LINEスタンプ 宛メとは?
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烏羽 さんの小瓶箱
烏羽
少し頭のネジが外れていますが、私は元気です。
Vtuberはいいぞ…

名前は、解る人に解ればいいという気持ち等から。
伝える事をはなっから諦めてるという意味ではないのであしからず。
烏羽さんのお返事(532通)
烏羽
いや、待て待て。

高血圧な上に無理に筋トレすると、血管が耐え切れずどっかしら異常が出る可能性がある。

筋トレをするなとは言わないが、心拍数の上昇というか、動機が激しくなる時には気を付けて、その都度、動機がある程度収まるまで運動量を緩めるなど、体を労って欲しい。
(水分補給を忘れずにな)

で、お節介かもしれんし、もう知っている事なら流し読みして欲しいのだが…

運動に関して、脂肪を燃やす為には有酸素運動が良いらしい。
有酸素運動というと、早歩きでやるウォーキングとか、縄跳びとか、フラフープ、自転車とかエアバイクとか、簡単に言うと動きが持続しつつ、呼吸を続けるものになる。
(筋トレも同じく。ランニングは、心拍数や血圧の観点から、あまり小瓶主さんへオススメできない)

因みに、食事の時、噛む回数を三十回程として意識するのも良いらしい。
満腹中枢を刺激して、食べ過ぎを抑止できるとよく言われている事もあるが、「三十回噛む」という行動も運動の一つになる。

どんな食べ物が良いか、詳しくは調べてみて欲しいんだが、玉ねぎや、納豆とかトマト(←脂肪の吸収を抑える作用もあるそうな)とか、血液がサラサラになるようなものや、血管を柔軟に、要は強くできる栄養が見込める食べ物を、意識的に摂るといいんじゃないかね。
(高血圧の時は塩分を控えるとかも大事だったような。あとは、カリウムのある食品の、適度な摂食とか)

ただ、食べ物に関して、カリウムにしろ、幾ら必要なもので、良い効果が期待できるとしても、栄養の取り過ぎは逆効果になる。
そのため、栄養バランスの良い、適度な食事が大事になる。(栄養価が高いからといえど、ほうれん草を偏って食いすぎると尿結石とかになる事も)

また、肥満だけではなく、高血糖による血管の硬化が、高血圧を招いている事もある。…が、一概にそうとは言えないので、病院の健康診断や、動脈硬化検査とかを受けたりで、医師と相談し考えた方がいいかも。
(相談された上の運動ならお気になさらず)

あと、食事制限について、もうご存知かも知れんが、お菓子などの糖分や、揚げ物の油などが一番カロリーが高く、太りやすい(脂肪の元になりやすい)。

(一応書くと、お菓子やジュースなどの糖分は大抵過度だが、米や根菜などの炭水化物や、果実やある種の野菜などから来る糖分は、そればかりをやたら多く食べるとかじゃなければ…、また飢餓状態のため、糖分を吸収しやすくなっているとかでなければ、過度の摂取にはなり難いし、脳や筋肉などが運動するための主要な栄養として、必要だから食べている。糖質制限ダイエットが流行っていると思うが、カロリー制限ダイエットでも同じく、すべての糖質を抜いたら逆効果になるので、栄養管理が大切になってくる)

意外にも思われるかもしれないが、チーズ(種類にもよる)や豚肉などに含まれる動物脂質や、タンパク質を摂っても、糖分や油に比べると、脂肪の元にはなり難いという事が解ってきているらしい。(運動していると尚更)

むしろ、タンパク質を取る事で、筋肉も付くし、基礎代謝(生命維持のための消費エネルギー)も上がるので、身体の脂肪を燃やし易くなる。
(かと言って、脂肪も必要だから蓄えているのであって、脂肪の全てを燃やせば、死亡リスクが高まる。体脂肪率は、女性だと20%〜29%が標準とされている)

逆に、タンパク質を取らなかったり…
基礎代謝のカロリーと、筋トレなどの運動量を合わせたものより低いカロリーの食事だと、筋肉が痩せてしまうので、体重は落ちても、脂肪を燃やす効率が落ちたり、脂肪が付きやすくなったりもする。

…ただし、脂肪よりも筋肉の方が重いので、身体のバランスによっては、178cmの身長で、90kg付近の体重がおかしくない時もある。
(ボディビルダーとかマッチョな人の話)

BMIと身長による適正体重や、体脂肪率を調べてみるとか、身近にあれば、体組成計を利用してみるとか…、とにかく、「体重が落ちて、痩せれば必ずしも健康になる」訳ではないので、そこの所はお気を付けを。

(血圧の高まる要因が一つなくなるので、下がる可能性はあるが、複合的な要因で高血圧になっている場合はその限りでないと思う。ただ、肥満度というか、内臓脂肪の減少は、動脈硬化などの予防や血圧の上昇を防ぐようなので、効果がある筈。知りたければだが、内臓脂肪の、大凡の測り方とかも確かあったと思う)

そういえば最近では、腸内環境を整えるのも良いと聞いた事があるな。
・・・小瓶の中の手紙を読む

烏羽
基本的に人間の判断力だとか、思考力とか、物を見た時の認識とか、みんな違うものだよ。
(メンタルも含めた体調とか、今までの経験の癖とかにもよってくる。)

初めてやる事に対してだって、ある程度、何かしらの共通点のある経験や、学んできた事を活かそうとしてきたノウハウ、そして心構えというのが、人それぞれ違ってくる。

また、極端に言えば、考えて何かをする人と、ぼーっと何となく物事に当たる人には違いがあるので、「初めて」という条件は同じでも、対応が違ってくる。
人それぞれ、過去から来るものを含めた現在の対応や、今までの経験から学んできた事が違うので、能力に「出来て当然」はないと思う。
(なので簡単さが違う。あるいは、「何が」簡単なのか、そこまでの手順がはっきりしていない為に見えていない、などが思い浮かぶ)

そりゃ、当事者というのか、周りに自分よりできない人がいて、何かしらの被害を被る時や、時間がなくて切羽詰まったような状況とかには、イライラしてしまうんだろうけど…

ただ、人として違いがあるという上で、例えば一言「見ればわかる」と言われても、「何が」という主語や目的の説明されていない言葉になってしまうので、大事な部分が通じない事も多い。

やってみた時に上手く通じるかどうか、気が向くかどうかは別にして、一人一人の速さってのも違うから、自身とどの程度の違いがあるのかを理解した上で、やり方とか注意点を教えてあげれれば、より的確な指示、アドバイスが出来るのではないかと思った。

その人の事は知らんので、肩を持つつもりでもないけど、たとえ状況判断が出来るとしても、判断出来る故の申し訳なさから認識や思考力が落ちて、やって貰った事へのお礼が言えなくなる、なんて事がない訳でもないし。

怒られていたり、ミスしたら尚更の事、焦ったりで自分が何を言ってるのか解らなくなるなんて事や、思っている事とは真逆の事を言ってしまうなんて事もある。
(人間の防衛機構が働くと、いわゆる逆ギレというか、無意識に怒りという感情が働き、上記の状態に近くなる事もある)

その人に関わった事がある、周りの人から、その人へ教える時、どう教えれば通じたかという、何かコツのようなものや、注意点はないか聞いてみるのもいいかもしれん。
・・・小瓶の中の手紙を読む

烏羽
人は本当の事も、嘘の事も言う。
人によっては、自分自身さえ、騙せてしまう。

だが、どうだろう。
自分自身のなりたいものを思い描く時は?

人は一瞬一瞬を生きながら、過去や未来という遠くも見る。

そうやって、社会という群れ、人間関係という問題、そういったものを起こさないよう、倫理観から責任を持つ。

国としての法や安全保障の観点から、国民に義務や権利が生ずる。

取れるのはその中で、己が選択しようと、選択した行動への責任だ。
流れに乗せられたようなものへ、体を動かしてしまった責任は付いて回っても、気づかぬ内に悪い流れへ入ってしまった事へ、どんな責任が取れるだろう。

取れるものは行動。これからどうしたいのか、だ。
強いて言うのであれば、それが、これから取れる、なんらかの責任へと繋がるのだろう。

答えや正解なんて、人間が概念として作ってるだけ。
一人一人の人間の中にしかない。

俺の今書いている文章だってその一つ、一人の概念の現れだ。
十六夜さんだって、そうだろ?「わからない」って事が一時の答えだって訳で。

なら、自分自身の内にある、知らない事がどれ程あるのかを理解していければ、自ずと見えてくるもんなんだろうさ。

一瞬一時の中で、これからどうしたいか、どうなっていきたいのか。
そうやって、人間は…、「何が良し悪しなのか」、「答えはあるのか」、現実と関わる自分の姿を、知ってか知らずか、つぎはぎに作り出しているものなんじゃないか。

真実や、現実という事実に近付こうとするのであれば、手段は違えど、重なる部分は出てくるのかもしれない。

それを人は共通点だの、普遍だの、真実だのと、認識するのだろう。

…だからこそ、それが、あくまで、「自身の概念」だと言う事を、忘れやすいものでもあるのだろうがな。

初心というものは、真の意味では帰ってこない。
だからこそ、初心を心掛ける必要があるのかもしれん。

少しでも手放さないように。
手放しても、もう一度作り上げられるように。

俺はその途中だ。

…柔軟運動をしてると解るが、随分身体が硬くなったものだな。
・・・小瓶の中の手紙を読む

烏羽
言葉ってのは難しいよな。

結局の所、言葉は自分の、一瞬の思いの、そのまた一部を表すものであって、他人に自分の「思いの全て」を説明できるかと問えば、そうでもなかったりする。

また、殆どの思いを言葉に出来たとしても、読み手側の解釈によって、部分部分伝わったり伝わらなかったりする箇所も出てくる。
(そういった事から来る、判断の難しさから、言葉に詰まる事もあるかと思う)

一言に「面白い」と言っても、「何が面白いと感じたのか」は、その言葉を発した本人にしか解らないか…、あるいは、その本人が、感覚的に、「なんとなく」発した言葉であるなら、本人にも解らない場合だってあるだろう。

(平和的に「面白かった」という言葉を解釈すると、「人1人の人生が知れて、興味深い面白さだった」と感じた所もあり、その言葉を使ったのかもしれないなと個人的には思う)

だけど、思いの丈を書いてみて、それを自身の目で見る事にだって、意味はあると思う。

その暗い話は、どんな風に悲しかったのか、あれは怖かったり、不安だったのか、悔しかった、怒りが湧いてきた、憎しみが湧いていたりしたのか。

また、色んな思いが渦巻いて、どうにも一つの感情、感情を表す言葉として捉え切れない事もある。

この小瓶で、小瓶主さんが言葉へと書き起こしたように、気持ちを言語化したものを読み返してみると良いんじゃないだろうか。

気持ちを言語化していない箇条書きにしろ、読み返してみれば自分の気持ちが湧いてくるだろうから、今回の小瓶のように、その気持ちをまた別の所(今回で言えば宛メの小瓶だが、ノートやメモとかでもいい)で書いてみると、少なくともご自身の気持ちは解ってくるんじゃないかね。

大きなショックのある出来事だと、人間、どうしても感情は揺れ動くと思うので、その中で、言葉を考えて説明する際には、言葉がまとまりにくかったりもする。

その点、気持ちを書き出す事でも感情の整理になる上、それを見て確認する事でも更なる感情の整理へと繋がると思う。
(延いては、説明する為の、言葉の表現の向上にも繋がる)

また、この小瓶の文章は、見た感じ、説明下手には感じないというか、状況説明も、小瓶主さんの気持ちも、俺の解釈が間違ってなければ多分、伝わってきていると思う。
・・・小瓶の中の手紙を読む

烏羽
…なんで、自立が出来ない中で、それでも誰かを助けようとする事がいけないんだ?

なんで、自分が救われたいから、感謝や自己承認を満たしたいから、それで誰かを助けようとしちゃいけないんだ?

酔いたいなら酔えばいい。

何が愚かなのかを理解しているのであれば。
何が困るのかを理解しているのであれば。
何が迷惑なのかを理解しているのであれば。

…恥ずかしくなるのは自分だけだろう?
本当の愚か者ってのは、自分を愚かだ、なんて思いもしないような奴だ。

理解があるのなら、それらに対しての対処だって考えられるだろう?

小瓶主さんは、手の届く範囲に手を出してるだろう。

自分にそんな力はないと思いつつ、助けたいと葛藤する。思いを綴った小瓶を流す。
それが今、その時に出来る、手を伸ばせる事だったんじゃないのか?

