自殺未遂に失敗した僕の備忘録です。
元々母親に虐待されていたり性被害に遭って色々トラウマがある僕は、常日頃から死を考え自傷行為が常習化してたり、首吊りしたりする程精神不安定でした。
11月1日、信頼する先生に固形物が食べられない事を相談し、徐に「死にたい」と口にした。
元々死にたいって何度も言ってたし明るく話したから重要視されることは無く、その事に絶望した僕はただぼんやりと今なら死ねるかもしれないと思った。
これが最後に出したSOS。
そのまま家に帰って荷物を置き、処方薬と溜め込んでいた薬を飲んだ。要するに過剰服薬、だ。
睡眠薬と精神安定剤、そして痛み止め。100錠以上の薬をコップ一杯の麦茶で流し込んだ。
途中、薬を噛んでしまって口の中に苦い味が広がった。「最期に味わったものはこんなに不味いものなのか」なんて考えていた。
飲み終わるとコップを台所の流しに置き、ふらつく足で2階にあがり制服のまま眠りこけた。
気付いたら病院。
1日眠りこけてるのを家族が発見して救急車を呼んだのだと後から知った。その時、元凶である母親は半狂乱だったらしい、ふざけんな。
鼻にはチューブが通されていて(後で抜いてしまったが)、暴れたのとフラつきが酷かったせいで腰と両手が拘束されていた。
確か不整脈とか誤嚥性肺炎も起こしてたらしい。
実は入院してから4日ほど記憶が曖昧(薬の影響)でここら辺の記憶は殆ど無い。
記憶がハッキリしてるのは入院してから5日目〜。
そこから退院までは優しい看護師さん達とお話したり、勉強に精を出していた。
自傷行為でズタボロになった手に優しく包帯を巻いてくれたのはとても有難かった。
時々病院の精神科の先生もわざわざ顔を見せてくれて、色々な話をした。初対面なのに話しやすい明るい方だったと記憶している。
そして退院の日は突然訪れた。
病院のケースワーカーと児相職員と僕で面談する事がいきなり伝えられた。
初めて聞いた時はかなりびっくりした、一体何故児相なんだと。その疑問には精神科医が答えてくれた。
実は記憶が戻る前、病院が児童相談所(以下児相)に過剰服薬をした僕の家庭では薬の管理などが出来てないのでは?と、通告していた。その時児相の職員がわざわざ病院まで来て事情を聞いていたらしく、ラリっていた僕は「家にいたくない」と言ってしまったらしい。これは大変な誤算だった。
(ちなみに普通は自殺未遂で児相に通告が行くことは無いそうです。あまりにも僕の家庭がおかしかったんだね)
そして面談が始まった。
要約すると、「また未遂するリスクがある子供を家には返せない」との事だった。
有無を言わせぬ口調で言われたこの言葉は、僕を壊すのに充分だった。
断るという選択肢は生憎存在しなかった。
僕は仕方なく児相に行くことを呑んだ。途端、涙が溢れてきた。
その時病院のケースワーカーさんが泣きながら言ってくれた言葉を覚えている。
「さっきは笑いながら言っちゃったけど、14歳の女の子があんな量の薬を飲むなんて並大抵のことじゃない、救われない命もある中で折角救われた命なんだからどうか幸せになって欲しい。」
看護師さんとも泣きながらお別れした。丁度夜勤明けだった仲のいい看護師さんが2人もいて、2人に抱きしめられながら優しく背中を叩かれて「大丈夫、大人は優しいから。」と何度も言ってくれた。
そして泣きやまぬまま、児相の車に乗せられ通っていた精神科に向かった。
案の定精神科医にはお灸を据えられた。元々信頼してなかったのでトラウマも家族の話も殆どしておらず、それが唯一の救いだった。
そして児相に行った。
児相にいた日は3日もなかったが、性被害の影響で大人が苦手だった僕にとっては地獄のような日々。毎日泣きじゃくっていた。
精神不安定だったせいで集団生活は送れず、日中は静養室で過ごした。
食事には手を付けず、最低限水だけ飲んで過ごした。自分の勉強道具も自由に使うことが出来ず、トイレに行くのも申告制。自傷行為を隠すための包帯を巻くことすら許されず、自由は殆ど無かった。
自分のいた静養室柱には色んな人の落書きがあって、「死にたい」「帰りたい」と切実な悲鳴が綴られていたのを克明に覚えている。
そんなこんなで児相に入所して3日目、家族と面談し、無事帰れた。
事情を知ってた友達や先生方には沢山心配をかけてしまっていた。「生きててよかった」って何度も何度も言われた。心配かけてごめんね。
まぁ母親は自分の立場ばかり気にしていましたが笑
こうして無事(無事ではないけれど)元の生活に戻ることが出来ましたとさ。おしまい。
ここまで長々と稚拙な文を読んでくれた方、ありがとうございます。
この文が誰かの役に立つことを祈ります。