葉はなかった。電話を変わった父から聞いた。お前が親不孝してるから癌になった。とか言っていた。どこまで本気かわからない。
正直なところを言うと、母親がガンだと聞いて、頭がざわついているような感じはあるが、生きていてほしいと思っているのかよくわからない。
直接的ではないにせよ、虐待まがいの目に会いながら私はここまで生きてきた。なんども恨んだ。下宿を初めて、いろいろな人の話を聞いて、どうやら家が少し変わっているというか、端的に言っておかしいことを知った。
おそらく、母の中では僕を愚痴のサンドバッグにしたことも、家にいない父の代わりに母親の踏み台になったことも、脳内補正で幸せな記憶になっていると思う。だとしたら僕がむかし語りをしてその幸せを壊すのは得策ではない。どうせ逝くなら、幸せに逝ったほうがいいような気もする。
よくわからない。もし本当に僕がそう思っているなら、それはそうだと決めて、寝てしまえばいい。それなのにそれができなくて、今僕はパソコンのキーボードをこうして叩いて気持ちを吐き出している。
ただ、母親が死んだら父親はどうなるかな、とは思う。家に帰っても当たり前のようにいた母がいない。兄は家にいるが、どうだろうか。
僕や兄と違う。母親は、選んだわけではない。でも父は母を伴侶として選んで生きてきたわけだ。それがいなくなっても、大丈夫かな、という心配もある。
僕はここまで文を書いて考えた時点で、母親が死ぬことを前提に考えている。そう考えると、僕は母親の死に対してさほど関心がないのだろうか。よくわからない。母親の葬式で泣けるだろうか。思い出は、どうなっているのだろう。母親に、僕は感謝しているのか。そもそも、僕の母親に対する愛はあるのだろうか。
そもそも、母親が世間一般の基準から見て僕に愛情を注いだのか、それがよくわからない。
僕には自傷癖がある。カウンセリングを受けている。大体の人と価値観が会わず友達も少ない。自分の中に自分でない誰かがいる。カウンセラーは育ってきた環境が原因だといっていた。
そういうことに対応するために、たくさん本を読んだ。発達心理学や、臨床心理学、認知行動療法、母子関係の本など、いろいろな本を読み漁った。大学の心理学系統の講義も受けて、いろいろなことを考えた。
ある母親が子供に愚痴を吐いたり、支えになる事を暗に強要するのは「母親になりきれていない」のだ、ということを読んだ。要するに息子を「子」ではなく「男」として見ている、という。
そう考えると、母親は母親になりきれていなかったのかもしれない。要するに、ただの「女」として僕に接していたのではないか。だから小学生の僕に寄りかかって味方になることを強要できたのではないか。
よくわからない。そう考えれば、母親を責めるのも正しいのかもしれないが、母親自身が意識していたとも言い難い。母親もかなり子供のころに色々あったと聞いているから、僕にとっては加害者でも、彼女自身は過去に被害者であったかもしれない。
だが、僕がそこまで考える必要があるのだろうか。僕は神様ではない。
多分僕は母親を憎みたいのだ。母親も同様に苦しんでいたのだ、という教科書どおりの倫理を肯定すれば、僕は責めるべき対象を失う。はっきりした一つの原因である、親という存在を、責める対象として置きたいのだと思う。
結局社会では僕の問題は自己責任だなんてことはわかっている。僕の環境がどうだろうが世間の人は微塵も興味はないし、誰も見向きもしないのは僕だってわかっている。原因がはっきりしていようが、加害者が誰だろうが、被害者が誰だろうが、母親がどうであろうが、僕が使えない人間なら切り捨てられる。
わかってはいるけれど、僕はどうしてもよくわからない。僕にとって母親が加害者なら、そういうことにしてもいいではないか、とも考えてしまう。僕は神様ではない。僕が狂ったのは母親のせいだ、と言い切るのは乱暴だが、大部分はそうだといえると思う。相手の生育背景まで考えていられない。僕にとって悪人なら、それでも、いいじゃないか、とも、思う。
社会にはなんの関係もなくとも、少しくらい僕に都合の良い解釈をしてもいいじゃないか、と思う。
よくわからない。なんだか不快だ。頭がざわざわする。だめだ。だめだ。落ち着かない。眠れる気がしない。
お母様大変でしたね。
小さい頃がんじがらめに縛られていた痛みを、ふと思い出したという感じでしょうか。
そうですね、もう大人なら あなたの生き方は自己責任で母親がこうだったと訴えた所で聞き入れてはもらえないでしょう。あなたのお母様が過去に何があったとしても、それがあなたを傷つける理由には絶対にならなかったように。
憎むとか許すとか、今すぐに決めなくてもいいのではないですか。
不謹慎を承知で書くと、人との縁とか人情って、それこそ片方が亡くなってからじゃないとわからないことさえあるのですよ。
私の大叔父は暴力に不倫とひどい人で、大叔母と別居中に深酒で深夜道路に寝ていた所を車にひかれて亡くなったそうです。大叔母は後追い自殺を図りました。一緒に住んでいれば必ず迎えに行き、死なせなかったと未だに悔いています。例え確固たる憎しみを持っていても、いざ取り返しのつかない場面にきた時、それまでが嘘のように、和解していればよかったとさえ思うことはあり得ます。
逆に許して一緒にいても、亡くなった時に涙がまったく出てこないで「ああ無理して仲良し夫婦など演じなければ良かった」と悔やんでいた、そういう可能性だってあったでしょう。
だからあなたも、憎しみだけ、或いは許しだけと、どちらか一方に決めなくてもいいと思います。
憎んだり許したり、過去を振り返ったり忘れたり、そういう柔らかい心で生きましょう。たまにお母様のことが頭をよぎったら、自分は自分だと考えながらゆっくり深呼吸しましょう。親のせいにしたい時はしてもいい。その後に自分の責任を思い出せればいいのです。
あなたの心の塊が早く溶けることと、あなたの後に悲しい連鎖が続かないことを祈ります。