それは偽善、上っ面の見せかけじゃねえだろ。

少なくとも、カガリさんには、自分自身の内側を救おうという力がある訳だ。
もちろん、カガリさんの思う、手を伸ばしたい範囲の、苦しんでいる人を含めて、だな。

正直、悪いが、「メサイアコンプレックス」というのも初めて聞いたし、それ故に治し方とかも解らん。
それに、助けられるか助けられないかなんて、やってる途中、あるいはやった後でも解らん。

少しでもカガリさんの気が楽になる事、延いてはそれを見た俺の気が楽になる事は何かないかとは思ったが、結局出来るのは、自分の思った事を、倫理観を守りつつ、正直に伝えようとする事だけだ。

カガリさんにも、自分で立つ力というのか、ご自身の、内側を救おうとする、助けようとする力は、少なくともあるだろ?
人間、それぞれ違うとはいえど、それと似たようなもんだよ。

突然だが、俺は、命とかについて、こう考えてる。
「人間関係、人生、命、これは、自分と、他人とが存在して出来てるもの」だってな。

確かに、命は自分の、一人のものかもしれない。
だけど、誰か何かと関わった以上、食べ物を食べたり、誰かの知識や経験を知ったりする以上、他人との関わりの中で構築されてきた命なんじゃないだろうか、って。

…まあ、ここまで書いておいて、読んでくれているのなら、ズルイやり方かもしれんが、俺もカガリさんの命、人生の一部になるって事だ。

馬鹿馬鹿しい話かもしれないが、少しの時間でもいい、その俺を殺さないでくれや。

…いや、別にそんな深く考えなくても良いんだけどな、見ず知らずの他人だし。
それに、そんな見ず知らずの、わけわからん他人を、自分の命や人生の一部なんて考える必要性もないし、考えたとしても含める必要もない。
(気色悪い事を言ってる自覚はあるので、ドン引きしてくれても構わんよ、それはそれで笑えるからな)

でも、とにかく伝えたいのは、あんたは一人じゃない、孤独じゃないって事だ。

…だが、まあ、一応言っとくと、誰かを助けようとするのは、とても難しい事だし、それだけエネルギーを使う事だと思う。

だから、辛い時とかは、考える事もそうだが、控えめにしたり、疲れている時にはちゃんと休めよ。
ちゃんと休まないと、記憶とかノウハウとかって身に付きにくいらしいからな。

誰かの助けになる事が出来るかもしれなくとも、誰かから助けを受ける事があるとしても、本当に自身を救う事が出来る力を持っているのは、自分自身なのだと、俺は思っているから。
(精神的にも、物理的な肉体としても)

大きな、全体重を預けて、寄りかかれるような、そんな支えじゃなくとも、そっと側に寄り添うようなものでも、支えは支えだ。

抽象的な表現になるが、助けようとする側も、助けを受けようとする側も、どちらも寄り掛かりあって、互いに今にも倒れそうとかじゃなければ…
支え合いながらでも、支える力が少なくとも、立ち上がる、あるいは立ち上げる力を持つものだと思う。

至らない点があると感じれば、時間が掛かったとしても、成長すれば良い話よ。
(助けようとしながら、自分も成長しようとするのは、険しい道のりかとも思う。やりたければという話でもあるが)

辛い状況なのかもしれない。
こんなものはただの、意見の押し付けだと解っている。
だがそれでも、その救う力、立ち上がる力をご自分の手で手放して欲しくはないんでね。


…因みに、こういう流れを、態々計画して作り、誰かを信じ込ませようとか、都合のいいように丸め込もうとする演出をするのが、偽善っていう奴なんだぞ…。
(いや、別に俺はしてないが。本当に。…という旨を書くと余計に怪しく見えるの図)

それと、ある程度でも自分に酔ってる部分がないと、こんな、読み返してみてこっ恥ずかしい文章書ける訳ねーぞ!
(これが自分に酔っているという悪い人間の例でもある)

感覚的に書き綴ったから、俺のもまとまりなく、読み難かったかもしれん。
そんな中、もし読んでくれたのなら、こちらこそ態々、ここまで読んでくれてありがとうな。
・・・小瓶の中の手紙を読む

烏羽
(長くなったので、もし読まれる時は、お時間などに気を付けて下さい)

死が無かどうか、それは解らない。
死んだ後どうなるかなんて、生きている人間には解らない。
少なくとも、どうなのか俺に確証は持てない。

だから俺は、「死は無かもしれない」と仮定してもいる訳だが、来世はあるかもしれないとも思うし、ご先祖様の墓やら、神棚やら、そういったものへ向けて会話のような事をしたりもする。
死後の世界の存在を否定はしないよ。

(心当たりはあるので、言わせて貰えるのならば、話の流れから、それらのどれか一つを仮定し、話が進む事もあるので、もし宛メの中で、俺のそういう返事が不快だったという事なら申し訳ない。俺の勘違いだったなら、その周りの話はスルーして頂けると助かります)

ただし、個人的に、否定しないと思ってはいても、確証のない事はどうにも、自分の取れない範囲の責任として言いたくない事があるので、無いものとして扱ってしまう事がある。
その点、気を付けるように努めたいと思う。

ちょっと角の立つ言い方かもしれないが、「やったもん勝ち」という考え方や認識を決めるのは、その人それぞれだとも思う。
(やったもん勝ちで、やられ損なのかと言われると、そういう状況もあるし、そうじゃない状況もあるから個人的には一様に判断できない)

また、この状況、俺の立場から、正直かなり憚られるが、様々なものことに対しての考え、認識や判断から、どのような行動へと移るのかが、人それぞれが背負う事の出来る責任って奴じゃないんだろうか。

修行だと思うも、来世があると思うも、それは人それぞれの考えや、宗教、生きる上での心の支え、あるいは一時一瞬の人が為せる愛って奴なのだろう。
(認識や判断からする、行動の種類の話)

この世の殆どの事なんて、ちっぽけな自分、延いては人間が正しく認識できるのか、そもそも真実を正しく認識できているのかどうかすら怪しいと思ってる。

だから、考えの足場のようなものへと、自信が持てない時、こうではないかああではないかと、何か、信じようともするんじゃないだろうか。

その点、無駄かどうかという判断は、誰か何かに縋り、それに頼るではなく、根本としては人の言葉じゃない、自分の感覚で判断するものだと思う。
(人の言葉や宗教などの教えという、支えを、情報として含めた上で、自分の感覚)

生きている限りは、意味があるかないか、自分で行動して作り上げる事が出来る。
人間が言葉を作れたように、物事に対して意味や理由を考える事が出来る訳だ。

だからこそ、生きている限りは終わりじゃない。
生きている事自体が、意味の継続に繋がる。そう考える事も出来る。

意味の継続。つまり、生きているというのは、意味を作り続けている事、(多少だとしても)行動の余地があるという事でもあると思う。
だからこそ、生ある限り可能性があるからこそ、良い先へ、繋がる事を信じるのだと、そう信じる事が一つの支えになる事もあるのだと考える。

また、多くの古くからある宗教の経典には、この世の不条理や不公平に対してどう対応すれば良いのか、どう考える事で凌げるのか、大体書いてあるように思う。

この世の不条理や、理不尽さに、心折られないように。
折れる程に心が傷付いたとしても、立ち上がれるように。
心を救うためにも、そういう「教え」って考え方や、倫理観…、いわゆる道徳って奴があるんじゃないかね。

で、それを否定されたのだと推測する上、もしかしたら自分のせいで傷付かれたのではないかという身の上からして言える立場ではないのだが…
否定された事で残酷な、ショックの大きい事柄が見えてくる時、小瓶主さんは、今までの考え方に関して、どうしたいだろうか。

信じ続けるか。新たに意味を考えるか。

他にもやり方は書き切れない程に色々あると思うが…、そこで思い悩む事は、無駄ではないと、無駄にはならないと、意味のある事に繋げられると、俺は思う。

命失われし時、残された立場が今後の為に出来る事は何だろうか。
比較し、不公平さを感じ、悔しく思った時、現実の自分に出来る事は何だろうか。
会いたい人に会えない時、故人をどう偲ぶだろうか。

例えすぐに自分の答えが出ないとしても、考える時間は無駄ではないと思っている。
何故って、何故かはよく解らないが、もう一度考えた時に、最初に考えた時よりも、考えがまとまりやすくなっている事が多いからだ。

この世の摂理や、真実なんて、俺には解らない。
だが少なくとも、先に進みたいのであれば、何かしないよりはマシだ。

辛い気持ちをどうにも出来ないまま、このままでいるよりはマシだ。
だから、もしかすれば小瓶主さんも、小瓶をここへ流したんじゃないのだろうか。

先程の「何が出来るか」に関して…
例えばだが、俺としては、「虐待される赤ちゃん」という状況がそもそもまずいので、それを防止、ないし、状況を知れる状態とはどういう立ち位置だろうかとも思うし、いざ子供を持つだとか、関わる事になるのであれば、そのような事をしないようにとか、自分も、もしかすれば虐待をするかもしれない危険性を心得て置くとか。

比較した時の境遇に関しては、人に迷惑をかけない範囲でストレス発散する(個人的に絵を描くとか歌を歌うとか、動物とか景色の動画や、音楽系のものを拝聴するとか。散歩するとか、など)事とか、比較している自分に気付けた時、その考えを止める事とかだろうか。
(他、止めるに相応しい自分なりの理由を考えて置く事で、何が困る事なのか解っていれば、止める以外にも取れる方法はあると思う)

会いたい人というか、故人の事だと思うのだが(解釈違いだったらすまない)、墓参りに行くとか、墓参りに行かないにしろ、何か、手を合わせて、心の中で語りかける…、つもりになるというか。
それで近況報告とか、挨拶でもすれば、通じる…かどうかは解らんが、俺はそうする。

参考になるかも解らん、この立場上、何を伝えようとも自己満足で、やったもん勝ちだと思いたくはないが、これこそ一方的なものなのかもしれん。

そう受け取られてもおかしくはないので、小瓶主さんに不快な思いをさせただけかもしれんという懸念はあるし、それだけに許されるとは思っていないが、今思い付く事は書いたつもりだ。

もしここまで、長い文章を読んで頂いたのならありがとう。
そしてごめんなさい。(盛大な勘違いだったら、それはそれですまない、なんか変な奴が来たなと笑ってやってくれたら幸いだ)
・・・小瓶の中の手紙を読む

烏羽
俺は自分の返事を書いた後、何書いたか覚えてない事なんてよくあるし、だから変な事書いてないかとかも気になるんで、気が向いた時には小瓶の内容を確認する為にも、マイページから飛んで見に行くぞ。

で、その繰り返しや、他にこの小瓶へ何かお返事したいな、なんか書きたいなと思いつつ言葉にならなかったりして、一つの小瓶に対して何度か見送っている内に、他の方々からのお返事や、それらに対しての小瓶主さんからのお返事が来ていたりする事も。
(そういう事も含めて、多分拾った数の表示が増える)

小瓶主さんのお返事を求めているかというと、なんだろな、運営さん方が忙しそうな時は、求めるような返事は極力控えるか、質問などで返事を求めるにしても短文にしようかな、とか思っている。

小瓶主さんからの返事が来たら嬉しかったり、また返事を返すなりでやりとりを試みる事はある。

逆に、自分が小瓶主になった時の立場としては、好きな時に、なんか思い付いたら返事を書くようにしてるかね。

昔はよく、出来るだけお返事してくれた人に対して、返すようにはしてたけど…
なんというか、そもそもが人間不信というのか、あんまり人と関わるのが好きでない事や、対面よりはマシだけども、緊張しやすいとかもあって、やりとりをする際に気になる事だらけになったり、感情的な面でパンクする事もあったんで。

まあ、気兼ねなく返せる時に返したり、気になった事や、どうしても伝えたい事があるって時には小瓶主としての立場から返事をする…、事もある、ぐらいかね。
(小瓶にお返事をする時もそれに近い感覚)

…いやあ、また別の話になるんだけど、多分、横沢さんに対して、状況を知らないとはいえ失礼な返事(親御さんがうんぬんかんぬん)をしてしまったかなとか今でも思ってるんで、正直どの面下げて返事をしたら良いのかガチで悩みながら返事書いたりしてました。
時期的にはもう結構前だと思うんだが、手前勝手に謝らせて頂くと、あの時は申し訳なかった。

あー、とにかくは、俺自身、小瓶主さんのお返事は、気付けたら読んでる事が多い、と思う。

小瓶主さんからのお返事は、強要したくないという事と、気兼ねなくというか、状況や都合を加味した上で、当人の気が向いた時にしてもらえれば良いかなと思うんで、来たら嬉しいけれど、期待はしてない、といった感じだな。

マイページ作ってない人とかもいるだろうから、そういう人が自分の流した小瓶に辿り着けるか、そこで小瓶主としてお返事を返せるか、って考えると、必ずしもそうではないだろうし。

コミュニケーションである以上、言葉の発信者にも説明する表現に日々のムラはある訳だし、受け手にも解釈のムラはあるだろう。

気を付けている上で、運営さんのチェックが通った返事があったとする。
その状況下で、もし返事の内容から、伝わるものに関してのすれ違いが起きて、悲しい事だがギスギスした感じになるのであれば、その状況で無理してやり取りを続ける必要性はないと思うんよな。

