思考することが嫌になってしまった。
今までは、どんなに苦しくても、考えることだけはやめてはいけないと思って生きてきた。なぜなら、結果として起こる自分の行動の正誤はわからないが、その過程で行う「考える」ということだけは正しいと思うからである。
極論、思考するからこそ「ひと」であり、思考をやめれば、ひとはただの動く肉人形であると思う。
しかし、最近、頑張れなくなってきた。
思考をやめて、刹那的に生きたいという欲求を強く感じる。
このように主観的に強く感じる一方で、もう一人の客観的な自分が、それはフロイトのいう防衛機制にすぎないという。
客観的な自分がそれはただの逃避だと非難する。
そして、それはこの文を書いている今も続いている。
中途半端に思考を続け、知識をつけた結果、自分の中にもうひとりの俯瞰している自分が生まれた気がする。
いや、正確には、小学生の頃から俯瞰している自分はいたが、そいつに知識がついたような感覚だ。
自分の行動や思考全てに、第三者の解説がついているような感じといえばわかりやすいかもしれない。
この感覚は多くのひとにあるものなんだろうか。
それとも、自分はなんらかの異常をきたしつつあるのだろうか。