誰かの気持ちが分かる、なんてことはないということを突き付けられた。結局は、一方的な思い込みなのだと思った。誰かの気持ちが分かるなんて思うのは、ただの勘違いさんなんだと思った。
話してくれることが本当か分からない。伝えたいことが上手く表現できないこともあるし、本当の気持ちを隠して話すこともある。相手の気持ちってどう理解すれば良いのかな。体のしぐさや表情で読み取れることもあるけれど、わざとやっているのかやっていないのか、やっぱりそれも何が本当なのかを分からなくさせる。自分で自分の気持ちが本当の気持ちかさえも分かっていないときもある。共感なんてとても無理なのかな、共感ごっこじゃないのかな。人は表面上でしか関われないのかな。繋がった感じがするのは、ただの自己陶酔でしかないのかな。
何を基準に、何を信じて、他人とのコミュニケーションをとればいいのか分からなくなった。他人に対して「自分の見たこと、聞いたこと、感じたことは全部間違っているかもしれない」ということは、何をもって他人と繋がろうとすれば良いのかな。「完全に自分と他人が切り離されている感覚」に陥ってしまって、分からないものと関わるのが怖くて怖くて仕方がない。もう、「他人が得たいの知れないものに見えて」、ただ怖いです。
誰か、助けて。
名前のない小瓶
47145通目の宛名のないメール
お返事が届いています
ななしさん
(小瓶主)
小瓶主です。
●5通目の方へ
何度もお返事ありがとうございます。
私の気持ちをたくさんなぞってもらえて、とても嬉しいです。
どんなに守っても、傷つくときは傷つくのは分かっていて、だから、その傷つくときの深さが深くならないようにするために、仲良くならないことや信用しないことを心掛けているのもあるんだと思います。ちっちゃなことでも傷つきやすくて、一度でも傷つくことをされた人からはどうしても逃げてしまって、今の私ではどうしようもないです。傷ついても、それでも逃げずに一緒にいたいと思える人に会えることを諦めないようにしたいと思います。
ななしさん
5通目です。(これにお返事は返さなくともいいですよ)
ええ、謝らなくていいんです。
少し書き方が悪かったかなと思ったので、こちらこそすみません。
いきなり信じたり、心を開くのは難しいですよね。
だから、おっしゃられている通り、ゆっくり自分のペースで人と関わる上で、距離感を探って行けるといいですね。
むしろいきなり開ききっているのも危なっかしいと思いますし、自分を守っている状態からで全く問題ないと思います。
というかもう、あれじゃん、顔を合わせたやりとりではないけど、宛メでほんの少し、守りながらも開けてるんじゃない?
ダメだぞ、ちゃんと閉めとかないとー。(冗談)
相手の気持ちを考えた自分へ、疑いを持つ事も大事な事だと思いますし。というか、怖さやショックはあるかもしれませんが、小瓶内容に関してはむしろ、いつまで経っても大事なことに小瓶主さんが気づかれたんだと思います。
やはり人は、似た面もあり、違う面もあると思いますから、もし当てが外れたなら、いつもいつも上手くいくとは限らないのがまた厳しく感じる所ですが、出来る限り修正に努める心掛けがある事が大切なのではないかと考えています。
ここからは少し心して読んで欲しいのですが。
正直な所、似た面もあり違う面もあり、千差万別で、心も移ろう事があるので、だからこそ予期せぬ嬉しいと思う事も、その反対に避けがたい事態というものも少なからずあると思うんです。
追い込んでしまうような事を書いてしまうかと思い、心苦しいのですが、先の事はわからない上で、苦しい事や悲しい事に直面する事はないとは言えないんじゃないかと。(実際自分がそこでよく躓いてきているので)
余計なお節介に当たるとは思いますし、無理にとは言えませんが、どうか怖いままで構いませんので、もし動けると思える時が来たのなら、傷付くこともあるかもしれないと、そういった覚悟のようなものもあれば心の支えの1つになるのではないかと思います。
えーと、まあ、完全に人の心の全てが誰かにわかる筈もないと思うので、共感などは気持ちの一部の、更にほんの上澄みを汲み取ったものだと思ってくれると精神衛生的に良いのかな(苦笑)
ななしさん
(小瓶主)
小瓶主です。
●5通目の方へ
お返事ありがとうございます。
私は相手を信じてないです、傷つけられないように守りにいつも入ってます。傷つくのが怖くて、一線引いてしまいます。なので、「自分がまず心を開く」のは私にはまだ難しいです、すみません。
それでも、他人とコミュニケーションをとりたくて、私が傷つかないように気をつけて話そうとした結果が、「相手の気持ちをできる限り汲み取って」、「思いやり?をもって」、「他人ではなく、私自身の相手に対して読み取ったことにとりあえず自信をもって」、話せば良いのかなという結論になり、他人と話すのが怖いのが少し落ち着いた感じです。
「他人の思い」に共感出来て、繋がれていると思えるのは嬉しく思うのですが、他人から「私の思い」に共感され他人と心が通い合うのは、怖いです。他人のことが分かって、私のことは分かってもらわなくて良いです。分かられると見透かされてるみたいで、怖くなります。とても良い人だと思っても余計に心を閉じてしまいます。傷つかないように一定の距離感が欲しくて、親しくなるのが怖いんだと思います。
私は私を守りつつ、他人と関わっているんだなと、お返事を頂いて再確認しました。「他人を信じて、心を開いて、沢山心が通いあって」が、はじめは無理でも少しずつ人を選んでチャレンジしていくことが出来ればなあと思います。そういうことができる余裕がもう少し持てるまで気長に私を待ってあげたいなと思います。
ななしさん
それでも、自分の思う事と、自分を疑ってる自分。
その両方を基準にする事、信じる事しか出来ないだろうね。