また、そういう状況だとなんというか、小瓶主さんや返事をした当人が少なからず傷付いて、その状態で即座に書く返事ってのは、経験上だけど心の動揺から荒くなったり、より誤解を招いてしまう可能性もある。

だから、もしそこで、お返事を送るとなれば、一旦落ち着くなり、書いた文章や、対象となる小瓶やお返事の内容をもう一度、あるいは念入りに何度か読み返すとか、慎重に、冷静に、あるいは感情を殺して、書き終えた返事を見直したりして、送る必要があると思っている。
(自分が出来ているかと問えば、出来ない事の方が多い故の反省点なのだが)
・・・小瓶の中の手紙を読む

烏羽
長話になるが、時間が許すのであれば、そして、もし気が向いた時があれば、読んで頂ければ幸いだ。

神と言うと、西洋感から来るキリストとかの、唯一の絶対神(God)、なんでも出来る全知全能、みたいなイメージがあると思う。

実は、これらのイメージは、元々日本に根付く「神様」感とは異なったものなんだそうな。

日本の神々は八百万。
様々な神々がいらっしゃり、それぞれ得意な事やそうでない事、言葉遣いが不遜ながら書かせて頂くと、出来る事や出来ない事があったりする。
(そもそも「神」という言葉が、大自然の擬人化だったり、「とんでもねえすげー半端ない畏れ多い方」みたいな、人間の偉業を称えた最上級の言葉だったりしたみたいだ。驕り高ぶるとか、権力問題とかで、生きてる人には使われなくなったようだが)

もちろん人間の都合にとっては、悪い事をする神様もいらっしゃる(祟り神とか、病の神とか)ので、神の悪意によって、生まれついて不幸な者が産まれているのかと問えばその可能性があると考える事は出来る。

ただ、捨てる神あらば、拾う神あり。…との言葉があるように、少なくとも「あらゆる局面の全てにおいて不幸な者」というのはいないのではないか、と思ったりする。

別の視点、神様だのを抜きに考えると、人それぞれの価値観というのか、「何をどの立場、視点から見て不幸と感じるか」という事はそれぞれ違い、かつ人生の中、次第に変化していくだろうなので、そういう意味でも全てにおいて不幸かどうかは…
俺には、人の人生も自分の人生も、これからの未来、一生涯不幸なのかどうか、判断できない。

もちろん、小瓶主さんには、そう考えても、それを凌ぐ程、大きな絶望、失望感、虚無感などがあるのかもしれない。

俺自身もそうなって、後遺症がない(多分、鬱病とか統合失調症的なものはまだある気はするが)という点で、軽いものなのかもしれないが、自殺未遂をした事がある。
(今は比較的平気)

だからそんな、保証できない、あるかどうか解らない未来に、希望を持てなんて事は、自分で確証を持って思う事が出来ない。

これは死ななかった、死ねなかった人間の言い訳なのかもしれないが、希望も抱けず、かと言って、抱く失望が現実に起こるかどうか、未来は解らないものだ。

小瓶主さんに対して、生きなければならない、などとは思わないが、生きている中で、少しでもその心の重みや苦しみが安らいで欲しいとは思うし、俺自身に対してもそう思っている。

また、話を変えるが(興味がなければ読み流してくれても構わんぞ)、人間というのは、似たような失敗をよくするが、決して同じ失敗などではなくてな、まず時間が違う。
時間が違うし、状況も違う。

それを何故か、「同じ失敗を繰り返している」と、度々判断してしまうものでもある。

それは何故かと考えると、恐らく、失敗した時の怖さ故、また失敗してしまうんじゃないかという不安故に、過去との共通点はどこかと、「目を凝らして、失敗を探しているような状態」になっているんじゃないかと思う。

だから、少し違う所のある失敗でも、同じ失敗として認識してしまう可能性があるのかもしれん。

だが、先に書いたように、時間が違えばまず違う。
時間が違うという事は、そもそもの状況が違うという事だ。

人はどうだ?自分はどうだ?
過去の時と、心情の中身に大差はないかもしれないが、回数も違う、時間による体調も、温度も、呼吸も、事細かに見ればまだまだ違う。

…読んでいると、何故、ここまで「違う」という言葉を連発しているのだろうか、…と思わなかっただろうか?

思っても思わなくてもなんでもいいが、「あの時と同じ」と思い、考える事で、俺の経験上、気が滅入る。

「あの時と同じ失敗を、また繰り返すのか…、自分は変わらないのか…」と。
(俺は後悔で立ち止まりやすい)

気が滅入るという事は、メンタル的にストレスがかかる。
…簡単にいうと、元気ではなくなるよな。

だから、もし「同じ失敗」だと考えてしまい、それによって気が滅入って、過去とは異なる、目の前の状況に対処するにも支障が出るようなら、「あの時とは違う」と考えて、「違い」を見つける。

「その違いは何か?」と集中し、少しでも考える事で、少なくとも態々、自身の気が滅入るような「あの時と同じだ…、出来ないんだ…」と考える時間を減らす事が出来る。

そしてその分の、元気と時間を、失敗した事のフォローや、その時起きている事への対処として、行動に繋げられる可能性を増やせる。

未来は解らない、結果も解らないが、態々不幸な方向へ進もうとする必要もないし、ある程度なのかもしれないとはいえ、自分の選択によって変化もしていくものだと思う。

(もし、人生に定まった運命とかがあるとしても、まず生きている中では、それがどんな運命なのか、何が定まっている事なのかなんて解らんべ。なんで、深刻に悩まなくても良いかもしれない)

…個人的なものなのかもしれないが、経験上、効果はある、と思う。
あるいは…、正直何がどうなって今の状況があるか説明できないが、何度も、上手くいかなくても繰り返してきたから、少しずつだとしても何かしらの経験が積み重なって、俺自身のやり方として確立してきているのかもしれない。

小瓶主さんの状況など知りようもなく、言いたくないのであれば聞く必要もないと考えたので、思い付いた事を書いてみた。

もしもではあるが、その点で悩みがあるのであれば、多少なりとも参考の一つになれば幸いだ。

読んでくれてありがとう。
・・・小瓶の中の手紙を読む

烏羽
手軽ではないけど、一番高いとなると玉露とか、次いでエスプレッソかな。

あと、抹茶はコーヒーとカフェインの摂取量が大差ないからおすすめ。
(茶には大体カフェインが含まれている上、日本人は茶をよく飲むので、ある程度カフェイン耐性がある傾向)

他、抹茶やコーヒーよりは低めだけど、紅茶とかも。

あと、紅茶などより低いとはいえ、麦茶とかウーロン茶とかにもカフェインは含まれているので、「1日のカフェイン摂取量」としてみると、多分そういった茶からの摂取量って意外と多いんじゃないかね。
(その分、「一回のカフェイン摂取量」としてみると、少ない訳だが)

因みに、あまりにカフェインを摂りすぎると、怠くなりがちだったり。
利尿作用などにより、水分不足になりがちだったりするので、別途、水分補給が必要になったり。

強心作用っつーか、過度に動機が激しくなったりして、心臓に負担掛かったり、高血圧の状態になる場合もある。

また、動機の激しさなどから、吐き気を催す事もあるし、恐らく周知の通り、睡眠障害になるので、飲む時間によって生活リズムを崩しやすいなどの点には注意されたし。

どれだけの分が、過度の摂取量になるのか詳しく知らんので、ご自身で検索して頂けると、多分俺よりも詳しく、解りやすい説明はある筈。

もしもカフェインによる良い効果を期待するのなら、多く取る事を意識するのではなく、適度に飲むのが良いよ。

デメリットを差し置いて、あんまり摂り過ぎてると、生物として耐性が付いていっちゃうから、カフェインの効果も薄まる。
(しばらく飲まなければ、大体耐性は下がるので、強いカフェイン含有量なのに効果がないと感じたら、個人差は間違いなくあるけど、最低でも一週間くらい間隔を開けた方が良いかも)
・・・小瓶の中の手紙を読む

烏羽
(やや文字数が多いので、もし目に付く事があれば、お時間や精神的な余裕には気をつけて読んで頂きたい)

多分、「医者」として、症状を治そうとする立場からすると、「ストレスの原因」となるものから患者さんを離して、症状を好転させようと努力するだろうと思う。

飛び込んだチャレンジは素晴らしいものだと思うが、それで身体を壊した、症状が出てきたとなるとな、どうしても状況から離れる事が頭に浮かんでくる。(その方が手っ取り早いし、少なくともストレス要因が減るので確実)

俺が今思い付くのは、ある程度、休む期間を考えるとか、予め退職後の事を考えておき、貯金やら、少しでも生活費の計算とか、生活状況を加味して、別の就職先を探しておくとかかね。

多分、資産の計算が出来れば(もちろん任意)、退職後どれだけの期間休めるかとか、現状で優先順位が高いのは「お金」なのか「退職して休む」事なのか判断を付ける時間も取りやすくなると思うし。

計算しないにしろ、極端な話、今取る行動は「自分の安全」な訳じゃない?
俺は医師でもないし、専門知識の裏付けとなる免許とかがある訳でもないので、鵜呑みにして欲しくはないが、「安全」を軸にして、何を優先した方が良いのか考えると良いんじゃないかと。

(体壊して動けなくなったり、ストレスで精神に過度な負担が掛かると困る状態な訳で。死ななければ、通院中という事もある、元気な状態になって復帰できる可能性もある訳だし)

これからどうするのかはご自身、延いては医師の方などと一緒に考えてみて欲しい事だが、チャレンジするにも体力は必要なので、またの機会を考慮するのであれば、症状が軽くなるなり、余裕ができた時に試すのが望ましいかなと思う。

他、今回チャレンジして、自分自身がどんな状況で、どんな状態になったか、なりやすいと思われたかについて、得た情報から対策を考えてみるとかどうだろうか。

対処法は、試す事も含めて、一回考えたきりで終わりじゃないので、逆に言えば一回で対処が思い浮かばなくても、余裕のある時とか、都合の付く時間を考慮しつつ、何回でも考えてみればいいと思う。

また、それを医師に聞いてみたり、ストレス発散や、休息方法(疲れが取れやすい休憩の仕方、睡眠など)について何かあるかと相談したり、調べたりも良いだろうし。

とにかく、まさまささんは身体壊す程に頑張ってらっしゃるんだし、それ相応に身体を休める時間も必要でしょう。
今こそは無理を控えて、無茶なさらぬよう。

あ、話は変わって、嫌いじゃなければココアなんかを一杯、如何です?
(こっちが勧めといて、行動するのは、まさまささんになるけれども苦笑)

この寒い季節、ココアってかなり身体のあったまりやすい飲み物らしくて、コーヒーとか度数の高い酒よりいいらしいでっせ。

(…というか、コーヒーや度数の高い酒には発汗作用や強心作用などもあるので、むしろ一時的に体温が上がった後、冷えやすかったりするらしい)
・・・小瓶の中の手紙を読む

烏羽
ええやん。
俺の考えてるイメージよりも、よっぽど感覚として解りやすい言葉の表現だと思う。

それに、小瓶主さんにとっての発見なんだし、いわばあなた自身の為の、考え方や、自分自身への向き合い方という基礎作りみたいなもんっしょ。

小瓶主さんご自身にとって解りやすいのであれば、その方がいいと思う。

あんまり関係はないけど、年齢に比例して経験数が多くなるとはいえども、年齢の高さが、経験から学んで身に付けたものの数や、知識の数を表しているとは必ずしも限らん。(不意の間違いや忘れている事もあるし)

誰しも、知らない事は知らないし、経験から何を学ぶのか、学ぼうとするのかというのも、運のような要素もあって、違いのあるものだ。
(それが一人一人の常識を形成する)

世間常識っていうのはそういう事の集合体だと思うので、一人一人価値観が違うのだから、一人一人の常識に重なる所があり、似る部分はあれど、それぞれどう思い、感覚として持っているかも違うものよ。
(また、だからこそ常識、マナーというのはその違いから来るいざこざを少なくしよう、思いやりのある行動を取ろうという、推奨される決め事、ルールでもある。法であれば義務だったり)

長ったらしくなったが、早い話、個人が口に出していう「一般常識」というものは「知っていて当たり前」という前提で使えるような言葉ではないって事やな。
(だから恥ずかしいという事はないぞ)

そうだな…、小瓶主さんの小瓶を見て、自分の感覚がどうなのか整理しつつ、文章として表してみたくなった。

個人的には、別の捉え方というか、また違った解釈からの表現なんだけど、過去も未来も同じものとして考えてるから、「最終的に今、どうすれば良いかへと繋がっている」というのなら良いんだと思ってる。

過去も未来も、どっちも見ようとしすぎたり、考え込みすぎると、どうしても「今」が疎かになりがちだからね。

…まあ、かと言って、未来や過去の事を考えないというのも、ちょっとした問題が出てきたりする。(予測や反省がなくなる)

