なぜ自殺してはいけないのか
38億年前に暗い海の底で我々の最初の祖先が誕生して以来、この地球では、無数の生命体が生まれて死んで進化して滅びてを信じられないほど長きに渡り繰り返してきた。快不快の神経が生まれたのが、そして精神が形作られたのはいつ頃からなのかは知らないが、兎に角ちっぽけな人類史などとは比べものにならないほどに長い期間、無限にも思えるほどの苦痛と不快が様々な生命体の内に生産され続けてきたのだろう。
生命とは他でもなく生きる事、ただ在ることのみを目的として自律稼働する機械であり、そこでは幸福などと言ったものは二の次である。飢えて、外敵や寄生虫に貪り食われて、病魔に掛かって、肉体が破壊されて幸福を感じる生き物は皆無である。
なぜ傷を負うと痛いかと言うと、痛覚がそう感じさせるからである。ではなぜ痛覚などというものがあるかと言うと、生存の為に有用だからである。地獄を思わせるようなあらゆる肉体的ないし精神的苦痛は、生存に有用だから存在するのである。
それが為にやりたくも無いことを強要され、経験したくも無いことを経験させられるのである。我々は神経を人質に取られた生まれながらの奴隷なのである。
さて、論じるまでもなく、生きるということは辛く苦しいということである。億年以上続く生命史はすなわち苦痛の拡大と再生産の歴史と言ってよく、人間だけは、数百万年の人類史の内近現代に入ってようやく、すなわちここ最近のほんの数十(もしくは数百)年間、不快を避け快に興じるということが僅かな地域で一部の人間だけが限定的に可能になってきてはいるが、やはり基本的に生き物は苦しんで苦しんで苦しんで死ぬのである。
死後の安らぎは魅力であるものの、死の過程で発生する苦痛は飛びっきり過酷なので、仕方なくクソみたいな人生を生きているのである。それでも最後はやはり苦しみながら死に至るのである。
それでそんな苦しい人生を生きる理由にどんなものがあるのかというと、なぜ速やかに安楽な死を望んではいけないかというと、これがはて、どうも見つからないのである。
生きていればいい事があるかもしれないから生きるのであれば、嫌な事があるから、嫌な事しか無さそうだから死ぬという事が正当化される。そして今後の人生がどうなるかなどおおよそ正確に予想可能なのである。低いスペックで生まれた人間は大体不幸な結果に終わるし、状況による制限も存在していて、例えば容姿の終わった40代フリーターとか生きていてもいい事ないのは明らかである。フリーターが明日にはプロ野球選手になるなんてことなんて無いし、宝くじに当たるなんてことも普通に考えて無いのである。現実は夢や妄想と異なり、過去と未来が強固な因果で結びついていて、これは努力で持ってしても覆し難い。況や偶然の産物として得られるものなど大抵事態の悪化のみである。
やはり本人にとってどうかを考える限り、自殺してならない理由はないように思える。しかし、自殺してはならないという言い分が世には溢れている。では自殺を引き止める理由について考えてみよう。
好意的に思ってる人物の自殺を止めるのは単純で、居なくなってほしくないからだ。これは難しく考える必要はない。
身近な人の自殺を止める理由であれば、悲しいとか、なんか嫌とかそういうのだろう。なんか嫌というのは、仮に悲しくなくとも、例えば兄弟や子供が自殺したとか恋人や親友が自殺したとかは負担なのである。生徒とか部下とかもそうである。これは敢えて言うなら、子供が不登校とか引きこもりでニートとかと似ているだろう。経歴に傷が残るとか、人生の汚点、完璧で無い証であるとかそういう感覚であり、つまりある種のスティグマとして機能する訳だ。だから自殺はやめて欲しいとなる。
身近でなく好意的にも思ってない人の自殺を止めるのについては、まあ色々あるだろう。悲しいとかではない。むしろ悲しかったら変である。変であるし、大変でもある。世界では凄まじい勢いでどんどん知らない人間が不幸に死んでいるのである。いちいち悲しんでたら精神が持たないので、むしろ悲しまないのが正しい。
さて、では見知らぬ人間の自殺を何故止めるのかと言うと、一つには目につく範囲で死なれたらなんか嫌だからである。自殺を止めれる立場に居て、それで止めなかったから死んだかもしれないとなると後味が悪い。そしてそれをはっきり言うのは憚られるので、なんか自殺は良くないよと適当な事を言いつつ止めるのである。
