人間は、勿論私も含め
、やっぱ自分のことしか考えてない。自分の立場でばかり物を言う。
仕方ないことだと思う。自分は所詮他人にはなれないんだから。
他が自分の持ってる傷を知らなければ分かってくれ、理解してくれと言い、他人の話は適当にあしらう。
他人の傷が自分と関係ない部分にあれば本当にそれは痛いのか?と疑問を持ち、自分にとって小さい傷に見えればそんなことかと鼻で笑い、それが同じ部分にあれば痛いね、辛いねと他人に投影した自分を慰める。
仕方ないというか
まあ、普通。当たり前のこと。私だって例外なくそう。
エゴで溢れてる。自己顕示欲で溢れてる。今、最も必要とされている人って、ただ聞いてくれる人なのかもしれない。
うんうん。そうだね。辛かったねって。
みんな話す人は要らないんだよ。自分が一番で、自分を一番分かって欲しいんだから。
仕方ないけど、醒める。自分も同じ人間な癖に、言葉の端にそういうものを見つけると醒めてしまう。
他人に醒めると、自分の言葉の中にそれとなく紛れ込んでる自己弁護にも醒めていく。
なんか疲れた。
ななしさん
心が疲れている時、本当に様々な捉え方をする事で、視界が快晴、霧雨とめまぐるしいものです。
傍聴人を求めるでなく、心の穴を埋めるべく寄りかかる存在を欲している訳でもない。
そういった者の一人から、お返事を。
波立つ心を静め、クリアに姿を映す鏡を得る上で、通過儀礼のように、無様な心ごと晒さなければ触れる事すら叶わないのが人間なのだと、私はそう感じてきました。
宛てメには、大きく全身を映す鏡があるからこそ、人が集い、疲れた体を横たえては脱皮していく様、変化が著しいようにも感じております。
変化する為に生まれてきたのだから、皆、初めから頼れるものは自分自身。
それぞれ抱える案件も持てる技量も異なるのに、自分ではなく他人を支点に掲げて生きて、ほんの少し、真理に近付いたなどと錯覚し、奢り高ぶる時、私は私という人間性に疲れを感じます。
小瓶主の疲れが何を起因とするものなのかは、私自身のケースと全く違いますが、疲れを癒やし、お元気でありますように。
ななしさん
私は、この小瓶と、同じような経験は幾度もしたことあります。
で、今思えば・・ですが、相手は相手で、
正直、問題あるな~とは、今でもやっぱり思いますが、
反面、こちらはこちらで、
「そういう話をしてもいい、心を開いていい
相手の人選ミスをしていた」とも思っています。
私の場合は、お互いが相手のことを大して知らないのに、
(付き合いの長さでなく、深さ)
ノリがいいとか、第一印象で(こちらの一方的な思い込み、決めつけ)
「この人はわかってくれるに違いない」で、グイグイ押していく癖が
あったので。
大体、わかってちゃん、は、自分が自分のこと受け入れられないから
他人にその役割を背負わせようとしている人種なんだから、
(自分のケツを自分で拭かない)
他人を対等に見る力があるとは思えません。
自分の延長に他人がいて、他人の延長に自分がいる。
言い方悪いけど、そういう人は自分の負の感情を和らげるための
「道具」(ツール)くらいにしか思っていないから、
いざ、相手が「私は私はしんどい」と言っても、見事にスルー
するのではないでしょうか??(やさしさがわからない人だと思う)
以上、オールいち、経験談。
どちらの側も、表裏一体。
まいたん