過去と未来含め、今見えるものが何かを知り、それに対して何が出来るかを考える。
その、現在という地に、足がついている程度のバランス感覚というのかが、大事なのかもしれんと思っとるよ。

なんと言えばいいか、思考と身体の動きは、お互いがお互いを補い合っている、みたいな感じだからな。
己が身一つの上、誰か他の人に片方の能力を頼らない、という前提で考えると、どっちか片方が能力の高さや、実行回数として行き過ぎれば、片方を置き去りにしたままでは困る時が来やすくなるのかもしれん。

まあ、テストとか、仕事とか、車の運転とかしてたら嫌でも思い知らされるんじゃないかな。(俺にはどれもないが)
・・・小瓶の中の手紙を読む

烏羽
いや、確かに解らない先の事を考えても仕方がないとはいえ、意味はあるんじゃないかね。
それに、誰だって失敗しもするだろう、解らない事も知るまでは解らない。皆同じくして、何も恥ずかしい事なんてないと思うぞ。

それでな、自己へ思い巡らすのは、己の確立にも繋がるし、己を知る事で、自分の得手不得手、特徴を知る事ができる。

ともすれば、それを情報や行動として活かす事も可能になってくるだろう。
その活かされたものことが、悔いのなさや、幸せに繋がる可能性はある。

生きる事を考えるのも、それに近い部分があり、自己を意識する事とは、また別の面として、行動の支えとなってくれる。
いわば、信条というのか、自分自身が作り出す、自分へのための経典に近いものになるだろう。

ただし、住んでいる家が火事である時に、己とは何かと問う事が、状況に適したものなのかと問えばそれは違うのだと思う。

火事をなんとかするとか、まず己の身の安全を確保しなければ、生命維持が危うい。
己とは何か、生きるとは何か、何もかもを考える事が出来なくなってしまう、という事だな。(状況による判断)

己の人生が、これからどうなるだろうかと、思いを巡らす事も、意味がないとは思えない。

何故って、いざ行動し、先へと進めば、当たっていたかどうかの結果を得られ、外れていればどこが理にかなっていない考えだったのかを学ぶ事も出来、予測能力が鍛えられるのではないか?

まあ、あくまで、「鍛えよう」などという前提あってこその、意味の存在なのだが。
(一見無駄な事や、合理的に見てまったく理解不能な事でも、人に迷惑を掛けない限りは自分自身一人が楽しむ、というような意味はあるだろう。俺もたまにアホみたいな事をして一人笑うものだ)

個人的な意見だが、そもそも、「意味がない」と考えている事そのものが、その時の一瞬の意味なのではないかと思う。

動機が「なんとなく」だろうと、ちょっとした「とりあえず」だろうと、それは理由、意味だ。

小瓶主さんが「無意味」だと感じた事についてはそうなのだろう。小瓶主さんの思いを否定はしないし、そもそも出来ない。
だが、俺の中では、大したものでないとしても意味はあるんじゃないかと、そう思う訳だ。

ああ、一応だが、この世の全てに対してではないぞ。
無意味だ、無価値だと感じる事はあるからな、絶対的な事なんてそうそうないものだろう。

だから、なんだったか、マインドフルネスだったか?
絶対的に同じ状況なんてそうそうないから、一瞬一瞬を生きるとか、一瞬の対応だとか、そういうのが大事なんじゃないのかと思う。
(あれも一つの悟りよな)

まあ人間、何を意味とし、何を無意味とするか、己の手でそれを活かし、切り開いていくものなんじゃないのかね。
・・・小瓶の中の手紙を読む

烏羽
(長いので、もし読まれるのであれば、暇じゃないとか、寝る前とかにはあまりオススメ出来ないのでお気をつけを)

陰キャ、陽キャ、ねぇ。

ネガティブとかポジティブ、みたいなもんで、「どっちかっていうと」って話じゃない?

そんな明確に、極端にどっちかに分けられる人間なんておらんやろ。
少ないとしても隠と陽、それぞれが混じり合ってるもんじゃないか?

結局、陰キャはこういう奴だ、陽キャはこういう奴だと、概念を作って、レッテルを張っている。
そのレッテルが、自分はどっち側の人間だという判断や認識を支えている。

怒ってる時に、相手が何言ってても言い訳やらに聞こえたりしないか?
ちょっと抽象的な表現だが、失敗して悲しい時、自分に非があると思い責任感を感じて苦しい時、目に入るものの全てが、聞こえる話題が、自分の失敗を浮き彫りにしているような感覚を感じた事はないか?
(全部自分のせいだ、とか)

逆に楽しい時でもそうだ。
神様が見ていてくださったと、実際どうなのか知らんが、都合よく考える事はないか?
上手く行った時、絶対次からも上手くいくなど、楽観的に考える事はないか?

そういうのと一緒じゃないかね。
自分の考えている事、認識している焦点。多分、目や耳、感覚器官から入ってくる情報を、そういったものの材料にしがちなんだよ、現状の人間ってやつは。

自分の身の事の延長線上から、物事を判断する傾向にある、とでも言い換えられそうだがね。

だから、そうだな、まず、陰も陽もそれぞれ面白い所、嫌な所は感覚としてあるんじゃないか?
陰と陽そのものに、どちらが良いとか悪いとか、そんなものはない。

あるとしても、それは人間の判断という奴で、陰でも陽でも、良い奴は良い。悪い奴は悪い。
少なくとも俺はそう思ってる。

陰も陽も関係ねえんだ、小瓶主さんのあんたが、ご自身の事を卑屈な所があると考え、それが嫌だと感じるんなら、それに対して対応すればいい。

(陽にも言える事だが、陰という立ち位置が「卑屈」を保証するものではないのに、いつのまにか「陰=卑屈」「陰=悪、恥ずかしいもの」などという図式が頭の中で成り立ってしまう事がある。これが、最初に書いた「レッテルの支え」から来る問題点)

別に性格を直せって言いたい訳じゃない。
ただ、まあ、もし仮に性格を変えたいってんのなら、物理的に、脳の思考回路が変わるまでは時間がかかる。
だから、最低でも3ヶ月以上は掛かると思った方が良いかもな。(気長に考えた方がいいかも)

また、急にテンション変わって騒ぎ出しても、「あいつ普段とキャラ違くね?」みたいに思われても仕方ないので、それも含めて少しずつ変えていくのをオススメする。

自分の…、嫌な行動を止めて、理想、もしくは理想に近い、取りたい行動を取る。
その回数を、日に日に少しずつ増やして行けばいいと思うぞ。

また、性格を変えようとしないにしても、卑屈なところが嫌なら、自分が卑屈になる時間から逃げる。という手もある。

つまりは、「今卑屈になってるな、反省点も見つけたのに、まだ必要以上に自分を責めてるな」と感じられたら、一旦考えるのをやめて、深呼吸したら良いんじゃないかね。

悲しい時に、わざわざ自分を責めて、さらに悲しくなる。
俺も卑屈だったから…、というか、今でも若干その気はあるが、これって悪循環だろ?

なんで、悲しい時に、さらに悲しくなるよう自分で誘導しちまってんのかっていう。

その時間を、失敗した事とかがあれば、反省点を探すなり、次はどうしたら良さそうなのか考えた方が都合もいいしな、そこまで考える気力がなくて疲れてる、あるいは考えても疲れて思い付かないってんなら、自覚がある時点で休むなり眠るなりが行動の選択肢として上がってもくる。

(面倒だったら、俺の文章もいっぺんに読み切らなくて良いからな)

勘違いして欲しくないんだが、「後悔をするな」って事ではないぞ。
「後悔をして、反省点が見付けられたら」それは良い事だと思うが、「後悔して、悲しんで辛くなって終わり」ってのは、避けたくないか?って事だ。

でな、間違いなく、価値観ってやつは変わる。

今、小瓶主さんがこの文字を読んでるとしたら、情報を得れるだろ?価値観ってのは、得た情報から積み重なって、作ったり壊されたりを繰り返しながら、少しずつ形成されていくもんだ。

性格というのかね、感情の湧く基準というのか、そういうものは変わりづらい。

だが、その周りの行動や、捉え方(都合が良い悪いの解釈判断。つまりは価値観の元にあるもの)などは変えられる。
それが巡り巡って、感情の発露や対処の仕方を変えて行く事に繋がるんだろう。(捉え方とそれについての対応は、地続き的なものだろうからな)

とにかく、なりたいとか、目指したい理想とか、そういう場所があるんなら、余裕のある時とか、自分が良くない状態にあるなどと自覚できた上で、手の届きそうな時に取りたい行動を取るよう心がければいいんじゃないか。

もしもやるんであれば、出来るか出来ないかじゃなくて、やってみたい、こうでありたいという小瓶主さんの気持ちを、一番大事にしてやってや。

新しい事をする時には、赤ん坊と一緒だ、自分がどう歩いて良いのかも解らんのようなもんなのだから、手探りになる。
それを得て、自分なりのセオリー、テンプレートみたいなものが見えてくるもんじゃないかね。

手探りってのは結構にエネルギーを使うしな、ちゃんと飯食って休んでくれよ。

あー、あと、寝る前は大体疲れとかから、ネガティブになりやすい傾向があるらしい。
そんな時は、目を瞑った時、暗い視界の中、ちょっとチカチカするような、してないような、ザワザワしてるような、なんか色々変わり続けるよく解らんものが見えるんじゃないかと思うんだが、それをボーッと眺めてみる(?)のもいいかもしれんな。

色んな色があるのかないのか、個人的には面白く感じる。

結構長くなってしまったが、もし読んでくれたのならありがとう。
・・・小瓶の中の手紙を読む

烏羽
「良い人は早く売れる」?
似たような言葉もあるな、「良い人は早死にする」?

結果論だよ。

大体は「良い人」ってのが惜しまれる大きな一要因だろうから、多くの人に共感される事で、目立つ意見だというだけなんじゃないか。
(まあ、良い人が早死にする傾向はあると思うけれども、それは「良い人」って認識されている人物像が、大体自己犠牲傾向が強かったり、そういった性格によって自分自身の身の回りの事や生活がなおざりになりがちだからだろう。そうじゃない括りでの良い人もいるって話だな)

そもそも、誰に言われたか知らんけど、良い人が「売れる」って、なんかおかしくないか?

良い人とされるその「当人」も、ちゃんと意思があって自分で動く訳だ。
当人の行動性、それにもよるだろ。

良い人でも番いとなる人が見つからないとか、良い人でもそこそこ長生きしているとか、ニュースや巷の話題に上らなくとも、そんな人だって居るだろう。

何を思って言ったのか解らんが、文面だけから底意地悪く捉えると、最悪、その人にとって「都合が良い」人と交際したかったのに、既に目当ての人に意中の人や交際相手がいた事を惜しんでいるだけだ、とも考えられてしまう。

小瓶主さんに何があったかはよく解らんし、聞いていい話かどうかも解らんので聞く気もないが、まあ、「良い人は早く売れる」ってのは状況に適した言葉ではないと考え付くので、気にする意味はないと思う。
・・・小瓶の中の手紙を読む

烏羽
(長くなりますので、もし読まれる時は時間や、メンタル面などの余裕に気を付けてください)

あくまでも個人的な意見なので、小瓶主さんの周りの方々がどう思うかはわからんけども…
相談されて面倒くさいかだとか、そういう事はひとまず置いといて、小瓶主さんが不安だとか、消えたいまで考えるとすれば、それだけ重要な事だと思う。

それは迷惑だろうとそうじゃなかろうと、信頼できる人に話してみたり、聞いてみるなり…、重要な事だからこそ大事になってくるんじゃないだろうか。

んで、誰かを頼りにするとか、相談するっていう事は、そもそもが他の人、相手あってのものだ。
(他人と関わらないと成立しないの行動なので、もし他人と関わる事が迷惑な事という考えがあるなら、仕方ない事として止めた方が良いかも。本来的には関わる事そのものが、「迷惑」だってのもまずないと思うし)

で、迷惑っていうのは…、例えば、誰かに何か頼るとしよう。

「迷惑」とは、その相手が不快に思うかどうかという話だと思うので、頼る時の態度や行動が如何に思いやりに溢れ、気持ちのいいものでも、相手にもともと、何か耐え難いくらいの嫌な事や不幸な事があって、見えるものの何もかもが嫌になってしまっているような場合は、感情的に当たり散らしてしまう事もないとは言えない。
(こういう場合、暴力を振るってしまった時にはその人が悪い事になるのだろうが、そもそもどちらに責任があるとかいう話ではなく、理不尽な事というか、悲しい行き違いが起こった、と俺は認識する)

また、そういった不幸な場合以外に、忙しい状況の中など、相談する相手に心の余裕がない時(時間内に終わらせたい、など、焦っている時)、「面倒くさい」と言われてしまう場合はある。

