私は自分を自己犠牲をしがちな人間であると捉えている。自分以外の人間がどれほど自分を押し殺しているのかはわからないため、自意識過剰と言われればそれまでだ。だが、ふと思いついたので少し自己犠牲について考えてみた。
自己犠牲とは「自らを顧みず他者の利になる選択をすること」であると考える。そして、その根本には「他者の価値が自分の価値よりも大きい」ことがある。したがって、自己犠牲は自己と他者の相対的な関係で決まるため、①他者の価値が高い場合②自分の価値が低い場合の2つのパターンが考えられるが、今回の話で重要な点はそこではない。私が重要だと思う点は、あくまで自己犠牲は「他者の利になる選択をすること」であるという点だ。つまり、そこに結果は含まれていないのではないか。
極端な例を挙げてみよう。今、自分の大切な人にトラックが向かってきていて、自分がその間に割って入ることで、自分が死ぬ代わりに大切な人は助かるとする。ここで割って入る人はまさに自己犠牲の精神があると言える。しかし、何を考えてその選択をするのだろうか。もちろん、大切な人を死なせたくないという気持ちは大きくあるだろう。一方で、その選択の根本には、自分が悪者になりたくないという欲求があるのではないだろうか。割って入らなかった場合、自分は大切な人を助けられたのに助けなかったと思うだろう。それが嫌で自己犠牲に走るのではないかと考える。つまり、自己犠牲に結果(この例では大切な人が死ぬかどうか)は関係がない。もし割って入るのが間に合わなかったとしても、「割って入るという選択をした事実」があれば、自己の正当性は保証される。
長々と書いたが、つまりは、自己犠牲とは、自己を害しているようで自己を守っているものであるということである。いや、自己が感じる苦痛の種類の変換というべきか。精神的苦痛を肉体的苦痛や社会的苦痛に変換しているに過ぎないのである。