自分が作った料理を美味しいとは思えない
不味くはないし、時々だけれど料理を食べる家族からも「美味しい」と言ってもらえる
忙しい両親に代わって、小学校時代から料理や家事全般を担ってきたという自負もある
それでも、自分自身で作ってみると美味しいとは思えない
自分以外の家族が作れば、他の家族はいつも「美味しい」と感想を言う
同じ調理法でも、私がちょくちょく助言をした作り方でも、毎回「美味しい」と言っている
私には時々だから、自分でも僻んでいるのではないかとも考えたけれど何かが違う
私が作っても、何も言わずにパクパク食べるだけ
表情から読み取ろうとしても、さっさと食べて席を立つからそれも使えなかった
確かに、自分だけには時々しか言ってもらえない言葉を毎回貰えることには差を感じたし悔しくもあった
だけど、それ以上に「口に合う」ものが毎回は作れないことも知っていたから、次は、と励んだ
原因を理解しないままに励んでも意味はなかったと、今なら分かるのだけれど
私は、私自身に興味がないらしい
いや、自分を気色悪いと思っているのかもしれない
いつの間にか怪我をしているのはしょっちゅうで、まず怪我を回避しようという気すら起こらないことが多い
誤解しないで欲しい、周りからちやほやしてほしいが為に怪我を進んで受けるのではないと
周囲の関心を引きたいなら、いっそ衆目の的になった上で自傷する方が早いじゃないか
それを実行しないあたり、私はアピール目的で怪我をしていたのではないと確認できた
今も私に残る自傷痕は、本来ならば人様に見せて良いものではないと考えている
「しなければならなかった」手術痕と違って、リスカの傷跡は相手を不快にさせると知っているからだ
自分に刃を向けて、自分でスッキリできるなら良い
だけど、よそ様には見せないという配慮は当然に「しなければならない」もの
それが「家族」であったとしても
長々と書いたが、気色悪い自分が作ったものだから美味しさを、ひいては味を感じられないのではないかと思うのだ
食べる分には困らなくても満足感が足りないのだと
なら、わたしがしてきたことはなんだったのか
何の意味もないことだったのだといい加減割り切らなければならなかったのかもしれない
父に幾度となく言われたじゃないか、「家事を自己犠牲でやっていたならいっそ迷惑だ」と
泣きながら反論するわたしが見えるようだ、やってなければやってなかったでわたしを詰ったではないかと
仕事から疲れて帰ってくる両親に、負担をかけたくなかったから妹弟がやらなくても1人で熟していたのだと
この2つの理由は何を言われようが絶対に口を割らなかった、最善でないながらも次善だと今でも思っている
だから何を言われても家事を止める気にはならなかったし、今も進んで熟している
だったら、私のやったことは何一つ形にはならないといい加減分からなければならない
それを理解しなかったからこそ「自己犠牲」と言われてしまうのだ、自分では考えつきもしなかったけれど、もしかすると『やってあげたのに』という上から目線が家族の鼻についたからこそ「自己犠牲」だと揶揄されたのかもしれない
ならば、私がわたしの料理を美味しいと思える日は来ないだろう
何一つ面白みのない予想だけど、おそらくこれは当たる
お返事を頂き、ありがとうございます。
家事で評価されたことが少なかったため、皆さんからのお言葉がとても嬉しかったです。
「たとえ見返りを求めてなくたって、否定されたらふつーに悲しいわ。」が特に刺さりました。
私はおそらく、「ありがとう」の一言を欲していたのだと思います。『いつも、どんな時でも礼を言われる』など求めてはいませんでしたが、それでも時々はその言葉が欲しかったのも事実です。それが『見返り』にあたるなら、下心ありきで家事をしていたのが家族にバレていたのではと怖くなりました。それならば、自己犠牲と言われても仕方がないと納得できます。
>>1通目の方
「たまに作った誰かには、気をつかって(?)「おいしいよ」と伝えるのはあるあるな気が。」を読んで、目からウロコの気分です。確かに、よく作ってくれる相手には気恥ずかしいが故に伝えそびれることもありました。
『完成した料理』でなくとも、私は自分が作った味を『空虚である』と判断してしまうようです。
それは味見であっても変わりませんでした。ただ、「これは家族が好きそうな味だな」という想像と、「前にこういった味付けにした時に喜ばれた」という経験の2つで料理を作っているのだと思います。
例えば辛い物好きならば、分量・レシピ通りであっても無意識にそれらの香辛料を多く使ってしまうのだと何かの本で読みました。逆に言えば、自分の好きなものさえ分からないままに作っても「何もない」という評価しか出せないのではないでしょうか。
>>3通目の方
誰かの日常を穏やかにするために尽力している人はかっこいいと思います。スポットライトで照らされなくとも、私には輝いてみえます。いつか私もそうなれれば良いなと夢想してしまいました。
自分の作った料理の味に特に感動がないのはわりと普通のことなのでは?
味見ですでに食べてるし。
他の家族はたまにしか料理作らないのだとしたら、
母や妻のような、料理を毎日作ってくれる人には毎回「おいしい」なんて伝えないけど、
たまに作った誰かには、気をつかって(?)「おいしいよ」と伝えるのはあるあるな気が。
でも「我慢は美徳」ではないと思う。
臭いものに蓋をしても中で悪臭が強まるだけ。
親には我慢してはいけない。
その我慢のはけ口、未来の配偶者や子どもに対して向けられてしまう。
無関係ない人に向かって毒ガス爆発してしまう前に、
我慢させられた両親に本音をぶちまけておこう。
今からでも遅くはない。
あの時口を割らなかったこと、ちゃんと伝えよう。
聞いてくれなくても、相手にされなくても、否定されても、負けずに、伝えよう。
台風はいろいろなものを壊すけど、台風はがこなければ海の珊瑚は死んでしまう。
本当はやりたくないことは
無理してやらなくていい。
子供が我慢する
それは親にとって、とても辛いこと。
ちゃんと、伝えよう。
それでもあなたは愛される。
当たり前に愛される。