嫌うとか怒るとか、面倒、迷惑って、相手(自分自身)がやる事、思う事なので、結構、それこそ理不尽な事や、勝手な場合もよくあるもんだよ。
そんなもんなので、そういう一つの考え方から見てみれば、皆生きてるだけで少なからず迷惑をかけてるし、その点を小判主さんが気を付けて、行動に活かせているんだったら問題ないんじゃないかね。

(人によって、何を嫌がるか、譲れない一線だとか、何を迷惑だと思うかは少しずつ異なるので、行動が不安であるのなら、一人一人を知る事も大切かもしれないと俺は思う。
その人の性格、特徴などがまだ解らなかったり、自分のやっている事、気を付けている点が不安であるのなら、せめて自分がやられて嫌な事はしないとか、思いやりを意識して行動に移せていれば良いんじゃなかろうか。間違っていると感じたら、その都度変えていく他ないし)

それに、まあ、嫌われたり怒られたりするのが怖いっていう感覚からかもしれないけど、それはそれとして。
そもそも他人への迷惑だとかを考えて行動できる人も少ないように思うし、立派な事だと思う。

ただ、話を戻すと、親密な関係というのか、仲の良い家族や、仲の良い友達、そういった中でも信頼できるような人なら、話せばちゃんと聞いてくれるかもしれないし、どうしても忙しそうな状況であれば、「相談したい事があるから、今時間大丈夫?」とか。
断られてしまっても、「できれば、不安なことがあって話したいので、都合の付く時間を教えてほしい」などと、予め今話せる状況なのか、いつ時間に余裕があるのか、などを尋ねるといいんじゃないかね。

また別件、なんというのか…
「メンヘラ」だとか、そういう言葉のイメージからか、「精神病」っていうのが、自分の気の持ちよう(根性的な)でなんとかなるような病気だと思われがちな傾向があると思う。

だけど、実際には脳の神経系だとか、臓器の不具合とか、そういった物理的な体の機構が、不調に関わっている事もあるし、そういった元気だけではどうにもならない場合、中々、自分では対処しようがなかったり、難しい場合もあるので、心療内科などの受診や、もし通学中であればスクールカウンセラーなどの助けを検討してみても良いかもしれない。

正直な所、小瓶主さんがこれからどう生きて行けば良いのかというのは、人の人生という事もあって、俺には解らないし、多分他人が決められる事ではない。

でも、そんな他人だからこそ言えるのは、小瓶主さんが、生きていても良いって事だ。

あと思いつくものとしては、好きなものに触れるだとか、好きな事をするとかで楽しめるなら、その時は楽しさを味わって欲しいという事。
ガス抜きというか、ストレス発散というかね。

それと、「問題の具体化」だろうかな。
詳しく説明してみると、「自分が、何を問題と感じて、それに対してどういった対処、対応が出来るのかという事を考える」って事だ。

将来の事に見通しが立たず、不安であるなら、それはどうやったら解決、もしくは少しでも緩和、心持ちを楽にする事ができるのか。

人に嫌われる事や、怒られる事、迷惑だと思われる事で、小瓶主さんご自身の何が辛かったり、困ったりするのか。
それらに対して、どのような行動や対処法が取れるのか。

そういうのをちょっと余裕のあるような、元気がある時に考えてみるのも良いんじゃないだろうか。
(答えはすぐに出せなくても良いと思う。また別の時に考えてもいい訳だし、試してみるのも大事だし)

最近は寒くなってきた事や、人によっては部屋のエアコンや電気ヒーター的な暖房(石油ストーブなど以外)を付ける事もあって、鼻と喉が乾燥しがちだろうから、うがいとか、ちょっとした水分補給とか、マスク着用とか…、ケアは気に留めておいてな。
(鼻や喉の乾燥は、免疫力を低下させる一要因なので…、つまりは風邪に気を付けろよって事だな)
・・・小瓶の中の手紙を読む

烏羽
あんまり関係ないかもしらんけど、無垢とか純真とかってよく解らんのだよな。

汚れってなんだ?純粋って?

どうにも、調べれば調べるほど、子供が大人へ憧れを抱くように、例えるなら、大人が子供へ憧れを抱いている事を表すような言葉にしか思えなくなってしまって。
(そりゃあ厳密には違うのだろうが、どっちも同じような事に感じる)

事実的に、子供も嘘は付くし、本心を隠そうとする事もあるだろう。
私利私欲から盗みや、暴力を振るってしまう事もあるだろう。

個人的な一意見だが、ある種、子供を見る大人の目も、「無垢」になり得るのではないかと。

また、己の欲求に素直であるが故の、暴力行為など、当然起こりうる可能性の一つとしては考えられる。

考えれば考えるほど解らなくなる。
素直である事が、必ずしも良い事なのだろうか。

状況に応じて、正しさとは変わるものなのだろう。
正しさとは、ルールがあってこそのものだ。

自分の内側に、倫理観や社会性に基づいた考え方、自分の価値観や認識からなる考えがあればこそ、正しさは生まれるのだと思う。

だが、まあ、そんな事よりまず、「考え方」の基本のようなものを小瓶主さん自身の中に、ルールとして確立(←方法の固定ではなく、臨機応変に対処するものとして)した方が良いんじゃないかと思う。

例えば、頭で考えていると、俺の場合、次第に話題が逸れていって、最終的に、始めから何を考えていたのか解らなくなる事もある。

では、何が必要になるのか、と考えれば、初心に帰る事だ。
「何を考えたかったのか、何を見つけたかったのか、延いては何をしたかったのか」そこを紙に書くなどして、それなりに明確にしておければ…
例え考えた末に明確な答えが見つからず、「解らない」という答えが出たとしても、また後に考える事が出来やすいだろうしな。

また、自分自身が思考する事に疲れている時のサインを、ある程度知っておいた方が良いだろう。
俺の場合、集中力が散漫になったり、ネガティブな傾向の考え方をよくするようになったり、それで考えたかった事から話が逸れやすくなるとかがある。

大体、このような時は、脳のパフォーマンスが落ちているので、考えも纏まりにくかったり、細かいミスが目立つ傾向にある。

(何故、俺自身が、ある程度のルールを作ろうとしたのかというと、疲れている時に考えても楽しくないし、まともな答えもあまり出なかったので、それを避けるため)

そのような場合、別の事をしたり、休息を取ったり、運動したりする事にしている。

また、「考える」というのは自由な、自由度がかなり高いものだろうなので、自分なりの進み方を作っておいた方が迷い難くなるよ、という。

そろそろ寒くなってきたので、胴体周りの冷えには特に気を付けてな。
・・・小瓶の中の手紙を読む

烏羽
(文字数が多いので、読む時間にはお気を付けを…)

じゃあ、ちょっとした数学の問題を出してみようかな。
簡単なものかもしれないし、任意なのでしなくても良いが、時間にゆとりのある時とか、少し手の空いた時にでも、どうぞ。

問題
正の整数(最小値は1)において、2つの連続する奇数の和が、4の倍数になる事を、足し算を使って証明しなさい。なお、かけ算や、nやxなどを用いた文字式は、使わないものとする。


…答えは他の誰かか、解けたご自身に聞いてくれ。
俺は数学者でもないし、どっかから引っ張り出してきた問題でもないから、正確な採点ができない。
ただ、そんなに難しいものでもない筈だ。(少しめんどくさいだけで)

問題と向き合う事が好きかと問われると、俺自身そうでもないんだが、興味があるものを考える事とか、興味対象に含まれる問題となれば話は別でな。
(数学的要素までを含んだ厳密なものではないが、主に哲学とか心理学とか生物学、量子力学とか、発声とかゲームとか漫画とか色々)

英語のFワードとか、外国の汚い言葉やスラング、使い方とかを遊び感覚で調べたりしたもんだ。
さすがに教師相手にF○ckだのと口を滑らせるつもりはないが、筆記の授業での課題文に混ぜてみたりして。

まあ、ある程度、出した問題文から察せられるかとは思うが、最近は少し数字について興味が出てきたという訳だ。

あとは…、少し聞くが、勉強だけでなく、軽い運動(散歩などの有酸素運動)とか、カラオケや合唱とかで歌うような、声を大きく出す事とか、そういう事って最近してるかね。
どうやら、そういうのが心身に影響する事もあるらしい。(俗に言うストレス発散って奴)

まあ、そうだな。
勉強バッチリで、テストや将来にあまり不安がないってんなら、どういう家庭の感じなのか解らないし、そんな状況でする話ではないとは思いつつ…
もしご自身で取れるのなら、自由時間を取ってもいいんじゃないかね。

ずっと解り切ってしまった、同じ事をやっててもつまんないだろう。

とはいえやはり、言わなくても解るとは思うが、社会に出るのであれば、時間の管理は大切になってくる。

たまには、勉強を休む日とか、時間を、できるなら計画して、好きな事やら、興味のある事、チャレンジしたい事やらをするとかは思い付く。

筋肉と一緒よ。運動し過ぎて、適度に休むなり自由に動ける、遊び(←余裕やゆとり的な意味)がないと、消耗するばかりで痩せ細るか、あくまで例えだが、肩こりや四十肩みたいになってしまう。
(遊びすぎも同じく駄目なんだな、これが)

パズルみたいなもんでさ、今目の前にある状況、人生の中へ、自分のやってみたい、楽しいと思うかもしれない事、少しでも興味があると思う事を組み込めばいい。

…それを思った通りの行動に移せるか、活かせるか、成果をあげられるかまでとなると、難しい面もあるかもしれんがね。

でも、つまらないままでは居たくないんじゃないか?

…見方によっちゃあ、俺は悪魔の囁きみたいな事をしてるが…、人生の形を自分で選ぶのも、自分の人生だって話さ。

悩むなって事じゃない。
後悔するなって事でもないが、人生に選択の、厳密な誤りなどないと思う。
あるのは現状、あなたが、この、つまらない事をどうしたいかって事だろう。
そういった事の連続だよ。

それが良い事なのか、悪い事なのか、結果の起こった後に判断するのも、あなたにしかできない人生の選択じゃないかね。
(だからこそ、この小瓶を書かれた時は、「いつ選択を誤ったんだろう」と書いたのだと思っている。そして、それがその時のあなたの選択、意思なのだと思うから、詮無い事ではあるが)

また、俺自身も勘違いしやすい事だが、「あの時こうしていれば良かった」と感じるのは、「あの時を超えた地点にいる自分」だからな。
あの時の…、過去の自分が考えられる事なのか、認識できる視野なのかと問えば、そうではないだろう。

寧ろ、今、現時点だからこそ、向かえそうな、好条件そうな、そういった地点が見えるというだけだ。
過去では、それが最善、または良いものだったり、その時取れる行動の一つ、運の絡んだものだった。

だから、自分の選択の全てが、自分の人生の全てかと問えば、個人的には、そうではないと思う。

…はは、もしかすると勘付いているかもしれないが、小瓶主さんは「人生」という問題に直面しているな。
(考え方次第でもあるが)

人生の中の、人との関係や、自分の気持ち。過去と今と未来。

小瓶主さん自身にはあるか?
問題と向き合う時、どんな風に構えたらいいのかというものが。

俺には特に…、確立されたような、明確なものはないが、強いて言うなら問題文の確認が最重要って事と、自分自身が何を書こうとしているのか、何を書いたのか、それも確認するよな。
(出来ない時やしない時もあるが)

「人生」、こればかりは面白いというより、喜怒哀楽全てを込めた、興味深い奥深さがある、…そうだな、interestingという言葉が適切だ。
なんつって。

だが、人生という問題に向き合った時、現実的な話、考えても答えが出ない事などザラにある。

人生を問題にしているのは、あくまで考え方。問題として見る考え方を持つ、自分な訳だからな。自分の知らない情報や体験を答えとして出す事は出来ない訳よ。

人生に、明確なルールから来る答えがあるかと問うたり、未来が全て悲しみに包まれているか、楽しさに包まれているか、幸せと不幸はどのくらいなのか、そんなのなんとも、はっきり答えられないしな。

答えを出すのか出さないのか、それ自体も問題に含まれてくる。

まあ、考える時間は生きている分だけある。

だから、もしつまらない状態の今とは逆に、この先楽しい事があった、その時に、人生はどうかと考えてみたらどうだろうか。
どんな人生が見え、どんな答えが出るのだろうな。

当然ではあるが、人生の中で、自分は揺れ動き、例え自覚として、変化がないように思われても、確実に変化していくだろう。

ならば、答えは、その時々によるものも、ある。

自慢はできないし、オススメもできないが、人生とは何なのか、自分や命とはなんなのか、などと、考え続けていたりする人間も、ここにはいるぞ。

答えではないが、その結果は、人間の機能や、人間という概念そのものと向き合うハメになる、だ。

とりあえず、無駄話も含めて長くなったので、このくらいで。

最近寒くなってきたから、もし電気ヒーターとか、エアコンとかで部屋をあっためるとするなら、喉の乾燥には気を付けてな。
適度な湿り気がないと、人間の免疫機能も働きづらいから。
・・・小瓶の中の手紙を読む

烏羽
(長文につき、時間や体力など、余裕がある時に読んで頂ければ)

無我の境地が悟りではない?
それは違うぞ。多分。

小瓶主さんにとって、「悟り」とは「その時求める幸せの状態そのもの」の投影だったのかもしれないが…
悟りは、あくまでも「いくつもの段階の一つ」というか、境地、状態を示す言葉なだけで、それが幸せな事なのかというとそういうものでもない…、気がする。

(言葉にすれば「悟り」の一言だが、一人一人、それぞれ別の悟りが存在しているように俺は解釈している。そして、決して、長い修行や苦痛を経る事のみにより至れるような…、ある種というか、言葉の意味的には多分「特別」というのは含まれていても、特別な…、高い壁のある境地ではないとも思う。もっと端的に言えば、昔の求道者が求める悟りと、今広く知られる悟りには違いがある、って事。個人的に、なぜ壁を作っていたのか、難解なのかという事にも多分しっかりとした理由があると思ってる)

なんと言えばいいのか、明確に言葉にはできないんだが、「自分の道や、自分が定まった、自分が見えた」って時や、それに近い場合に、悟りという言葉を見かけるような。
(求道者的な感覚からいうと、恐らくそこに「教える立場としての訓戒や教訓、倫理観としての知識と、指導者としての規範について」なども含まれるんじゃなかろうか)

よく考えてみてや。
大自然、大宇宙、そしてその一部である人間。

物理には法則があるし、俺は存在そのものが意味なのだと思う。

例えば、そこらへんに、無造作に、転がる石に意味があるか?

