言葉の選び方というのはとても大事だと思うけど
その言葉を誰が発しているのか
どんな場面で発しているのか
それが相当重要だなと思う。
常々思ってることではあるんだけどさ。
たとえば、同じ「バカ」という言葉に
愛情が籠ってることもあれば
拒絶や見下すような感情が伴ってることもある
自分が流したお返事の中に何度かこのたとえは使ってきたんですけど
このことに関してちょっと自分の考えを落としておきたかったので、小瓶に。
* * *
「頑張れ」って言葉についても色々議論が交わされるね。
頑張ってる時にさらに頑張れってどういうこと?って。
でもなー
「頑張らなくていいよ」って言ってあげられる人は
その人のこと一緒に支えてあげられる人だと思うんだよね。
「頑張らなくていいよ」って言葉は優しそうに見えるかもしれないけど
反面無責任さもちょっと感じちゃうから、自分はあんまり使えない。
相手がもしほんとに「頑張らなかった」場合のリスクをさ、
考えもしないで「頑張らなくていいよ」なんて言えないなぁ、と思うことがある。
たとえば誰かの、重さを取り除いてあげたくて
「私」がこれからもその人を支えてあげられないなら
「頑張れ」も「頑張らなくていい」もさして変わらないんじゃないかと思ったりする。
だって頑張らなくちゃその人は今後生きていけないかもしれない。
今辛いその人は今踏んばらなきゃもっとつらい目にあうのかもしれない。
「頑張れ」が悪いわけでも「頑張らなくてもいい」が悪いわけでもなくて
「頑張ろう」って言おう、っていうのもなんか違う。
画面の向こうの誰かにお返事をするとき、そういうもやもやした気持ちで
なんとも歯がゆくなったりすることがある。
もちろんね、明らかに頑張りすぎちゃってる人に、「休もうよ」っていう意味で
頑張らなくていいって言っちゃダメ、というわけじゃないんですわ。
ただ、人によって抱えてる問題って色々複雑じゃないですか。
それで、安易に「がんばって」「がんばらなくていい」って言えないな
なんて思うことがあるんです。
* * *
「生きたくても生きられない人がいる」
という言葉も同じね。この話は少年Aさんのブログでもこないだ出てたので、
そこにも思いの丈をつづらせてもらったんですが。
私は、この言葉は、「生きたくても生きられない本人」か
とても身近にそういう人がいて、その痛みを知ってる人しか
使えない言葉だと思うんですよ。
使えないというか、意味半減というか。
痛みを知らない人が使ったとしても
それはどうも軽くなっちゃうし、
相手の鎖をいたずらに増やして苦しめるだけじゃないかって思う。
けど、もし明日死ぬかもしれない恐怖におびえてる人がこの言葉を
明日にも死にたい誰かに使ったとしても
それが単なる僻みであったなら、言葉は効力を失ってしまう気がするな。
やっぱそれはエールとしてでなくては、真意にはならないのだと思う。
食べられるものがない人の苦しみと
誰にも振り返ってもらえずに孤独な人の苦しみを比べても意味はない。
苦しみや幸せは基本的には人と比べるものではないとは思う。
しかし
明日死ぬかもしれない可能性が濃厚な人が
今日も生きていたくないと感じる人に贈るエールは意味があるんじゃないかと
そうも思うので、「生きたくても生きられない人がいる」という言葉を
全否定したくもないというのが思うところ。
* * *
言葉というものは確かに難しい。
でももっと難しいのは
その言葉にどれだけの意味をのせられる人であるかというところじゃないかと思う。
宇宙飛行士がいう「地球は青かった」 と
グーグルで地球の写真をみた人の言う「地球は青かった」
のもつ重みは全然違うから。
そういう意味で、苦しみや辛さを乗り越えた人が魅力的であるという話には実感が伴う。
しかしながら
苦しみや辛さを乗り越えてなきゃ何も語れないのか
それが薄っぺらい人間であるということなのか
それは違う。
生きていれば色々経験する。
それを語れる人であるか、というところがたぶん大事なのだ。
べつに宇宙に行った人じゃなくても、身内が死んだ人じゃなくても
受験に失敗した人じゃなくても
相手の苦しみに触れることはできると思う。
共に喜ぶことはできるはず。
大事なのは
身の丈にあった言葉を使うことじゃないか。
言葉が大事というより
きっと自分の等身大でのことを語ることが
相手の心に伝える方法。
* * *
言葉をうまく操れるということは
自分の語りたいことを伝えやすいという点では少し便利ではあるけれど
やっぱり中身なのだということを思い知る。
宛名のないメールに流れてくる小瓶には
いろんな思いをもってお返事を流しかえす人がいる。
正論を言うのも良い。
反論を示すのも良い。
でもそういうお返事を返すとき
自分が何を思ってそういう返事をしたのか
理由や具体的な話がなければ
やっぱり大事なことはなかなか伝わっていかないと思う
人が人に語りかけるとき、
主張だけでなく思いを綴ることって大事だなぁ と
しみじみ思うことがある。
7ml
名前のない小瓶
33497通目の宛名のないメール
小瓶を1201人が拾った
保存0人
お返事が届いています
ななしさん
言葉には、その人自身の力が加わり重みや気配をもつ
そう思います
