生と死
生きるか死ぬか?
その境界線は何処に在る?
死にたい想いに取り憑かれる
1度その想いを抱えてしまうと周りの視界や頭の思考が狭くなる
闇に深海の深い深い灯りの届かない処に墜ちてしまう。
生きたくて生きられない命
望まないのに奪われる命
死にたくても死ねない命
望んでいるのに叶わぬ死
確かに生きなければいけない
でも何故なのか?
自分で自死を選んではいけない
でも何故なのか?
死にたい
と想う
死にたい
と言葉や文字に残す
その行為は許されるモノ
その想いや言葉を呪詛の如く吐き出して
あがなって足搔いて
生きて自分の足で進んで行く。
生きるも死ぬも楽じゃ無い。
と同時に
生きろ!
諦めるな!
と言う意見が在る
それはね、生きる意志と力がある者が言える言葉
生き残った者が言える言葉。
力無き者は?
思考が前や上を向けないんだよ
視界や思考が狭く狭く成ってしまうんだよ。
呪詛の如く吐き出して苦しくても生きていく。
57333通目の宛名のないメール
小瓶主の返事あり
お返事が届いています
烏羽
(小瓶主さんからのお返事不要)
すまんな、お返事があるとは思わなんだのと、しばらく宛メに居なかったので、気付くのが遅れた。
まあ、過去の事でもあるし、別に返答しなくともいいかなと思いはしたが、一応書く。
自分がどこを向いているのか解らなくなる時は、自分の足元、足先をよく確認する事じゃないかね。
自分なりの、自分という筋さえ通そうとして来たなら、人の体なんて、ずっと首が横を向いていようと、真後ろを向いていようと、ひっくり返っていようと、そうそう胴体までの線は曲がりはしない。
どこを向かうなんて考えなくとも、自分の足元…、何がしたいのかを見れば、感じていれば、大体進みたい方向へ行けるもんだろうさ。
そうやって無意識なりとも返事を書いてくださったんじゃないか?
言葉の表現なんてなんとでも出来るだろうがね。(何を込めて使いたいかにもよる)
マインドセットというのはあまりよく解らないが、気持ちのリフレッシュ、分岐点や心持ちの変化だというのなら既に書いた通りだ。
死にたい気持ちについて考え始めた事。
考え続けて、自分の中に、諦めた気持ちを見つけた事。
他に、強いて言うなら、宛メのなかで、人の意見、人がどう思って悩んでいるのかだとか、そういう事を考えたりで、この人に対して何が言いたい、自分はどうなんだろう、どういう要素を持つ人間で、どんな事を言えるんだろう、そう思い始めた事かね。
稚拙でデタラメながらそこから歩き出した。そこをゼロとして歩いてみた。
死にたい気持ちを抱えて、それでも潔くは死ねなくて、なあなあにその気持ちに対処する術を覚えてしまって、苦し紛れに返事を書き投げ続けてただけだよ。
単なる成り行きだ。大した心変わりなんてものはなく、その都度、死ななかったから、死ねなかったから生きてきただけだ。
あの時、自分がやって来たであろう事しか、流れも方法も思い浮かばなかったから、そう書いた。
今現在の十六夜さんがどんな心持ちなのかは解らないが、まあ、この時は自責の念もあったかもしれんがね、単に長くて読みづらい文章を繰り返し見たせいで、疲れてたんじゃないかね(苦笑)
環境だとか、運だとか、自分の力だとか、俺には詳しく解らん。(キリッ)
詳しくは解らんが、それなりに、ある程度は解るつもりではある。
全部関わってるし、全部大事だ。
だけど、それが本当に良かったかどうか、悪かったかどうか、上手く出来たからいい結果に繋がったかどうか、出来なかったから繋がらなかったかどうか、そんなものは生きている限り解る筈もない。
そうなんじゃないかと思う事は出来ても、確証などは取れないし、生きている限り物事の終着点など何処へでも行く。
何処へでも、何とでも作る事ができる。
人は確かに変わる事が出来る。
だが、本来的な性質、のようなものは、一片たりとも変わりやしないと思う。
そこを支える部分…、いわば、自身の内の、本質的なものを、どう活かすか。良しとするか悪しきとするか、そこからどのように使うか。
長所と短所は表裏一体とでも言われるように、見え方や感じ方、考えたり思い起こす上での概念などが変わるだけなんじゃないかってね。
自分や気持ちを根本から、何もかも新しくするなど土台、どれだけ医学や科学が発展しようと、人間の力では無理な事なんじゃないか。
少なくとも、それほど根強いものだと思う。
だから、向き合う事とも書いたが、自分への理解は役に立つのではないかと、ある種信じている。
