「死にたい」が口癖の自分をやめたいなと思ってネットで検索をかけると、たいてい「幼少期に家庭環境に問題があった」ってかかれてるのが不思議でたまらない。
小さい頃から親は良く褒めてくれたと思うし、一人っ子だったからたくさん甘える時間があったと思う。
確かに母子家庭で祖母といる時間の方が長かったけど、全然嫌がってなかったし楽しく過ごしてたはず。
だから、決して自己肯定感が低くなるような環境ではなかったと思う。
ただ、完璧主義が強すぎるんだと思う。
私が「死にたい」と漏らすのは、たいてい何かに失敗したあとや思い通りに計画が進まなかったあと。
理想と現実のギャップが大きすぎると、全てに絶望して「死にたい」って言葉がさらっと出てくるし、行動に移そうとするときもある。
親はそんな私を危惧してなのか、「適当でいいんだよ」「たまには手を抜いてもいいんだよ」と何度も声をかけてくれているが、それはそれで見放されたように思ってしまう。
周りはすごい人たちばかりで、自分がどれだけ狭い世界で生きてきたかを毎日突き付けられる。
自分を過信してたんだろうか。
幼少期に褒められすぎて、自分のことを過大評価してるんだろうか。
今思えば、特に学業面で叱られることは一度もなかった。
基本的にどの分野も平均以上で、少し努力をすれば上位にいけた。
怒られることが苦手だったから、素行面も常に気を使っていた。
とにかく褒められたかった。褒められるのがあまりにも生活の中心だった。
だから今の「褒められる要素のない」自分があまりにも不安定なのかもしれない。
褒められることでしか自分に価値をつけてあげられない?
他人の評価でしか自分に価値を見出せない?
いや、そんなことはない。そんなことはないはず。
自分ならできる、自分は優秀なんだって心のどこかで思っている感覚がある。
これは自己肯定感ではないのか?
他人の評価で無理やり自己肯定しようとしているだけ?
わからない、自分の気持ちも思考もどんどん飛んで行ってしまう。
こうやって自分に向き合おうとすると、なんでかむしゃくしゃしてしまう。
どこかに何かが詰まっているような、言語化が難しい感覚がある。
ああ死にたい、なにもかも忘れて死んでしまいたい。楽になりたい。生きているのは疲れる。
112866通目の宛名のないメール
お返事が届いています
ななしさん
こんばんは
お風呂に入っている時、家事をしてる時、仕事の帰り道、ふとした時に「死にたい」って呟いてしまいます
自分が不幸だとは思ってもないし、ある程度しんどいことはあるけど、本当に死んでしまいたくなるようなことはないです
どちらかというとかなり幸せな人生です
同年代よりちょっといい給料で、職場の人間関係にも恵まれ、仕事もそれなりに認めてもらっています
田舎ではあるけど、その分安い家賃で広い部屋に住み、友達もよく呼んだりしてます
高校の時は体調不良で引きこもりをしてましたが、今は月に2~3回ライブに通ったりもして、かなり人生楽しんでます
でも「死にたい」が口癖でふとした時に出てしまうんです
何でなのか調べてもうつ病とか、もっと本当に死にたい人のためのページしか出てきません
そんな時にこの小瓶を見つけて安心しました
他にも同じような人がいるんだなって
私も昔からそれなりに認められ、過保護すぎるほどに愛されてきました
最近の失敗もすごく昔の失敗も、よく思い出します
どんなに昔でも失敗したことを忘れられないんですよね
そうやって本当にしんどくなったら鬱映画を見て思いっきり泣きます
個人的に泣くとかなりすっきりするんですよね
感動系じゃなくて鬱系で泣くのがポイントです
これからもこの「死にたい」とは一生付き合っていくのかなって、それは嫌だけど、今だって幸せなのに思っちゃうから無理なのかなって
ななしさん
私も、何か生活の中で精神的負荷がかかったとき、何か嫌なことを帰宅途中思い出してしまったとき、何か嫌なことを言ってしまったりきいてしまったとき、同じように「ああ、死にたい」と言ってします。言った後に「また言ってしまった」と気づきます。
私も自身の家庭環境に問題があるとは思っていません。小さい頃から自己嫌悪をしてしまう性格でしたが、私の場合、高校卒業後もっとその傾向が強くなりました。頑張ってきたものが「成績表」という形で出なくなってからですね。そう考えると、自分では自覚していなかったのだけど、あなたと同じように私も完璧主義なんだと思います。
言霊はありそうですし、「死にたい」って言い続けると本当に死にそうで、最近は気分が落ち込むとき「死にたい」と言いそうなモヤモヤ心に湧き上がってきたなと感じるときは、嫌なことを消化出来るように、代わりに「まあ、いっか」と言うようにしています。
仏教では生きるということは苦しみだとも言いますし、生きるのって大変ですよね。
ちなみに、超個人的に最近の私を救った言葉は、叶恭子さん(叶姉妹)の「明日地球がなくなると思って寝ると安眠できます」です。
ななしさん
同じような感じで、検索かけて、こちらに辿り着きました。わたしも同じような経験、考えを辿ってきました。読ませていただいただけで少しだけほっとした気持ち?になりました
名前のない小瓶
死にたい死にたいとブツブツ呟きながらあなたの文章にたどり着きました。無意識のうちに自分で書いたんじゃないかと疑ってしまう程に私と家庭環境も思考もそっくりで驚きました。一文一文全てに深く共感します。
私も「もっと気楽に生きなよ」と言われますが、それが出来ないことに苦しんでいるし気楽になる具体的な手法って教えてくれない(存在しない?)んですよね...。完璧主義や失敗→激しい自己嫌悪の流れはきっと とにかく人生経験が足りてないからなんだろうな、と自分なりには解釈しています。
少なくとも今私はあなたの文章を読んだことで この生きづらさを理解してくれる人が同じ世界にいると実感出来て安心しました。救われたような気持ちです。
何の助けにもなれずすみません。いつか 少しだけでも苦しみから開放されたいですね。
ななしさん
怒られるのが苦手、というのは怒鳴られて萎縮するのか、自分が許せないのかどちらでしょうか?
もし前者なら、怒られ慣れていないためのかもしれない。
後者ならば、自尊心(プライド)が高い、つまり自己肯定の過大評価の可能性が高いかもしれません。
自己肯定感は、ありのままの自分でいい、たとえ能力が他者と比べて低かった(相対評価)としても、そのままの自分でいい、というものです。
自己肯定感とは、そもそも外国の考え方で、日本ではここ数十年で言われてきたことです(ゆとり教育)。
自分はできる、自分は優秀だ、と思っているきらいがある、と書いていらっしゃいますが、それは歴史が浅い教育方法の弊害なのかもしれません。
日本は、いまだに民族国家だし、協調性や共同性を重視します。
知らず知らずに、他者と比べて自分はどうか?という、相対評価の社会で生きているのです。
これは、一見すると悪いようにも見えますが、他者を尊重し、他者からも尊重されるという、極めて民主的な考え方でもあります。
だからこそ、日本は世界で唯一と言っていいほど、民主的で、平和で、調和のある社会なのですから。
でも世界的な潮流は、SDGsとか言って、マイルドな社会主義に向かおうとしています。
もちろんSDGsは、みんな違ってみんな良い(究極の自己肯定感)、貧困を無くそう、などいい面もたくさんありますが、民族的かつ民主的な日本では相反するもので、そう簡単には変えられないと私は思います。
難しいですけどね、「折り合いをつけて」生きていくっていうのが現代かもしれません。
以下はまだお返事がない小瓶です。
お返事をしていただけると小瓶主さんはとてもうれしいと思います。