小瓶、その通りだと共感いたしました
ななしさん
なんと、「薄っぺらい」というワードで、検索してみたら、
この小瓶もヒット。
>綺麗事を軽薄に感じる人がいるのも事実。
薄いこと言われると腹立つ
薄っぺらなんだよ、あんたら
(・・という、書き込みが、運営さんのブログにあって、
薄っぺらいって書いてる小瓶を、
最近どこかで見たな~と思い検索)
なんとなく読んでみたら、薄っぺらいの反対方向を行ってたので、
読み応えのある小瓶なのに、お返事もないのが不思議で、
恐らく、掲載のタイミングで、サラ~ッと流れていったのだろうと
勝手に思いました。
読んでしまうと、「薄っぺらなんだよ、あんたら」
・・は、なんかもう、どうでもよくなりました。
>正論を言うのも良い。
反論を示すのも良い。
でもそういうお返事を返すとき
自分が何を思ってそういう返事をしたのか
理由や具体的な話がなければ
やっぱり大事なことはなかなか伝わっていかないと思う
わたしも、ほんっとに、その通りだと思います。
リアル日常生活でも、当てはまることだとも思います。
ここは、つぶやき小瓶を流す場所だけど、
家の日記じゃないんだから、掲示板の側面もある。
伝えたい、理解して欲しいといいつつ、
書く人はそこは、はしょる。(小瓶主も)
で、そのくせ、理解がないとプンスカ!。
なんだそれ。
私の場合は、その上で伝えてみても、いらんといわれたり
全然会話にならないときは、降りることもあります。
まー、しゃーないで、おわり。
タイミングの問題もあるので、
無理に交わらなくても・・もあるので。
(時間が経って、お互いに変化があって、意思の疎通が出来た
なんてこともあるし)
話ズレた☆すまん!
まいたん
ななしさん
運営ブログの書き込み経由で、
「薄っぺらい」で検索かけてみたら、
全然薄っぺらくない小瓶を拾えてうれしかったです。
(遅まきながら・・)
この小瓶、お返事がないのが不思議だったので、
不運にも流れてしまった小瓶のひとつ
なのかな?とも思いました。
こういう拾いかたも、おもしろいな、と思いました。
(特に、後半部分、激しく共感)
まいたん
ななしさん
【小瓶主さんからお返事きたよ】
まいたんさん
2回もお返事ありがとうございます。
流れたとき、自分も検索しなかったらわかんなかったので(笑)
まぁ目にとまらないこともあるかな、それはそれでいいや
自分の考えの整理になったし、と思っていたのですが
やっぱり誰かと考えをわかちあえると
自分の考えがさらに深まって良いです。
最近思うのは、少年Aさんもブログでおっしゃってましたけど
「一人で背負うのは無理」
つまり
「わかちあえない苦しみも、ある」
ということ。
というか、「まだその時期に、自分が達してない」ってことも
あるんじゃないかということです。
共感にせよ批判にせよ、
自分のポケットにない材料ではできません。
「同じ経験」はなくても、せめて似たような種類の経験か
または、間接的経験(本で読んだ、人の話を聴いた とか)
がないと、やっぱり難しいところもある。
そういう意味で、自分のポケットにまだ入ってない状態で
無理矢理戦おうとしたら、そりゃ薄っぺらくなることもたぶんあるんですよね。
(…と、ここまで書いて来てRPGゲームのイメージ画像で頭がいっぱいです。
で、変な例えですが、まだ最初の村にいる段階でラスボスの「ドラゴン」のことなんか考えられなくて。でも、経験を積んで、村人の話を聴くうちに「西の果てにはドラゴンがいるらしい」→「ドラゴンってどんなん」って話が進んでいく感じ。Lv.1のときにはLv.100のことは考えられないけど、Lv.97の人には考えられるかもしれない。
「分かち合えない苦しみ」は、きっとまだ「時期が来てない」ということなんじゃないかなぁ。なんかゲームの話で余計わかんなくなったかもしれません 笑)
いらんと言われたり、全然話にならないときっていうのは
たぶん相手の受け皿がまだそろってない時なんですね。
「まだ」ってところに希望を残してますが
そのまま人生ゴールしちゃう人もいるんでしょうけども 笑
そりゃそれでしゃーないですよね。
全ての道は通れないですもん(笑)
とかくまぁ、どんな経緯であれ
拾ってくださってお返事を書いてくださり、ありがとうございました。
7ml
ななしさん
ごっ、ごめん!
お返事が、二つ載ってる!(お返事不要)
二つ目のお返事は、下書きのものを、
誤って送ってました!
ごめんね!
まいたん
ななしさん
全くです…
ななしさん
本当に重要なのはやはり、誰が言ったかではなく何が語られたか?のはずです。
誰が言ったのかに重きを置く人は、物事の本質を見ていません。
ななしさん
理屈は通っていても、経験が絡んでいないものは
説得力は薄いと思うことが多いです。
(偉人のコピペのようなもの)
だから、誰が言ったか?がわかっている場合は
その人の背景が若干なりとも見えるので、
説得力を感じる側面はあります。
ただ、それでも、相手を知ろうという気持ちが
あるひとの「それ」は、
それは文章に嫌でもにじみだします。
人柄が。
以下はまだお返事がない小瓶です。
お返事をしていただけると小瓶主さんはとてもうれしいと思います。