俺は、その石は、もしかしたら、地球の一部が、長い時間をかけ、川などで削られ、転がり、今ここにあるのではないかと思う。

それが本当に正しいのであれば、その石の背景、その石そのものを表している事になる。

その全ての背景を、写真のように切り取った一瞬が、「今」と呼ばれるもの、存在ではないだろうか。

だから、俺は、その一瞬の現れの、「存在そのものが意味」なのだと思う。
そして、それが「正しいのか、間違っているのかと思う事」が「我」ではないか。

全ては無意味ではない。無意味であるのなら、存在などしている筈はないと思う。(これも「我」だが)

要は、是非、良し悪し、善悪、その判断も、「我」のカテゴリーなのではないだろうか。

では、その上で聞きたい。
小瓶主さんは、「善人」に対する「我」、即ち、「善人とは何か?」というものは明確に定まっているだろうか。

それがないと悟りは生まれない。
逆を言えば、悟りの途中にある。

ああ…、そうだ、ついでに言っとくと、多分、「我」とは我欲のことではないと思うぞ。(欲そのものではなく、欲を含んだもの)

俺の思う善人には欲もある。

なんでって、仏陀でもなんでも、教えを広めよう、苦しんでる人を助けよう、そう思って行動してたんなら、それは我欲だと思う。

自分自身の思いを、実現しようという欲だ。
そして、その中に、気遣いなどの思いやりや、助けたいという気持ちが入っているからこそ、その行動を行おうとしたのではないだろうか?

そこには、彼らなりの道徳、倫理的判断があり、それに至るまでの理由、意味があったと考えられる。

「執着」という事に、良いも悪いもない。
(仏陀たちも、執着がなければ悟りへ辿り着こう、教えを広めたいとは、しなかっただろう)

あくまで、良し悪しのそれは、人間が状況に応じ、都合が良いかどうかを判断しているだけだ、と思う。
(執着を嫌がる理由があるのなら、それを否定はできないが)

では、小瓶主さんは善人でありたいと、何故執着するのだろう。
そうでありたいという、それ故の意味があるのではないのか?

ならば、その意味を立たせるため、自分の道を成すため、「善人」とは何であろうか、と問いたい。

少なくとも俺は、善人とは、完璧な人間ではないと思う。
善人であっても、間違いはするし、それを認める事もできる。だから罪悪感もある。

その過ちを認め、重みが理解できて、改善に努める事もできる。だからこその、善人なのではないのか?

あなたがその道を断とうとしているのなら、所詮他人事なので、そんなことを言われても虚しくなるだけかもしれんが、俺は悲しい。

現実は夢幻ではない。
だが、我ら人間の判断は、推測、憶測が飛び交う。
人間は目を通して、自分の意識、思考を通して、物事を見るものではないだろうか。

言ってしまえば、判断とは夢だ。
行動により実態を伴う夢だ。違うだろうか。
現実の中で、夢によって現実を認識しているのだ。

だからこそ、古き経典には、「我」は夢だ、と。
夢、つまりは、推測判断や思い込みが、現実から離れたものになり過ぎないよう気を付けよう、と…、時代背景を抜きに今風にしてみれば、そういった趣旨も書いていたのではないだろうかと、勝手ながら思っている。
(俺もよく解ってないので、厳密には違うかもしれないが)

解りやすく言って、過ぎたるは及ばざるが如し、みたいな。

それに、苦しみから逃げようとするも、人として健康というか、当然に考えられる事だ。(仏陀も苦しみを放棄したりしてるみたいだし)
小瓶主さんが将来の見通しの悪さから、不安になる事も仕方がない事だろう。

経典は、そうだな、あくまでも教えだ。
多くの教えは、認識の仕方や、人生や、苦しみに向き合った時の心の支え、気楽な生き方とは何かというもの等を教えてくれる。
もう解っているとは思うが、読んだだけで原因がなくなるという訳ではない。

具体的には、ストレスの発散の為の有酸素運動や、心療内科などで受診してもらい、「苦しみや気分が沈みがちである旨」を伝えるのも手だ。

多分、現実的に見て、仏陀もそうするか、何かしらの対処を考える事だろう。
(仏陀の人となりとか、実際に会った事もないし知らないけど、真面目にそういう事をすると思う)

あまり根詰めすぎないようにな。
生まれた時から善人、悪人なんて、そんなもんどこにもいやしないんだから。

もしも「善人」とはどういうものなのか考えてくれるなら、休み休み、気が向いた時にでも考えてな。
・・・小瓶の中の手紙を読む

烏羽
(長文かつ乱文なので、余裕がある際に読んで頂ければ幸いです)

ポジティブな思考か。
俺の中では、楽観的…、もっと言うと、ネガティブな思考の対として、物事を「軽く捉える、軽く考える」って事かね。
(逆を言えば、ネガティブは深刻に、重く捉える、考える事。悲観というか、都合が悪いものを探す事。)

俺が話をする前提として知っておいて欲しいのは、どんな人間にもポジティブな面もネガティブな面もあるよって事。
(明確な区切りを作っているのは人間の意識、延いては言葉から来るイメージや解りやすさのためであって、多分、両者は地続きにあると個人的に考えている)

死にたくなるとか、恥ずかしいとか、無理だなとか、そういう事をしっかり思うタチなもんで、俺自身の事を切り替えが上手いとは思えないが、なんだったか、「成功は99%の運と、1%の努力で出来ている」みたいな言葉あったような気がするんだけど、そんな風に考えてるから、いざ失敗しても「仕方ない」と思える。

もちろん、責任を手放そうって訳じゃないけど、例えばコミュニケーションにおいて、AがBに対し、純粋な楽しさから「あいつ面白いよな」みたいな事を言ったとする。

するとBは、「あいつ変な(悪感情的な意味)やつだから笑えるな」と、感じたとする。

これって、どっちに責任があると思う?

俺はどっちにもないと思う。
…強いて言うなら、Bがこれから、「あいつ」に対してする行動には責任があるだろうけど、現実的にはこんな状況より複雑な、難解な、雑多な要素を多く含んだ場合なんて沢山ある。

例えば、会話などと同様、コミュニケーションの場において、仕事であれば、部下のちょっとしたミスは、上司の言伝やちょっとした行動のカバーで補える場合もあるし、それがなくても上司の責任とは普通言えない。(仕事の立場上上司が部下の面倒を見るとかいう形式になってはいるが)

で、部下がミスするとして、「そのミスが何故、どのような要素で、どのような順序や工程で起こったのか」って、自分の体調なども含めて、全て厳密に考える事が出来るだろうか?
その中から、自分の責任とはどの範囲なのか、事細かに考える事は出来るだろうか。

(↑体調が悪いとして、その体調の悪さは、気圧や温度のせいなのか、それともそれに適応できない人間という生物のせいなのか、そんな事を考えても解らないし、その不調からやってしまった事には責任が付いて回るといえど、原因もよく解らないような事に対して何が悪いなどと厳密に答え難い。もちろん、推測は立てられるし、それによって防止行動や対処を考える事はできるが)

俺には無理だ。それこそ厳密に知るには、判断材料を得るためでさえも、運が絡む。
自分の知り得る範囲での、知ったつもりになっている範囲での責任にしか手を伸ばせない。(それに対する謝罪なり、対応や改善策なり、フォローなり)

しかも、解った事があったなら、さっさと覚えるなり、紙に書いておくなりしないと、大概忘れてしまうしな。
全く同じ事は起こりもしないだろうが、似たような場面は幾らでも想像がつく。だから、後悔とかも含めて、先へ繋げたく、活かしたくもなる。
(何より似た失敗を繰り返すのも面倒くさいし)

まあ、正直、努力してそれが実らない事もあるが、辛い気持ちで、苦しいままでいるよりは行動した方が気が楽…なのかもな。
考えてみて、自分でもよう解らん。

それはそうと、ポジティブって奴には良いイメージがあるかもしれないが、極論、悪い書き方、それが行き過ぎればただの軽率なバカだ。行動の先など見据えず、注意力など散漫になり、人の話も聞けないような感じを想像できるだろうか。
(究極的には恥ずかしさもない。それが良い事なのかと考えると悪い意味で微妙。物事の全てを、曲解含め、自分に都合良く解釈する事が、真に良い事なのか?というか)

ネガティブも同じく…、というより、まず感情が思考と結び付いていると、楽観的にしろ悲観的にしろエネルギーを使う。

その上で、深刻に考えるという、また別にエネルギーを使う行動を取り、その消耗によって動けなくなってしまうなら本末転倒でな。何のために悩んでいたのだろうか、となる。

ポジティブであろうがネガティブであろうが、それぞれの…、ここで挙げる以上の数の長所と短所を、活かせるかどうかが大事なんじゃないかと思う。
(書ききれない)

ポジティブであれば、今回小瓶主さんがイメージして求めていると思われるもののように(間違ってたらすまん)、物事に対しての心の軽さはあるだろう。
(ただ、最初書いたというか、楽観悲観、どちらか片側のみの人間なんてまずいないから、そこは関係なく、ポジティブベースな人でも、多かれ少なかれ恥ずかしさを覚える場面はあると思う)

だが、ネガティブであれば、物事を深刻に考えるからこそ、不安なもの…つまり、物事において懸念した方がいいと思われる箇所を想定する事ができる。
そして、責任の重みを理解する事が出来る。(だからこそ人目も気になってしまうものなのだろうが)

小瓶主さんがやってしまったミスは、過ぎ去ってしまったものだ、もう仕方がない。(と俺は思ってる)

だが、そのミスから何を学べるだろう?
これから何に注意し、何を身につけていく事が想定できる?
想定し、対処を身に付けるために、何を練習などして、努力できるだろうか。

…周りの人間がミスに対してあれこれぐちぐちと…、本人が責任を感じ、反省していない訳でもない。軽くても悪口は悪口。言ったそいつが悪い。
寧ろ、俺からすればそいつらの方が恥ずかしい行いをしていると思う。

不安に思う事があれば、聞く事もできる。
後悔があれば、今後どうしたいのか、どうすればいいかという想定へと繋がる可能性もある。

とにかくだ、ネガティブにも長所はある。

だけど、ネガティブな故のバランス感、重さに耐え切れない時には、仕方がないと、ある種諦めというか、どうにもならなかった物事への執着を捨てるのがポジティブって奴なのかもしれない。
(後悔はあってもいいが、後悔に押し潰されて、ネガティブな自分で見つける事ができた、せっかくの懸念点に、対処するための行動や解決策ができなくなってしまう事は避けたい。それ故の、楽観…、というやり方もある。いわば、まだ死んでないなら何かしら出来る事はある的な発想)

他、ストレス発散(対処)のためには軽くラジオ体操とか、ちょっとしたジョギングや早歩きを意識した散歩など、有酸素運動がいいらしい。
(ストレス発散の方法については、自分の趣味、状況、やってきた事などから人それぞれ合う合わないがあると思うし、それ故に沢山の方法があるので、気が向いたら、人に聞くなり、Webなどで調べてみてほしい)

あと、眠くなった時とか、疲れている場合において、「自分自身が深刻になっている」と感じられた時には、考える事を止めるなり、綺麗な自然の景色を想像するなりで、できれば思考を深刻な、嫌な事を考える事からは避けて、休めた方がいいんじゃないかね。

(あるいは、元気がある状態で、かつ気が向けば、考えてみて上手く掴めなかったり、解らなくとも、不安な事への解決策を自分なりに考えてみるとか。何度でも考えてみて良い訳だし、したくないなら別だけど、自分一人だけで考える必要もないし)