もう一つ、それがマナーだからというのがある。別に誰がどこで死んでもいいのだけれど、止めましょうと世間では言われてるし、止めなかったことを誰かに責められても嫌だし、変なことを言って顰蹙は買いたくない。だから取り敢えず義務として、マナーとして、護身として自殺は良くないよと言っておく。
そしてもう一つに。自殺されると迷惑だし困る、というものがある。例えば普通の人は屍体とか見たくないのである。電車とかが止まっても困る。物件の価値とかも下がる。ともかく死なれたら不都合が生じる。だから自殺はやめて欲しい。もっと大きく見れば、働き手が減ったら共同体が維持出来ないので困る。農場や鉱山で働く奴隷が減ると困る。きつくてやりたくない仕事を低賃金で引き受ける底辺労働者が居ないと困る。まるで奴隷商人か何かのような言い分であるが、こういう自殺するなも存在する。他人が生きてたほうが美味い汁が吸えるのである。
自殺してはならない理由を自身や世界の論理に求めることは不可能である。だから他者や外部に求められるし、それを無視は出来ない。そこは、まぁ、いいとしよう。人間が社会的動物である事に異論はない。仮に自殺する事が多数を苦しめて殺す事になるなら自殺すべきではない。死ぬとしても何処までも身勝手で在るべきでは無いし、他者都合にある程度左右されるというのも、一応は理解出来る。
するとやはり先ほど挙げた他者の都合をどれだけ考慮する必要があるのかという話になってくる。しかし、
あれ…最初に想定してたのとは違う結論が出てきてしまった。場合によっては自殺したくても自殺すべきではないな。例えば、軽い希死念慮があるくらいで、そして死ぬと多大な恩のある相手が大いに悲しむというなら、これは我慢して生きるべきだよね。それが道理である。うむぅ。
一般的には、自殺してはならないなんて事は無いと思うんだけど、一概には言えないっぽい。
本当は世の中の自殺ダメというのは欺瞞だし勝手な言い分だよねという結論に持って行きたかった。まだ持ってけると言えば持ってけるんだけど、でもケチが付いてしまったので止めておく。
まとまってないし締まらない雑文だけど兎も角色々と言いたかったんだ。確固たる根拠もなく、説得力ある説明も出来ないままに自殺はダメだと説教して回ってるような人が考える切っ掛けになればな、と。
あ、そうそう、最後に。
決して自殺を推奨している訳ではないよ。自殺は良くないよ!と、表明しておきます。
名前のない小瓶
48013通目の宛名のないメール
お返事が届いています
ななしさん
人は、悩みが少しでも解決したり、だんだん苦しみが癒されていけば、なんとか生きていくことができます。
死にたい人は、その方法や生き方が、まだ見つかっていない状態なのでしょう。
まずは、その人の話をじっくり聴いてくれる人が必要だろうと思います。必要あれば、専門機関に繋げたりとか。
死んでしまっては、助かるはずの命が助からなくなってしまいます。
だから他人が、「ちょっと待って!死ななくていいんだよ。」と声をかけるのは、自然なことなのです。
たとえば動物でも、知能が高いほど助け合って生存しているそうです。人間が他人の死を防ごうとするのも、助け合いの本能からだと思いますよ。
ななしさん
書いてくれてありがとう。ほぼ同意です。日本が真の文明国を目指すなら、国家として死にたい人を安らかに死なせてあげるオプションも持っておくべきだと思いました。
ななしさん
人類誕生の昔話とか難しいことはわかりませんが…
こういう問題は人それぞれの答えがあっても良いのではないでしょうか?
きっと模範解答みたいな1つ答えが仮にあったとしても、みんながみんな納得はしないと思います。
ななしさん
支配者からすればこの世は天国。
それは大多数の社畜と言う奴隷がいるから成り立つ。
その奴隷たちが自殺をして減ってしまうと支配者の利益が減る。
ななしさん
自殺を選ぶなんて贅沢に過ぎないです。
いいことがありそうだから生きていこう
の逆は、苦しくても生きていこうが正し
く死んでいいにはなりませんので悪しか
らず。
論理的に論じるには悪魔の証明でしか
ないので理屈をつけるのは時間の無駄
です。
どちらも正しく、どちらも間違ってい
て矛盾を内包しているから。
ただ、現象として自殺をした人の家系
は不幸事が代々多くなるという実例が
あるので自殺はあまり許容しないこと
が望ましく思います。
まりちゃん
このひとは、あれかなー?
オレもここにいるよ!
生きているよ!
