浮き沈みの激しい日々。
昨年11月に、ついに娘への養育費の最後の日を迎えてしまいました。
振り込みをした瞬間、私はどうなってしまうのか…?
座り込んでしまうだろうか…
言葉にならない叫び声をあげてしまうだろうか…
いろんな思いが頭を駆け巡りましたが、その時の私は、ほんの暫く操作を終えた画面を見つめているだけでした。
次の月も、そのまた次も、振り込みを続けようかとも考えましたが、娘は二十歳となったわけですから、それをすれば足枷になると判断しました。
これからは…
もう少し、自分のことを考えていこう
そう自分に言い聞かせましたが、直ぐにどうすれば良いか、決まるものではなく、ただ、ぼんやりとする日々でした。
それより半年程前、以前「お前もやってみろよ」と、半ば押し付ける様に御朱印帳をくれた友人が、私の元へ遠路遥々来てくれたのです。
そして、また少し強引に、
「善光寺参りに行こうぜ!宿代は俺が出すから、付き合ってくれよ」
そう言い出すや、車を運転し走り出しました。
初めての御寺参り。友人に倣って参拝して、もらった御朱印帳に印を頂きます。
その時の私は、いつもの出で立ち。作務衣姿に羽織を羽織っての雪駄履き。
「特別の御開帳がありますので…」
と丁寧に案内され、勧められた所に座ると、友人が…
「絶対お前のこと、どっかの坊さんだと思ってるぞ。お前、違和感全然ないからなァ」
とニヤニヤ。
儀式が終わって、頭を下げてこられる僧侶に、慌てて返礼しながら本堂を出ました。
実は、その時既に、私の中に仏道へ引かれるものが芽生え始めていたようなのです。
とある日、年が明けたら、坐禅を始めようと思い立ちました。
アプリを取り込み、まずは3分からを1ヶ月続けました。
翌月は、倍の6分。
しかし、雑念が多い私は、ただ闇雲に長くするのは間違っていると思い、15分禅を続けています。
そうする中で、自分一人で御寺参りを始め、古本屋を回っては、気になった仏教関連の本を買い求めました。
勉強嫌いだった私ゆえ、小難しい本は読みたくありません。
比較的読みやすい本を選んでは、宗派問わず手にしました。
そうして出会った、仏道の世界。
私が、今も自分なりの道を歩んでいられるのは、初めて御参りした善光寺が、後に宗派問わずのお寺だと知ったことも、大きな影響があったのです。
私は私で良いのだ。
まだ浮き沈むこともありますが、様々な個性豊かな僧侶たちに出会うたびに、改めて「私は私で良いのだ」と励ましを頂いてます。
世界は、言葉で満ち満ちてます。1日1日、様々な形で自分に降り注いでます。
後は、私がその言葉を見つけて、手にするだけ。