延いては、すぐに、ベースの思考というのか、それを変えられる訳ではないと思うけど(専門的な知識はないので詳しくは解らないが、人間の構造上、多分すぐに変わるのは無理があるので、やってる内に少しずつ変わっていくと思う)
不安や、嫌な気になった事が引っかかった時、「引っかかった」という自覚を感じ取れれば、それに対する対処(休もうとか、一旦考えるのは止めておこうとか、別の、大して疲れもしないどうでもいい事を考えようとか)を試す事も出来なくはない。

また、「考える」という事関連で、真剣に、悩みにしろ考えるというのであれば、何かテーマを決めて、紙に書くかして、頭に留めておくといいかもな。
テーマからズレてきたなら修正できるし、ズレの頻度が多くなれば、考える事に疲れてきたか、このテーマに飽きてきたか、などと予想も付く。(休んだり、一旦思考を止める目安にもなる)

別件、眠りやすくなる方法としては、寝る前には目に入る強い光を避け、テレビやパソコン、スマホなどの画面を見ない、ないしはスマホなどの画面の明かりを最低に落としたり、iOSであればおやすみモード的な奴で、何時から画面が暗くなるか設定とかを試したり。寝る前に嫌いじゃなければココア飲むとか。

目に入る光の刺激が強いほど、目が覚めやすくなるらしいので、不安な気持ちと合わせてより眠れなくなってしまう場合もあると思って書きました。
(…夜遅くまで宛メとか見てる人は注意な)

あとは…、そうだな、自分にない(と思う)ものを求めて、苦手を克服するとかも良い事だとは思うが、それよりも、自分の持っているものを伸ばしたり、深掘りしていった方が手っ取り早い事もあるかもしれない。

まあ、大それた話じゃなく、しつこく、ネガティブにも良い要素はある、って言いたいだけなんだがね。

…いやあ、すまんね、同じ話を繰り返すのも、疲れてきたってサインなのかね…

読んでくれたならありがとう。

焦った時は、数回深呼吸だぞ〜。ほんの少しでも、多少はマシになるぞ〜。
・・・小瓶の中の手紙を読む

烏羽
打たれ弱いのもあるかもしれないけど、対応が悪目立ちしがちなのかね。

また、別の観点、受け売りなんだけど、Twitterでそういう悪い例が多く上がっているから、全体的な民度というのか…、倫理観が平均的に上がってるのもあるかもしれない。

かといって、例え話、客も客として「お客様は神様」というのは店の、サービスとしての経営方針なので、偉ぶれる訳じゃない。
(わがままに振る舞えば当然迷惑な客になる)

また、エゴサしなければというのも解らんでもないが、例えばアイドルとか芸能人とかだと、ファンとの交流がある場合、それを探すためには検索の過程を省けない。
(見つけたくなくても目に入ってしまう事はある)

ましてや、個人に向けられた情報のやり取りも多い事だろう。
酷い時は、殺害予告やら、何の根拠もないただの罵詈雑言が飛び交う。それを我が身の事だと考えればどれだけ恐ろしい事かと、欠片だとしても想像出来る。

あくまで小瓶主さんがそう言っていると考えてはいないが、「心の強さ」ってのは、一方に責任を押しつけられる言葉じゃないだろうしな。
(こういったSNSの場合でも、結局はコミュニケーションなので、二人以上のそれぞれに責任がある)

よってたかって、炎上の油の一人になる事は…、俺は避けたいね。
場合によっては、何か、これは悪い事なんだという情報の拡散にもなるし、どういう困った事が起こるのか、起きているのかという指標にも繋がるが、裏にいる人間が、どれだけ傷付くかも解らない。

…まあ、そもそもTwitterを見てはいても、利用してない俺の立場から言って、どうなのかとも思いはするけれど。
そう人間、完璧じゃないものだろうさ。

感情の昂りなどから難しい時もあるが、せめて、少しでも自分の持つ倫理観に、見合った行動を取れるようにだけはしておきたいな。
・・・小瓶の中の手紙を読む

烏羽
(長いので、時間にゆとりのある時、見ていただければ幸い)

自分の事は、自分でしかなんとかできない。確かにそうだ。

だけど、それは他人を頼る事も含めた上で、「変えたいのなら、自分の行動でしか自分は変えられない」って事なんじゃないかと思う。
(他人はそのお手伝いしか出来ない)

少なくとも俺が思う所の「結局自分自身」的な話は、「一人に責任がある」とか、「一人でなんとかしろ」って事ではないんじゃなくて。
自分の人生は自分でしか生きられない、みたいな?

健康というのか、正常というのか、傾向的な話なんだけれど、人間の摂理としては、正直ショックな事や辛い事があれば、それにまた直面するかもしれない状況を避けたくもなるし、直面していれば尚の事不安にもなってしまう。

それで動けない時は動けないし、しょうがないんじゃないか。

でも、それはそれとして、小瓶主さんはご自身の状況をどうしたい?
心療内科などを受診されているのかどうか解らないが、その状況をどうにかしたいから薬を飲まれているんじゃないんだろうか。

(医療機関で受診されてないなら検討するとか、もうされていて、それが上手くいっていない感じがするなら、小瓶主さんの任意で、今受けている医師に紹介状などを書いてもらって医者や病院を変えてもらうとか。

また、今回小瓶に書いた文を見せてみる、もしくは小瓶に書いた文の中から、「まともに取り合ってくれないのが分かってるから気持ちを言えなくなり、自分でなんとかしようにもやり方がわからない」とかを抜き出して、伝えてみるとか。

いっちゃあ悪いけど、医者も人間なので、気が合う合わないはあるし、それぞれの医療機関ごとに方針が違ったりする場合もある。
他、小瓶主さんの生活上、家族なんかに理解がなく苦しい思いをされているのなら、医師に相談して、家族などに説明してもらうって手もある。

あと思い付くのは、ストレス発散方法とかを調べてみるとか)

共感なんかは求めてないかもしれないけど、俺も死にたい気持ちを抱えてきてて(現状は平気)、自傷もしてたし、2、3回自殺未遂(生っちょろいもんだが)もした。

あの頃、死にたいという思いは消えなかったし、勿論、苦しかったのも記憶にある。
何をしても無気力だし(これは今も若干ある。医療機関で詳しく診察を受けたわけではないからなんとも言えないけど、年代が比較的若い人に見られる場合の、鬱が進行した状態だそうな。こうなると自分で動くのも難しくなっていくケースがある)、何をしても楽しいなんて思えなかった。

深刻に死にたい気持ちを抱えながら生きているってのは、小瓶主さんの仰るとおり、いつ死のうとするか解らない状態なんだと思う。

俺と小瓶主さんを比較しようとしても、状況も背景も理由もそれぞれ、似た所があるとしても違うだろうから、こう言うのも変だとは思うし、場合によっては小瓶主さんを苦しめてしまうかもしれないんだけど…

俺の…鬱なのか、それとも鬱で統合失調症も合併してるのか、よく解らんこれが、治るかどうか、また解らん。
死ぬまでには治るかもしれないし、死ぬまで続くかもしれない。でも、俺はまだ生きてる。

今のところ、大して生きたいという思いもなく、死にたいという思いもなくなったが、生きてはいけてるぞ。

…いや、だからと言って、何だと言われれば何でもないし、「こんな俺が生きてるんだから小瓶主さんも大丈夫」とか言いたい訳じゃないんだがね。
死にたい気持ちがあっても、生きては来れたって話よ。(一つの参考)

まあ、死ぬか生きるかはさておき、生活に困っている状況でなければ(生きてはいれるのであれば)、今無理に動こうとする必要はないんじゃないかね。

先延ばしと言ってしまえばそうなのかもしれないけど、直面して、辛くてどうしようもない、動けないってなるなら、逃げるというか、戦略的に撤退した方がいい時もある。

俺はそうした。
だけど、結局恐怖心がなくなるかというとそうじゃない。
体調、気分などによっては恐怖が薄れる事もあるかもしれないが、消える訳じゃなかった。

だから、もしかすると、「恐怖心はある、けれど、その中ででも行動する」というような、いわゆる「覚悟」みたいなものは必要なのかもしれない。
(あるいは恐怖の中でもある程度平気でいられる方法、なんらかの対処法とか。方法は多く知らないのだが、数回深呼吸すると、恐怖による動機は幾らかマシになる)

だから、その覚悟をするというか、気持ちに整理をつけてから、あるいは、「仕事で何が嫌だったのか、今後どうすれば対処できそうなのか」をある程度、探したり考えたり相談したり、軽く試してみたりで、それから向き合ってみるというのでも良いんじゃないかね。

物理的に脳の回路というのか、構造が変わるまでには時間もかかる。
気が向いたらでもいいので、医師や自分自身の状態と相談しつつ、少しずつ改善や、好転に繋がる行動ができれば、今はそれで良いんじゃないか。

向き合おうとするばかりじゃ疲れてしまうので、楽しみがあるんなら、それも楽しむとかさ。心にちょっとでも余裕があると感じられた時にな。
・・・小瓶の中の手紙を読む

烏羽
訓練次第では、感情はコントロール(抑制)出来るらしいが、実際の所、抑制は出来ても、恐らくその感情が消えるという事はないんじゃないかと思う。(薄まる)

じゃないとコントロールじゃなくて、それこそ生まれた感情を何度も殺すような、好循環とは言えないものが出来てしまう。

その薄まり(感情が消えない事)を「コントロールではない」と感じるのなら…、見る人によっては嫌な表現になりうるかもしれんが、言ってみれば、「過ぎたるは及ばざるが如し」って奴なのかね。

個人差というのか、どこまで感情をコントロールできるかはそれぞれに置いて事細かに解らんので、正直「薄まる」という感覚も個人的な考えに過ぎんのだが…

その、過ぎてしまう程、「感情をなくしてしまおうと」思う程、大きな出来事があった事、心に傷を負うような事があった可能性は考慮したい点でな。
だからこそ、過ぎてしまう程にコントロールしようとする事で、その過程により傷付いた心が、更に傷付いてしまうような事には気を配りたいと思っている。

良くも悪くも、人間は思い込む事で、記憶、延いては意味や感情さえ都合よく上書きする事が出来る。
心の形さえも…、そうなのかもしれない。

もしかすれば、「心」と「自分」が近い距離にあるが故に、常に影響を及ぼし合っている位置関係にあるのかもしれん。
見つめ方を変えてみれば、日頃から心と自分を修復、生成し続けている、とでも言えるだろうか。(だからある種の不安も希望もある)

法的に確定するまで、死亡と断定し、メディアで取り上げる事が出来ないように、解らない事は解らない、推測は推測だ、などと、そういった余地が、考える事、思う事の中においては必要なのかもしれない。

ただ、まあ、感情をコントロール出来るからといって、それが必ずしも「できた人間」へと結びつくのかというのは、何を立派と考えるのかという、人の志次第だと思う。

多く、人間は中途半端で、そこに惑いもするが、だからこそ完璧ではない、不完全さを持つが故に、一生涯向上し続ける事が出来るもんなんじゃないだろうかね。
・・・小瓶の中の手紙を読む

烏羽
(一応読み返してみて思ったので補足。長文失礼)

ああ、いや。
俺の書いた返事がどうにも、突っぱね気味な感じがしたので、もしも嫌味に受け取られていたならすまない。

そうじゃなく、本当に座右の銘なんていらない程、心に思ってる戒めが多いんだ。

昔は色々持っていたし、そういった座右の銘というか、格言みたいなのを調べてた事もあった。
また、自分で作って遊んだりもしたもんなんだが、結局言葉は「言葉」でしかないってことに気付いてな。

その、格言とかは、言葉を放った人の人生や、会話中の文脈あってこそ、意味を成すものだろう?

