虫と人。
体の大きさが違う。
人にとっては些細な風でも、小さな虫にとっては台風かもしれない。
人にとっては些細な温度の変化でも、小さな虫にとっては異常気象かもしれない。
虫の気持ちなんてわからない。
何故って、人間は虫にはなれないから。
そんなの当たり前のこと?
じゃあ、虫を人に置き換えて考えてみてみよう。
虫と人間は違う?
いいや、確かに違うけど、そうじゃない。
人の価値観や心のありようは様々だ。
それは物質ではなく、形のないものではあるけれど、たしかに存在していて、例えるなら大きさも、強さも、感じるものも、動き方も考え方もバラバラだ。
だから、虫と人間の、体の大きさ程の違いが、人と人との心の間にないとは、言えないんじゃないかと思うんだ。
それに、虫だけじゃない。
様々な生き物に例えてみても、それは同じような事だと思う。
虫と人。
命があるという点では同等のものだ。
無邪気に虫を殺したり、気付かぬうちに踏み潰していたり、過去を思い出してみても、どうしようもない、仕方のない事もある。
仕方がないと思っても、割り切れない思いを抱える事もある。
虫と人は違う。
だから、人の価値観から虫の命の重さを測る事は出来ない。
だからといって蚊などを叩き潰して良い理由にはならないし、叩き潰して悪いと言う理由にもならない。
だけど、人間の視点から、人間の解釈で、虫の命の重さを考える事も出来る。
もし自分と同じように思考して、別々だけど似たような感じ方がどこかにあって、そういう命を持っているかもしれない、と。
…そうとも。
そんなものは妄想だ。
だけど、人と人との関係に置き換えた時、人は知らない人の心をないもののように考えて行動し、傷付ける事はないか。
いつの間にか、知らない人の心と、自分の心が同じものだと考えて、人の心に上手く気付けない事はないか。
感じ方の違いから、意図せず傷付いてしまう人がいる場合はないか。
虫と人。
他人と自分。
そう区切る事は、きっと悪いものではない。
自分自身の心の整理をつけやすくする上などで、役に立つ事もある考え方だと思う。
けれど、同時にそう区切る事で、時に、頭の中に、高い壁を生み出す事もあるのではないだろうか。
例えば、信頼というものについてもそうだ。
お前は信頼できないと思う人がいたとする。
それは言葉通り、その人が人を信頼出来ないという事でもある。
だが、信頼できないと思うことによって、その信頼できない人への態度や行動が悪いものへと変化して行けば、当然その人自身も、心を開いたような行動を取りたいとは思わないだろう。
信頼したいと思えるような事も少なくなっていくだろう。
区切りも大切なものではあるが、人と人との違いを認めた上での、礼儀としての区切りと、自分と相手とを知り、その違いを知った上での、礼節を弁えた歩み寄りというものが大事なのではないかと思う。
虫と人ではない。
似たような所がある、人と人なのだから。
それでいて違いがある、他者と自分なのだから。
それが思いやりに繋がるものなのかと思うのだ。
それが思いやりに繋がってきたものなのかと思うのだ。
人間関係において、自分が出来る大切なんじゃないかと思えるような事を考える。
自分を考える。他者を考える。違いを考える。
何が思いやりなのかと考える。
それらに対する、一つ一つの、大切なんじゃないかという事を考える。
まだ見えてこない部分も多くあるが、見えてきたとしても、見えたとしても、私は考え続けたい。
とりあえず、疲れたのでここまでにしよう。
56520通目の宛名のないメール
お返事が届いています
ダークエンジェル
小瓶さん へ
”自分が今までやってきたから続けようと思っている、としか言いようがないかな。”
”人間…、人それぞれの、己が個人の持つものさしで、人を見て、判断したり、語ったりする。”
全く同意見です、わたしも何時も考え続けるタイプの人間ですから同じですね。
”それだけならまだ良いが、それで拗れる関係を見てきた。”
これもわたしもみてきましたしそれで傷つき「苦し」んでもいます、でも自分と他が違う以上しかたのない事だと思います。
”考え続けると言えば聞こえは良いが、それは悩み続けるという一面も含む。”
まったくその通リだと思います 「’Homo’は ’sapiens’に呪われている」と言う事かもしれませんね。
”またある種の、希望の掛かった、まじないのようなものさね。”
たのしい「まじない」をありがとうございました
またお話できれば幸いです。
烏羽
(小瓶主)
お返事ありがとう。
さてね、本当に考え続ける事が良いのかはわからんよ。
結局の所、本当は誰もが、何気なくやっていたり、通り過ぎている所で、立ち止まっている一人が自分。
ある一人は何気なく、苦労もなく出来る事。
ある一人は何も思わず通り過ぎていく事。
ある一人は悩み立ち止まるような事。