って、言いたかったのかなぁ・・この小瓶で。
名前のない小瓶
生きていたらいい事もあるし悪い事もある、悪い事の方が遥かに多いのだとしても。これは実感として正しい。
しかしながら死んだ後に安らぎがある、これは本当に正しいのだろうか。我々は生きている側しか観測できない。にも拘わらずなぜ死んだ後は安らぐと連想するのか。
それは人間は、というか生き物が本質的には死を忌避しているからだと思う。
世界には沢山の宗教がある。
ここからは持論なので詳しい人には怒られそうだけど、
例えば善行を積めば天国に、悪行を積めば地獄へ行くという考えがあって、だけどそれは本当は実証不可能で、それでも信じているが沢山いるということがその証明なのではないかな。死んだ後にどうなるか分からないから、疑問の解決策を規定する事で安心しようとしている。
ここで注意しておきたいのは、あくまでこれは死んだ後に本当に安らぐか、というためではなくて、死んでいない、生きている我々が死を想った時に安らぐための考え、という事。
天国も地獄も、死んだ人の行先として描かれているのではなくて、生きている人のために描かれているんだよ。
最初に天国や地獄を考えた人はきっと今生きる人のためにそれを考えたんじゃないかと思うけど、時代が経るにつれて、生き方の価値観が多様化して、命と同じぐらいの比重で例えば名誉が尊ばれるようになった(というか洗脳に近いのかも知れないけど)。切腹や特攻が正しいのかどうかは分からない。本人が望んでいなかったのならやはりそれは間違っているんだろうけど、命がある/ないではなくて名誉が残る/残らないの二面でのみ考えるのならば、理屈は通るかもしれない。
でも名誉のために死ぬのはやはり間違っている。名誉なんて時代によってコロコロ切り替わるからだ。1年1月1日生き延びるだけで死ななくて済むような基準何てあまりに脆い。命一個の重さは不変で、だからこそ価値がある。
都会では自殺する若者が増えている、らしい。
それはなぜかって考えた時に、命と並べる選択肢が増えたからだと思う。色々な病気が治り、色々な価値観が飛び交い、色々な責任を背負い、色々な配慮をし続けて、疲れ切ってしまったからだろう。選ぶ事が増え、迷う事が増えた世界では生きていくのは大変だ。自殺したってその後の処理すら頭に浮かんでしまう。
だけど思い出してほしい。去年流行ったものは今年も流行っているか。パソコンが登場して、ポケベルが登場して、ケータイが登場して、だけど今はもうみんなスマホやタブレットだ。あと10年以内には我々には想像もつかないものが流行っているのだろう。その時にみんな同じ価値観を持っているのか。例えば今英語が出来なくて苦しんでいる人がいる。だけど自動翻訳のデバイスが出来たら、その人はもう苦しまなくていい。だけど翻訳の仕事に人はどうなる?仕事が全部なくなって苦しむかも知れない。
そんなもんなんだ。
今死ぬほど悩んでいて真っ暗闇で先が見えないように見えても、若しかしたら一年先には変わっているかもしれない。
綺麗事で、御都合主義だと怒るだろうか。
だけど絶対に起こらないと誰が証明できる?
やっぱり生きる事を第一に置いた方がいいんだ。
もしかしたら、この先の未来で、死んだ後の事さえ科学はメスを入れるかもしれない。その先の事はもう想像もできないけど。
何が言いたいかと言うと、私も自殺はしない方が良いと思う。
それは死んだあとどうなるか誰も分からないから。
そんな危ない事(死んでたら危ないもなにもないだろうけど)、誰かに奨めるわけにはいかないかな。
あとは、もう、私自身が誰にも死んでほしくないってだけ。
だって悲しいし。
どうせつまらない世の中なら、陽気なやつでも聴きながら騙されたまま生きていたい。
理屈はないよ。ただそれだけ。
ななしさん
そもそも、自殺してはいけないとは別に決められていない。
自殺は犯罪とは言われていない。
電車に飛び込み自殺をした人は、家族に多額の賠償金が行くけど、それは遺体の回収の経費や、路線の営業を妨害したこと、多くの人の移動を妨害したことについての賠償であって、自殺したこと自体への罰金じゃない。
だから、「なぜ自殺してはいけないのか」という議論自体が、あまり意味を成さないように思える。してはいけないという取り決めが無いのだから。感情論を訴えてくる人がいても、それは「人それぞれの生き方、価値観だから」で済む話。
赤の他人に自殺は悪い悪くないと言ってる暇があったら、自分の大切な人が万が一にも自殺でいなくならないよう、精一杯愛して幸せにする努力をした方がよほどいいと私は思う。
これが例えば「なぜ自殺者が減らないのか」ということなら議論の価値が大いにあると思う。
何らかの原因を突き止めて、「本心は死にたくないのに、やむをえず死ぬしかなかった人」「死なせたくない大切な人を失ってしまった人」をこれ以上増えないようにするのは有意義なこと。
烏羽
根拠や説得力があれば自殺を止める人が増えるのかというと、一定の傾向はあるのかもしれない。