その人の人生や会話の流れを知らず、言葉だけをみても、結局それは、切り抜かれた、一枚の写真のような、ピックアップされた言葉を見て、想像したものに過ぎない。
(その人がどういう意味を込めて言葉を発したか情報が足りず、想像できないと、その人が言葉に込めた大事な部分も見えてこない)

小瓶主さんの座右の銘は、そういった事柄とは違うようだが、俺は自分の見てきた格言とか、名言とかいう言葉に対して、そう思ってね。

要らなくなった…というか、背景や中身あっての言葉だし、言葉にならなくても、しなくても、経験に意味はあるんじゃないかと思ったんだ。
(それを覚えていられたなら要らないと思ったし、逆に座右の銘というか、まとめた言葉にする事で覚えやすくなる事はあるらしいから、必要ない訳でもない)

だから、嫌味とかじゃなく、バックグラウンドの存在する座右の銘ではある。
結局、「座右の銘がない」って事ではあるんだけど…。

…意地の悪い事を書くと、こういう、言葉の背景を知る内に、何でも格言になってしまえるもんなんじゃないかと思っちゃってさ(苦笑)

「人間、年齢も物も生き物も関係なく、身の回りにある全てのものから学ぶ事ができる」、ってな。

はは、まあ、これは昔思った言葉だが、後々知ればそれに似たような格言があって、ビックリしたやら、やっぱりそうなんだなと納得して感慨深いやら、色々思った事もあった。

もちろん、どのような思いを乗せて言葉を表現したのかは異なるのだろうが、誰か偉人や、他の人の言葉と、自分の作った座右の銘が似かよるのは、なんだか面白い。

似ているだけじゃなく、自分の表現と、人の表現との差で、お互い、その時の人生経験や、思っている事などが滲み出ているのが伺えてな。

なんだか考えていて、あまり覚えていないような、懐かしい名言をもう一度見たくなった。(見つけた頃とは違う意味に読める可能性もあるので)
お騒がせしたかもしれんが、ありがとうな。探してくるわ。
・・・小瓶の中の手紙を読む

烏羽
絶対に解るなんて事は言いたくない。

だけど、これは、この気持ちはとてもよく解る。

そして、怖くて、面と向かって言う事が出来ない。
そして、「それ」を言われている時に、その人に言っても、通じる気がしなくて、更に波風を立ててしまうんじゃないかと、争うつもりなどないんだと、黙り込んでしまった。

…どうして、目の前にいる人間の苦しみを見ないのだろう。

本当は解っている。
人間なんて、そう察しのいい生き物ではないし、能力にも日々のムラがある。
一概に、苦しみを見ようとしていないと、そうも言えない。

小瓶主さんの文中に出て来た、対象の人の肩を持つつもりはないが、その言葉が誰かの救いになる可能性も皆無ではない。

人との関係性や、知り得ない部分、気の緩み、悪意のない信用、様々な可能性など思い付く。
俺自身だって、気付かぬ内にやってしまっていたかもしれない。

だけど、道理を解っていても、思ってしまうものだな。

疑念を持つ事や、恐怖心を持つ事が、「正しい、当然」などと言いたい訳じゃないし、他の方法もある事だろう。誰しもが常日頃から出来る訳でもないのだろうが…
どうして、自分のやっている事に対して、疑問を持たないのだろう。

それも、考えるまでもない事で、人間ってのは多くの場合、人生の経験から少しずつ、倫理観を形成していくものなんだからだろうよ。

だが、そんな事を解っていても、どうにもやるせないんだよな…。

せめて、自分の、ほんの少しの人生からでも、深刻に考えられる、注意深くなれるタイミング、必要性に駆られる場合を、よくよく考えておきたいものだな。
俺の身の上にもあったから、された事があるからという話でもあるが、そんな事は起こしたくもない。

…起こしたくないとはいえど、それを止めようとして起こった諍いを、正当化したくはないがな。

どうにも、悩みの種だ。

ともあれ、大切な事を改めて考える事ができたよ。ありがとう。
・・・小瓶の中の手紙を読む

烏羽
(長くなったので、お時間のある際に)

解る。
気がかりな事が多すぎて、嫌な言葉を避けようとして、俺の場合は「こういったら傷付くかもしれないけれど」、とか、「厳しい言い方で申し訳ない」とか、「言葉の表現があまり上手くない」とか、割と使う。
(使い過ぎると薄っぺらくなるかもと思いつつも使う)

で、大して文章力も、纏める力もないので、とりあえず書きたい事を出来るだけ書いている内に文章がレシートみたいになる。(悪い例。多分この返事も)

次第に、自分が何を書きたかったか、何を伝えたくて書いているか忘れてくるので、何度も読み返したりして、間違いやら、訂正したい事やらを見つけて、書き換えていく内にも、また何が何やら解らなくなっていく。

まあ、この、今書いている文章を見ればお解りですね…

30分以上考えて、書いて、やっぱ投稿するのやめよう、ってなるお返事も結構ある。

ただ、形式上、お返事のやりとりができるようになっているので、伝わらなかったと思う事は補足したりで、伝え直す事も出来るかと。

「言葉のみ」で、伝えるのも、現実的なコミュニケーションとは違った点があって…
顔の表情や、声音、手などの体の仕草がない上、言葉に込める思い、価値観が人それぞれなので、まずは、小瓶主さんがどういった先を見ていて、それに対してどう言葉を出したらいいのか考えてます。
(先といっても、どういった感情や背景から、この言葉を使ったんだろうって感じ)

また、出すにしても、その言葉はあくまでも推測なので、なるべく断定にならないようにとか。

まあ、全て上手くできる訳じゃないし、上手くできない上でそれを他人に言うのもアレだけど、「出来ないから」ってのを理由にすると、何もかもを言えなくなってしまうしさ。

だって、赤ん坊の頃からそうじゃない?
誰だってすぐに歩ける訳じゃないし、歩くにしても見よう見まねで、現実にどう歩いたらいいのかを感覚として知っていくのは自分自身な訳でね。

「自分なんかが」って言って、行動を止めてたら、変化するものも、し難くなっちゃうと、思わへん?

空っぽでいいよ。
みんなそうだったようなものだと思うし。

第一、空っぽだとしてもここに存在している。
この小瓶に書かれた、あなたの文章がある。
それを空っぽな事だとは思わないし、思えんよ。

感謝や、伝える事の苦悩、葛藤が見える。
十分に詰まってるじゃないか。

…まあ、一応、間違ってたらすまんが、「空っぽ」ってのが、「思いを伝えられる表現が上手くできない」って事の比喩だとは解っているつもりなんだけども。


…とかね、今の上文、「…まあ、〜」の文章を例にすると、小瓶主さんの使った言葉を「こう解釈しています」と、確認も込めて伝える事は出来るし、「間違っていたらすみませんが」などと書く事も出来る。
(↑こう書くと、「間違ってたらすまんが」って文章が薄っぺらく感じるかもしれませんが、一応書くと、全部本当にそう思って書いてます)

ただ、解ってる「つもり」という表現に引っかかりを覚えてしまう人も、時にはいなくもない(俺が自分で書いてて引っ掛かりを感じただけ)のでそこをなんとかしようと、余計な文章を省くとすれば…
「間違っていたらすまんが、空っぽってのは思いを伝える表現が上手く出来ない事だと考えて話を進めてみました」とか?
(今まさに進んどりますが)

まあ多分なんだけど、俺みたいに、自分の思った感情の、懸念やらの全てを言葉に乗せよう、表現しようなれば、かなり面倒くさくなる事だけは覚悟しておいてや。

宛メを徘徊してると(←こう書くと不審者みたいだが)、過去、俺よりも短い文章で、伝えたかった事の要素を書いている方々は結構いらっしゃったし、表現に戸惑うようであれば、そういう方々の真似というか、試しに近い事をやってみて、次第に良い所を自分に落とし込んで行ければいいんじゃないかと思う。

俺も学びの途中な上、要約すると多分、長くなるまでもない、大した事書いてないんだけど、うん、そんなもんよ。

あと、心がこもる言葉ってのは、多分こんな長い文章量というわけでもないし、短くて、とてつもなく思いを込めて放った一言でもないと思う。

なんというのか、自分の思いを乗せて出した言葉が、その思いの形を留めて伝わり、それが理解されて、心がこもっていると相手に判断されたら、言葉に乗っていた心が通った、って事だと思う。

だから、言葉に気持ちを込めて伝えようとする事と、それが相手に伝わるかどうかは、別の事として考えた方がいいんじゃないかね。
価値観の違いから、理解力の違い、言葉への意味の認識の違い。色々あるものだろうし、伝わったのかはやってみて、お返事が返ってきた時に初めて解る、可能性がある、としか言えない。
(自分自身にも、そういった理解力などがあるため)

あと、そうだ、最後に体力もあるな。
申し訳ない事ではあるんだけど、これ読んでて、沢山の文字を読んで、体力を使わなかったか?

(俺は推敲の際、慣れてるから何とも感じなくなってしまったが、それでも、読み返す際、文章力が多いという事は、誤字脱字、修正変更点での文章の食い違いなど、気を付ける点も多くなる)

だから、あんまり長いのはお勧めできないし、自分の思ってる事の「全て」を伝えようとするのは大変だから、伝えたい要点を3つ程に纏めると、文章をシンプルにしやすいかもしれない。

(俺は纏まらないというか、こんな風に、纏めても書きたい事が矢継ぎ早に出るので追加されていく事が多くて。逆に、短い文章の時は眠いとか元気がないとか、割とそういう事が多いので、あえてそういう状態を利用してみたりもする)

で、後から読み返してみて、ちょっと説明が足りない所とかは、(こういうの)で補足したり。(※どうでもいい事も書いていたり)

そうだなあ、あと思ったのは、国語の勉強って意外とバカにならんから、気が向いたらちょっと手を伸ばしてみるのも、いいのかもな。

読みづらかったかもしれんが、読んでくれたならありがとう。

戸惑いはあると思うし、気軽にとは行かないかもしれない。
けれど、この小瓶みたいに、ある程度好きに書いてみようや。

やり方も多分、いっぱいあるんだし、何が自分の気持ちを表せる表現として適切だと思うのか、それは自分自身でしか判断できないし。

自分にとって適切であっても、伝わるかどうかは別なので、伝わりやすさを優先する事が大事な時もあると思う。(伝わりやすさも自分の気持ちも両立できれば言う事なしだが、難しい)
・・・小瓶の中の手紙を読む

烏羽
さあねえ、質問に答えた人の彼氏さんが、ニートになるなんて微塵も思えない状況なら、安心感からそういった発言が出る事もおかしくないと思われる。
(そういう場合だと、おおよそニートになる背景など考慮されない事が多い。そして、「ニート」というものを自分達の側には存在しないネタのように見ている場合もある。対岸の火事という奴だ)

あるいは、そこそこいい年した人達には、社会的な状況からあまりそう思えないが、恋愛の付き合い方に対する価値観、姿勢の違いなども考慮点かね。
軽ければ、他の彼氏見つければいいやと、そうなると思うし。

ただ、付き合う中、その人を本当に愛するのであれば、大概ニートになっても支えあう関係か、社会復帰を望むのであればその背を押し応援するとか、現実的にはそういう場合もあると思うしな。

今のご時世、ブラック企業勤の辛さだったり人間関係のもつれで退社なんて事もザラなのに、さて、どうなります事やら。

まあ、多分ニートの実態なんて多くの人が知らんわな、なった事のない限り。

大概の場合、まあ、例えば「ニート」とか、他に「統合失調症」という言葉を貶す為に使う人は、その内実の、どんな状況なのか、どんな症状なのかという事を詳しく知らず、ただ一部の極端な悪いイメージや不安要素を当てはめ、テンプレートのように使っている事が多いように思う。
(言ってしまえば言葉を覚えたての子供と似たような感じ)

反面、その内実を知る人達は、そういった言葉を罵倒や貶す言葉としてあまり使用しなかったりもする。

他、働いている事から来る時間の制約に苦しさを覚える人は、ニートという状況が許されている者へ、時間願望の反映が態度に出るとかな。

(実際には許されているというより何が何やらどうしようもなくそうなる場合が大体だと思う。そして恐らく、大体の場合、ニートは常に家族の目に苛まれるので、精神的に良好とは言えず、その中でゲームなど、各々手の伸ばせる好きな事をしても、辛さは拭いきれない。遊びを楽しむと言うよりは、死ぬまでの暇潰しなどになっていく。それは可哀想なのかと思えば、それぞれ原因はある訳で、一概に言えたものではないがね)

無知ってのは怖いんだよな、痛みを知らないあまり、人の傷付くかもしれない事を平気で言う。
そして自覚がないので何が無知なのかどうか解らず、認める事も出来ない。

俺もおんなじさ。
だから自分の無知を認め、理解しようとし、そこから出来る限り気を付けようとする事で、多少は回避できる可能性がある。

みんなニートになれば解るなんて、そんな事望んじゃいないし、経験がないならない方がいい。
でも問題は、「ニート」というものに限った話ではないという所だな。

未来は誰にも解らない。
まだ日本にも、小瓶主さんのような、先の見通せる人がいて良かったよ。

…俺のような、二十歳半ばの交際歴なしニートが言う台詞でもないが。でも、意見したってええやろ。

俺自身、自分をまともだとも思っちゃいない上での例えばだが…
言っている事ややっている事がまともでも、立場を知っただけで手の平を返したように不信になるなんて事もよくあるよな。「子供だから」とか。

そう思われても仕方のない事をやったという場合もあるが、こういうのがよく解らん。
肩書きや立場も情報としては大事だと思うが、人となりと、いわゆる名声とは、それぞれ別のものだと思うんだがね。

理解は出来るが、どうにも正しさや、考える焦点の比重など、信憑性のはかりにしがちだ。
なんの保証にもなりはしないのに、知ったつもりに…というより、あくまでも「自分の意見」である事を忘れやすいのかもしれんな。
・・・小瓶の中の手紙を読む

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