その現実の結果の違いや、感じ方、やり方の違いかね。
実の所、何が良いのか、行動によって良い事に繋げられる、繋がる事があるのか、さっぱりわからん。
しかし、自分のやり方を完全に信じられずとも、自分のやり方でしか出来る事もなく、真に頼れるものもなく。
他の人にとって考える事が大切なのかどうかは、自分が今までやってきたから続けようと思っている、としか言いようがないかな。
考えではなく、感じる段階で何か、自身にとって大切だと思えるものことに気付く場合や、その方が体感としてわかりやすいという方もいらっしゃるだろう。
考える事が苦手だという方や、自分の感覚を感じる事、信じる事が苦手だという方もいらっしゃるかもしれない。
まあ、言葉にすれば、あるいは意識していなかったと思えば、難しいと感じる事もあるかもしれないが、やっている事は自然で、然程でもないという話さね。
それぞれが当然に持っている感覚を、当然に使っているだけというか。
その中で、個人的に感じたり、考えたりという話。
それに、考えといっても、実体験から感じるものがあって、そこからやっとの考えだ。
行動も、感じる事も、考える事も、それら自分の感覚と向き合う事として、ワンセットだと思う。
決して万能でも、全てにおいて良いとも言えないものだからこそ、他のものに助けられてもいるし、助けてもいる。
人間…、人それぞれの、己が個人の持つものさしで、人を見て、判断したり、語ったりする。
感じた事から考えるにしろ、行動優先にしろ、多分、必ずどこかで、自分の当然と、他者の当然があるという事に気付くものなのかもしれない。
ちなみに、必ずしも脳の大きさは知能の高さを示すものではないそうだよ。
タコとか、カラスを見れば納得だね。
他の生き物だとしても、それぞれの感覚や、考え方のような、独自のものはわからないだろうけど、行動に思いが表れると考えてみるのなら、思いというのか、他の、種を隔ててはいても、同じ神経の通った上での感情というのか、一瞬一瞬で、意外とこう思ってるんじゃないか?と感じる事はある。
わからない事はわからない。
だから、こうなんじゃないか?と思う事を、お前はこうだ、と判断しきってしまわないようにするのが、私の経験からは大切なんじゃないかと思う。
その判断こそが、人の、自分の持つものさしだという自覚を持っていたいから。
それ以外の意味もあるがね。
自分の心と人の、他の心を混ぜて考えたくないんだ。
そういう自分を見てきた。そういうような他人を見てきた。
それだけならまだ良いが、それで拗れる関係を見てきた。
種が異なろうと、同じだろうと、同じであれば似ている所がわかりやすい部分はあるかもしれんが、本質的に言えば、重なるものは重なるし、違うものは違うのだろう。
自分としては、その関係性に、人も、別の生き物も、大した違いがあるようには思えない。
何が高等だとか、下等だとか、そんなものは人間の、誰かのものさしだ。
私の考えも人間のものさしでしかないのだが、多分、生きる上で求めてきたものが違ったりして、その中で得てきたものや、やってきた事、出来る事が違うだけで、何が上だとか下だとか、それは人の頭の中にしか存在していない。
小瓶では信頼について書いたが、「大人、子供」という言葉でもそうだ。
認識として良いとは思うが、良くも悪くも壁を作る。区切りとなる。
まあ、いい。
考え続けると言えば聞こえは良いが、それは悩み続けるという一面も含む。
考えようが思い悩もうが、何を得ようとするのか、そこから何を学ぼうとするのか、大きな事も小さな事も、真剣に考える。
真剣に考える事で起こる、それなりの問題もあるにはあるが。
どうせそうだ、自分の感覚、感情、思考、動き方、やり方、全て避けては通れない。
関係性に違いがないというのは、自分が見ているからだ。自分で見て、判断しているからだ。
だからこそしっかり、悩み、考えたい。
思いをなんとなく書いてみたこの小瓶は、ある種、自分への戒めのようなものでもあるし、またある種の、希望の掛かった、まじないのようなものさね。
ダークエンジェル
小瓶さん へ
すいぶん難しいお話ですね、でも私も一部は同感です。
私の場合は「猫」と「イルカ」
猫にだって感情はあるしイルカの脳は人間よりも大きい。
猫に人間の考えが解るだろうか?
人間はイルカの思いが解るだろうか?
でも「猫」や「イルカ」とも信頼関係はつくれる。
人間だっておんなじだと思うんだ、だって同じ「種」なんだもの。
すでに人類は「クローン技術」によって生命すら作りだせる。
だけど「心」は作れない「心」は計れない、でも「心」は確かに存在する。
考え続けるその事が実はとっても大切かもしれませんね。
「人間は考える葦である」by Blaise Pasca
以下はまだお返事がない小瓶です。
お返事をしていただけると小瓶主さんはとてもうれしいと思います。