自責はあったかもしれんがね、小瓶主さん自身がそうなってしまったのも、何が悪かったとか、どこに責任があったとか、事細かな事は流れ去った後だ、詳しい事は何も解らん。
ただ、思考や方向に心の目を向けなければ変わらないのではない。
ただ俺の書き方、表現が稚拙なだけだ。
他の方法もあるかもしれん。
俺には自分のやって来た道以外、大して解らんのでな。
それに、自分を責める事ではなく、まあ、俺自身それを知った時、気付いた時に自分を責めたからなんとも言えんがね…
後からではあるが、責める事でなく、気付く事そのものが大事なんじゃないかと思う。
心底から気付いた時、心から気が向いた時、足の向く方角へ勝手に加わってくれているものだろう。
人間の体は、そういう所は便利だと思ったりもする。
ネガティブだとかポジティブだとか、そんなものはどちらも同じもので、人がどういった要素をどう活かして、それに対してどういう意見や気持ちを持っているかどうかにすぎん。
元気というのも、無気力の一要因、無気力も、元気の一要因。
根性論でそこを変えれるという訳ではないがね。
実際、自律神経系の乱れから、つまり物質的な体の側面から精神の乱れが起こる事もある。
体を適度に疲れさせて、というか、自分がしたい時に、気が乗った時に、ストレッチ程度でも体を動かして、ゆっくり眠る事も大事かもしれないな。
そう言った面から、気持ちが好転しやすい状態になる事もあると思う。
あと、朝起きて、手や顔を洗う時、あったかい水よりか、少し冷たいと感じるくらいの水で洗うのも自律神経系のバランスを整えてくれるかもしれない。
それと、それが出来る状況であれば、辛いとか吐き出しようもない気持ちを抱えたりした時は、寝るといいっぽい。
出来なければ、一旦、3回ぐらい(2度以上であれば好きなだけ)深呼吸したりな。
体を動かす事で、多少なりとも気の変わりやすくなる場合はある。
自分自身で、確固たる意志を持って、変わらない、変わりたくないと思えば、また話は別だし、変わりたいと思って体から働きかけても、あくまで可能性を高めるだけだ、上手くいかない事もある。
人による、というしかない場合もある。
(厳密にいうと、説明し難いが、精神的な面や身体面、それぞれと、それぞれを合わせた上での様々な条件が絡むだろうからだ)
なので、もし機会があるとすれば、何度かやってみて、可能性を判断してみてほしい。
それなりにはあるんじゃないかと思う。
ななしさん
昔、何気なしに兄からお前、死にたいんか?と聞かれて、自分は別に死にたくないと答えました
でも、生きたくないんか?と聞かれた時、
違うと答えながらも内心では自分は生きるのが嫌なのだとひどく納得しました。
十六夜
(小瓶主)
鳥羽さんへ
お返事有難う御座います。
改めて読み返し、お返事も読み返し
涙が止まりませんでした。
上でも下でも横でも
向く
上や前を見ることは大事ですが
時として周りが見えなくなり自分が何処を向いて居るのか解らなくなります。
常に頭と心に在る疑問符。
何故、マインドセットを変える事が出来たのですか?
理由は書き込んで頂きましたが
その分岐点
その違い
その心持ちは
何処からなのですか?
人は変わることが出来ます
しかし、その本人が
その思考やその方向に目を心を向けないと
変わることは出来ません。
今はとてもとても視野が狭く
自責の念でいっぱいです。
いつも有難う御座います。
烏羽
下を向いて歩く事の何がいけないんだろうな。
俺は諦めろとも生きろとも思わん。そんなもの自分の意思だろうから。
死にたい中で苦しいというのなら、その苦しみと距離を取りつつ、何やかんややっていける方法もあるかもしれないと思っただけだ。
以前の返事を不快に思ったんならすまんな。
ただ、小瓶主さんだって、何やかんや苦しみながら、もがきながら、こうやって文字を書きながら、今フラフラになりながらも生きている。
今立っている、生きている分だけの、それなりの力はあると思う。
前とか上とか、後ろでも、下だろうが横だろうが何だっていい。
どこから目線なんだって気もするが、今あるだけのそれなりで十分だろうさ。
生きたくて。望まないのに。
死にたくて。望むのに。
全部それぞれの意思だ。
人を見て、誰かに言われて、それで生きるのか、生きているのか。
誰かが叶わなかった意思を継いで、それで生きていたいのか。
他の人があんなに死んでいる。
だから自分で命を絶つのも戸惑われる。
だけど自分の意思でもある。
苦しくて生きてる事が偉いのだろうか?
苦しみの中で自害を選んだものが悪いのだろうか?