ただ、必ずしもそれがあれば、全ての人が自殺を止めるか、止めるきっかけに繋がるのかと言えばそういう訳でもない気がする。
説得力や根拠がなくても、踏みとどまる人がいないとは限らないだろうし。
もし助けたいとか、自殺して欲しくない。そういう感情があるかもしれんのなら、大切なのは思いやりなんじゃないかなあと思った。
悲しいとか、怒りとか、もしそれが生れ出る根拠があるとしても、ない場合もある可能性もあるし、あってもなくても根拠なんてわからない事だってある。
そうなるとごちゃ混ぜで、根拠自体が判然としてない事もあるんじゃないかな。
理屈じゃなく感覚でしかわからない事もある。
要は、その経験のような部分が抜けている上で、なんというか身の丈にあってない言葉…かな。
そういう感じのになっちゃうと、変な感覚を覚えて困るみたいな事は思った。
そういう意味でなら、考えるきっかけに、俺としてもなって欲しいかな。
でも、難しい事に、誰かに対して、抜けているなと判断する事自体も、変と言えば変に感じる。
しかも、それを変と判断する事も変といえば変で…収拾がつかないな、こんな風に考えちゃうと。
ただ、俺も自殺は困ると思ってる。罪とか全ての人に対してどうとかじゃなく、感情的に悲しい事だと思ってるよ。
まあ、説得力があろうとなかろうと、人の人生に関わるんだから、それなりの覚悟がないと困るんだろうとは思うかな。
どの道軽々しく、生きてと言える事ではない…ってか、これもこれで人の価値観であって、押し付けられるものでもあり、逆に押し付ける事のできるものではないとも、考えられるんだよなあ…。
そこはまたそれぞれの人の価値観が、その時その時に判断するんだろうけどさ。
あくまで文面を見た限りでの話だけども、ぶっちゃけ真面目に言うと、機械という概念のそれと全く同じ働きを、人間のすべての要素に当てはめて考えてみると、論議的には微妙だろうと思っちゃう。
人と機械に同じような面はあるかもしれないと俺も思ってるけど、一言で言えば違いもあると思ってるから。
例えばだけど、生きる事の中で、幸せを知れば、それも生きる事の1つに加わる気がする。
生きる事を最優先する機械と考えられるとしても、自意識なのかなんなのかは、どんな種類があるのかもはっきりとは知らんが、意思自体が死ぬ事を望む場合もあるんだし、自律行動できる自立意思があると考えられるならば、二の次になるかどうかもわからないんじゃないかと。
ななしさん
むやみに引き止めるのも無責任だし、「死ぬのは最終手段にね」と言うことにしてる。
解放されるのにそうするしかなかったならしゃーない。
私には問題をぜーんぶ解決できるような力は無いし。
やることやってもそれでもダメなら仕方ない。
まぁ、あんまり迷惑かけない方法にしてね、と。
大切な人ならいなくなるのは悲しいけど、私のために苦しんでくれなんて言えないわ。
ななしさん
死を選び実際に死ぬには勇気がいる
けれど死を選ぼうとしている時点で勇気云々の話じゃなくなっているのかもしれない
もうどうにでもなれと。そんな気持ちが強いから「勇気を振り絞って死ぬよ」って事すら考えられないぐらいになっている。
他人は死を選ぶぐらいなら生きれば良いと言う。理屈はあっているのかもしれない。けれども生きていて辛い事ばかりで何もかも嫌になったら死にたいって思ってしまうのは当然の事であり、死ぬなと他人が言った所で何も変わりやしない。辛い事が実際に無いにしても感情が無気力になり、何に対しても意欲すら湧かず代わり映えのない毎日なら新しい事を始めようとするか?無気力になっている時点で正常な判断が出来ないんだから日々がつまらなさすぎたら人は死を選ぶ事だってあるんじゃないのか?極端な話だが、人によってどんな感情の時に死にたいと思うのかはわりと皆バラバラだったりもする。かといって死ぬ行動を起こさない限り、きっと必ず生きていて良かったなと思える事だってあるはずだ。辛い感情は辛いが、無気力も辛い。無気力になると他人に関心は無くなるし、趣味も面倒に感じるしな。奮い立たせられるのは、いつだって自分自身だったりするんだよな。
ななしさん
死を身近に感じている人、感じたことのある人は自殺しちゃいけないって素直に言えるんじゃないかな?
自分が死にたくないのに死ななくてはならない人であるか、あるいはそんな人を身近に知っているか
その人達からしたら自殺するって想像を絶するほど罪深いことなんだと思う
自分だろうと他人だろうと命の重みは同じなんだろうね
ななしさん
うーん、生命を受ける以上の奇跡が起きない事には苦しい人も居るから、悪いとかは思っていない。けど、何だろう…哲学的になってしまうけど、『有る』ものが、無くなること、が、勿体ないと感じるんだろうなあ。命が輝いていないこと、輝けないことは分かるんだけど、それでも、そこから、一つのエネルギー体が無くなる感じがする。そもそも、命が全て輝いていない世界はおかしいんだけどね。
以下はまだお返事がない小瓶です。
お返事をしていただけると小瓶主さんはとてもうれしいと思います。