俺も悩んだからわかるよ。
主さんが思ったように、間違いは確かに間違いだけど、間違えた事自体、あなたが行動して間違える事そのものは、決して間違いじゃないと思う。
…ただ、この悩みというか、疑問ばっかりは、深く考えなくても生きていける。
それでも、とても大事な、大切な悩みでもあると思う。
人が人であり、人と共に生きるために。
主さんに乗っかるんだとすれば、1つの思いやりの形を知るためにもね。
ま、以心伝心というものも、本当に、あるにはあるんだけどね。
それは本当に心の通う友達とでも言えばいいかな、自分がまず心を開いていれば、伝わるものも伝わるって感じ。
子供の時は特にわかりやすいと思うね。
自分の考え事を伝えたいだけのお返事でしたー。ちゃんちゃん。
子供は大人に、大人は子供に戻っていく。
本当には戻れないけれど、それは決して悪い意味じゃない。
全てにとって、とても大切な事なんだとさ。
ななしさん
(小瓶主)
人の気持ちは、隠されたところが多い。言葉の受け取り方も、その人の背景や状態を知っている知っていないとでは、受け取り方も変わってくる。ちゃんとその人と向き合いたいなら、そういうものを敏感に感じ取れる感性と知識が必要なのだと思う。こういう人だと枠にはめてカテゴリづけするのではなく、相手から感じたり分かったことを理解した上で、その人個人に対して向き合って私なりの行動を移せば良いのだと思った。見える部分や持っている知識は、相手と関わる上で私を落ち着かせてくれるものなんだと思う。すべてが見えないのは当たり前で、それでも見える部分があるのならそこから出来ることをすれば良いのだと思う。まずは、見ているものが間違っていたとしても、その前に私が見ているものに自信をもって関わっていくことが大切であるし、間違っていてもそこからまた分かってくることがあってて、そこからまた訂正しながら関わっていけたら良いのだと思う。人は常に変わりゆく心を持っていること忘れないように、少しずつ変化するその人を確りと見失わないようにしたいと思う。
ななしさん
(小瓶主)
小瓶主です。
●1通目の方へ
「私から見た私と、他人から見た私は違う」というのは、数年前に人から示してもらう機会がありました。こういう風に見てもらいたいと思っても、やっぱり違う風に見えてしまうんだなと、「他人を理解する難しさ」や「自分を表現する難しさ」を理解したつもりでしたが、まだ私には「他人の気持ちが分かる」という根拠のない傲慢さがあったのだと思います。それを唯一のコミュニケーションをとる際の方法としてすがっていたので、それが急に無くなってしまって不安が襲ってきた感じでした。
お返事を頂いて、「当ってた・間違ってた」「分かる・分からない」、そんなことよりも「自分なりに他人のことを思いやって考える」ことが大事なのかなと思いました。その考えてたことが例え間違いであっても、それで良いのかなと思えました。少しはホッと一息できそうです、ありがとうございます。
ななしさん
(小瓶主)
【小瓶主さんからお返事きたよ】
自分なりに考えてみました。
ほとんどの場合、ほとんどの人は、私みたいに相手の気持ちをそんなに考えた上で発言していないのかもと思う。ほとんどの場合、相手のことをほとんど考えずにコミュニケーションをとっているのかなと思う。そこには、相手の気持ちを考えるというものは、ほとんどなくて、ただ「社会性、一般的な常識や礼儀」という「共通のツール」を使って守って話しているだけなのかなと思う。それさえ守れば、あとは自分の思うたけを伝えてるだけでよくて、相手の気持ちを気にすることは、よっぽど大切なことでない限りないのかなと思った。
とりあえず、こんな風に考えたって怖いのは変わらないのだけれど、付け焼き刃的にこういうことにしておこうと思う。
ななしさん
分かるとか分からないとかさ、超えたところで考えてみない?
なるようになるんだってことの素朴さで生活してみたら。
色んな状況や色んな認識があるからね。
完璧に重なるなんてことはないかもしれない。それは完全に同一人物だ。
同じ目にあっても違う対応をする人もいるし、同じ場所で隣り合っていても違う対象に注目している人もいる。
でもね、全く分かり合えないって事もまたないんじゃないかな。
あなたの疑いは多分合っているところもある。私もそういう感覚になったこともある。でも、それこそがまた行き過ぎると勘違いなのかもしれないよ。
頭や心がこんがらがってしまったときは単純にするんだ、自分が単純なら世界も単純かもしれない。
私は共感ができなくても世界は回るから平気だと今では思っている。虫や花やペットや微生物や赤ちゃんの世界は余計に分からないでしょう。でも、私たちはここでこんな風に生きているし、どうにかなっているよね。そういうことだと思うんだ。
でも、もしも、あなたが基準や信じるものが欲しいというのなら、それは、やっぱり、色んな経験をするしかない。
経験というのは知識でもあるし感覚でもあるしとにかく色々なことで勿論それは自分自身についてもだ。世界そのものの雰囲気もそうだしそっと触れて味わってみること。
そこでようやっと見えてくる道もある。
……そんなに怖がらないで。君にとっては私が君で、私にとっては君が君だから。得体が知れないのはお互い様かもしれないよ。だから、大丈夫。
物事への感じ方が十人十色だとしても、この様に在るとか為るってことは同じだよ。どうしたらいいか分からないって袋小路に入り込むこともあるけどさ、やっぱりある程度っていうものは実は相互に示されているものなんじゃないかな。
分かっても分からなくても私たちは同じところにいるよ。思い込みでもいいんだよ。それが互いの心を楽にするような思い込みならね。
以下はまだお返事がない小瓶です。
お返事をしていただけると小瓶主さんはとてもうれしいと思います。