そんなもの、結果の後付けでしかない。状況も苦しみも一人一人違う中で、優劣だとか付けようもないんじゃないかと思う。
自分の苦しみ。他人の苦しみ。
寧ろ、苦しみの中で、それぞれ生きていたという事自体は、凄い事としか言いようがない。
命とは何か、どこにあるのか、俺にもよくわかっていない。
けれど、人から教えられたもの、学び取ったものがあり、自分一人でここまで考えたり、答えを出せてきた訳でもない。
自分の持ってるものが、本当に自分一人だけで培ってきたものなのかと考えれば疑わしくもなる。
だからこそ、また戸惑ってもいたのだと思う。
…突然だが、何故、自分が死にたいのか、考えた事はあるだろうか?
前も書いたかとは思うが、俺の死にたい思いの原因は、自分が嫌いで、憎くてしょうがなかった事だ。
何をやっても上手くいかず、だから何をこれからやっても上手くいかないと決め付けて、諦めていた。
諦めた思いに縛り付けられていた。
本当はそこだったんだよ。
いつのまにか死にたい思いが出てくるにつれ、諦めた思いを使って、死にたい思いを補強していたんだ。
自分の失敗にヒヤヒヤして、不安で、逆に言えば、どんなに小さな失敗でも見落とさないように気を配りまくってる。
だから、自分の失敗を見つけては、「やっぱり自分には出来ない」と思い悩む。
気分は落ち込むし、諦めてるから自分の行動を成功させようという気力も湧かないし、改善しようともしない。もし改善しようとしてもすぐに失敗を見つけて止める。
何も変わらない悪循環だった。
背景も状況も違うだろうから、同じとは限らない。
だからこそ、俺が言ってる事が役に立つかどうかもわからんが、もしかすると小瓶主さんも、「〇〇だから」死にたいって部分があるかもしれないと思った。
死にたい思いや苦しみと向き合うのであれば、死にたい思いの原因から、自分が本当は何をしたかったのか考えてみるのもアリかと。
強いて言うなら、俺はそこから、自分が何に悔しがっていたのか、後悔していたのか、それに対して、今はどうすれば良さそうなのか考え、一つ一つ切り崩し、ほんの少しずつ、苦しむ事が減っていったのだと思う。
自分の小瓶とか読んで、同じ事について何度か考えたり、自分の気持ちをノートに書き出してみたりしてな。
失敗した時の自分の気持ちと向き合おうとした。
まあ、この小瓶を読むに、主さんにも主さんなりの苦しみとの向き合い方か、覚悟みたいなものがあったのかもしれんから、お節介かもしれんがね。
他人事ながら、少しでも、ちょっとずつでも、悩みながらでも、苦しみが晴れていく事を願いたい。
何が良くなるかも、ならないかもわからない。だからこそ、これからも苦しむかもしれない。
だが、生きていくんなら、耐えられない程に苦しくない方が良いと思うしな。
自分の判断は判断として、実際には良くも悪くも、これからどうなるかはわからん。
死にたい思いに縛られても、こうして小瓶に書けたであろうように、我に帰れるというか、比較的死にたい思いに縛られていないような時間もあるだろうし、また、縛られている時の自分の状態がどうなっているのかを理解する事が出来る。
今はあまり思い浮かばないが、視野や思考が狭まるのが困るのであれば、そこから、今までよりほんの僅かだったとしても、狭まらない方法を探す事も出来るかもしれん。
少しでも余裕を作るために、普段からの視野を広げ、気が付いた時にでも多角的な視点から見ようと心掛けたりとか。
…まあ、多角的な視点というと、他の人の意見を知る事である程度広がるとは思うが。
縛られている、狭まっていると感じる事があれば、考える話題を死から遠ざけたり、そもそも疲れたから止めようと、一旦考える事を区切ったりという事も出来なくはないと思う。
悩みたいなら思う存分悩めば、考えればいいのだと思うが、疲れてくると考えにも纏まりがなくなってきたりするしな。
(多分、ペースが落ちてきたとか、それなりに自分でわかるんじゃなかろうか)
たまにはぼーっと景色を見るだけの時間を作るのもいいし、景色というか、緑ある自然に触れてみてもいいかもしれない。
とにかく、小瓶主さんは自分が死にたい思いに縛られてる状態がどのようなものなのか、自覚できるくらいには視野が広がったんじゃないかと思う訳だ。
自分への理解はきっと、いや、必ずと言っていいほど、自身の役に立つんじゃないかと思う。
それが積み重なるからこそ、自分の力…というより、自分の支えのようなものになるんじゃないかと思っている。
少なくとも俺で言えば、こうして、聞かれてもいない話をさんざ書けるぐらいのもんにはな(苦笑)
以下はまだお返事がない小瓶です。
お返事をしていただけると小瓶主さんはとてもうれしいと思います。