下を見て安心するんじゃなくて、そういうことじゃないと怒ったり、私より大変じゃんと心配したりして、安穏なんて与えられやしないのでしょう。
それよりも上を見て絶望するばかりで。
自身の能力の向上を求める者には、実践可能なアドバイスをおくり、それが成功したら君は少し楽になってくれるのか。
仕事してないわたしより、仕事している貴方のほうが偉くて凄いことがなんの意味もなさないのなら……
わざわざ下に行くのも相手を持ち上げるのも疲れるだけだしやめてしまおう。
自己肯定感やポジティブさが何の役に立つのかいまいちよくわからない。
わかっているけれど、それだけで折れた足が治るわけないでしょう?みたいな感じ。
ポジティブであれば、そりゃあ、まあ折れたくらいで憂鬱にはならないかもしれないけど、『骨折してる』という事実は変わらないし治るまでは不自由だよね。と。
ないものにとっては、それで心まで折れないメンタルが羨ましいのかもしれないが。
苦しみや辛さがあっても元気でいれるだけで、痛いものは痛いと思う。痛みまで消えてると勘違いしそうだけど、そうじゃないことを忘れてしまいそうだけど、たぶん、そうじゃないのでしょう。
緩和させる方向が違うだけでとってる行動は同じの可能性。
『怪我』の痛みに対して、ポジティブになることで緩和させるか、ネガティブになることで緩和させるか……
我々はいつだって最適解をしている可能性はないの?
最適解をしているならば、なにも悩む必要はない気がするけれど、悩むことも最適解なら必要なことで……
犯罪は?
それを許すと面倒だよ?
頭の中ぐーるぐる。
そういや最近「ごめんなさい」について考えてる。
推しの子(アニメ)見てから頭の片隅に『安易に謝ることの危険性』があったのだけれど……
でも謝ることが必要な時もあるし。よく聞く、よく使う言葉が何気に深くて難しい。まあ、深くしてるのは私自身なんだけど。
謝ることで嬉しい、安心感を与えることもあるわけだし……
たとえば非を認める必要のないところで下手に出て謝ることで、相手を優越感に浸らせた方がいい場合があることもあるでしょう。
社会に出てたらなあ…… お客様を神様に仕立て上げたほうが都合がいい、楽な場合があるだろうからなあ……
「ごめんなさい」は、己の中の承認欲求を満たさせるのでは?シチュエーションによって、それは相手か自分か両方か。
「こちらが悪い」と、非を承り認めること。
「あなたが悪い」と、こちらが指摘した非を承り認めてもらえたこと。
それによって収まる問題数知れず……
ただ、きっとなんでもそうなのだろうが、
上に行き過ぎたり下に行き過ぎると余計に拗れたりしてね。火に油をそそぐ感じ。
言う側も聞く側も納得できる「ごめんなさい」じゃないと不快感増し増し?
どんな言葉もそうだろうけどなぁ……
だから人間関係難しいんだ。面白いとこでもあるけどさ。
おわり!
お疲れ様でした