私のような人間が生きていることが、ただただ申し訳ない。
自分が死ぬべき人間であることは分かっている、しかし勇気が足りず死ねない。自分自身の人生にピリオドを打つことすら出来ないほど自分は無能なのだ。そしてそんな自分を、心のどこかで止めて欲しいと思っている自分がいることが、許せない。気持ち悪い。こんな人間に"死にたい"と言われたところで、普通は"勝手に死んどけよ"、と思うだろう。
しかし、明日私が死んだとして、誰が悲しむだろうか? そりゃあ、相手が誰であれ、知っている人が死ねば嫌な思いはするだろう。しかし、事務的な問題を抜きにして、私がいなくなったという事実を、誰が心から悼むだろうか?
"泣くことは甘え"何度も聞いた言葉。しかし、自室で自分を殴っていると、不可抗力で涙が出てくる。泣いている自分は気持ち悪い。甘えている。そんな甘える自分が気持ち悪くて、この世から消したくて、それでも死ねずに、ゴキブリのような自分の生命力にまた嫌悪する。骨折箇所を殴っても、本能的に手加減してしまうらしく、一度殴ってから殴れなくなった。
ヘラヘラ笑っていられるときがある。友達(と勝手に思い込んでいる情け深い人々)と話して"楽しい"などと思うときもある。だから私は精神疾患ではないのだという。
健康ならばどうして泣くのか? 健康なくせに"死にたい"などと考えるのは甘えだ。逃げているだけである。そんな逃げることしか能の無い自分に絶望して、また死にたくなる。
この手紙を書いているということは、自分の気持ちを吐き出したい、つまりまだ自分かわいさの気持ちを残しているということだ。なんと気持ちが悪いことか。
健康なくせに"死にたい"という言葉に甘えて、無価値なくせに資源をただ浪費する、この世の誰よりも生きていてはいけない人間たる自分が、ただ許せない。こんな自分は死ぬべきである。
「さっさと死ね」という言葉が届くことを理解しつつ、こんな人間がまだ生きていることが少しでも誰かの生きる希望になればと願って、この手紙を放流する。