LINEスタンプ 宛メとは?
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烏羽 さんの小瓶箱
烏羽
少し頭のネジが外れていますが、私は元気です。
Vtuberはいいぞ…

名前は、解る人に解ればいいという気持ち等から。
伝える事をはなっから諦めてるという意味ではないのであしからず。
烏羽さんのお返事(532通)
烏羽
誰にだって、得意な事と苦手な事はあるし、今出来ていないから、今望んだ状態でないからといって、いつか出来ない、望んだ状態にならないとは限らない。

なのに自分で絶対に無理だ、1ミリも出来るはずが無い、そう思って行動に移さないのは、損じゃないか?

自分自身の出来ない所は、どんな小さな事からでも探せてしまう。
特に、自分が無理だ、出来ない、と強く思えば思う程に。

結果すら関係なく、例え何か出来ている事があったとしても、思い込んでしまう事もある。

だから、「自分にはできない」と思ってしまうな。
自分に友達がいないとか、孤独だとか、それらを出来ないことの理由にしてしまうな。
実際にはなんの関係もない。(大体は、環境だとかも含め、運の要素が多い)

そもそも、人間なんて、みんな変人の異常者だ。
みんなどっかしら病気みたいなもんだから、たいした事もない。大丈夫だ。

問題なのは、あなたが、誰かに支えて貰いたいとか、周りのみんなのように楽しみたい、友達と遊びたい、という事と、人と関わる時に何かミスをしてしまっているのではないか、と思っている点だろう。

支えてもらいたい…というのは、どういう事なのか俺に理解力がなく解らんが、孤独であるのが嫌なら、孤独の中でも、一人で遊べるもの、一人で楽しめる事を見つけるのも手だ。
友達がいるいないで、幸せかどうかが決まる訳でもない。(友達を作りたいとしても、一人での楽しみ方はあった方が良いんじゃないだろうか)

人を傷付けてしまう自覚があるのであれば、まず出来ないではなく、何が悪くて、そこをどうすれば変えられそうなのか、または後からカバーできそうなのかなど、考えたり、試してみてはどうだろうか。

答えが出ようとでまいと、質問のようにそれを小瓶に流してみるでもいいしな。
必ずお返事が来るかは解らないが、誰かしらは見てくれる筈だ。

また、自分の思いを文章にしてみる事で、読み返して気付くことだってあるかもしれん。
・・・小瓶の中の手紙を読む

烏羽
めんどくせえなあ。

何が罪だ?
宗教ってのは、いわば考え方の一つだ。
誰かれに「正しい」と押し付けるものではあるまいよ。

そんな一つの考え方で誰かれが正しい、間違ってる、そりゃあ結構な事だがな、「お前の頭ん中ではな」って奴だろう。
小瓶主さんが気にする事じゃない。

…と思ってはいるものの、「ゲイって異常だよな」みたいなアホくさい会話に付き合いたくないのもあって、適当な同意をしてやり過ごしてしまったな…。
(心底どうでもいいし、時間の無駄なので関わりたくない。誰が異常かなんて考えたら、人間なんてみんな変人の異常者だろうし)

俺はゲイではないんだけど、なんかこう、このうんこみてぇな風潮消え去らねえかなあと思ってはいる。
(生きづらいだけだろ)

「同性愛を受け入れられるかどうか」というのが、多少なりとも解る機会があれば、理解者はいるんだなあと思えると言うか、切羽詰まった孤独感が薄まるとは思う。

…それも身を隠しつつする事になるだろうと思うと酷な話なのかもしれないし、これといって出来る事もないが、弱くても俺は味方のつもりだぞ。
(受け入れられるかどうかを明らかにするような機会を作れ、という事を強要したい意の「味方」ではないのでそこん所よろしく)

…実際にそういう事があったとして、その場で言うかは別だけどな。

でもまあ、同性愛者を認められないあまり、攻撃しようとするような、器量の狭い奴にうんこ投げつけてやりたい気持ちはある。

また別の話、人間の人格自体の問題というかね、主さんは違うようなので関係ないが、同性愛者の中でも、男同士の気の緩みにつけ込んで手を出すクソ野郎はいるだろうし、俺自身被害を受けた事もあるから、そういうのが悪目立ちしてるのもあるんだろう。

めんどくせえよな、関係のない人間にまで悪いイメージが付く、よくあるアレ。
(よくよく考えれば個人がクソだって話に落ち着くんだが、何故か警戒心が生まれてしまうヤツ)

まあ、どっかの宗教目線からは、「動物として子孫繁栄が正しい=同性愛は間違い」なんだろうが、そもそも他の動物も同性愛的な行為というか、同性で性的にまぐわう事は多々あるようでな、同性のつがいが出来る事も割とあるらしい。
何が正しいなんてあったもんじゃねえ。

たいした事もない、罪を抱えるのは自分の分を弁えず、利己的に欲望を他人へ押し付けて、傷を負わせる輩で良いだろう。
法的にも社会的にも裁きが下る。

…なんで「罪」なんて言葉が態々あんのかって、そういうクソを煎じて飲ませた方が良いような輩は、罪悪感なんて気にも留めないだろうしな。
戒めのため、態々「罪」を付ける必要があったのかもなあ。

とにかく、小瓶主さんが罰やら罪やらをかぶる必要はない。
同性愛が罪になる宗教になんて、入ってないだろ?

だからせめて、自分を守れよ。
理不尽にムカつきゃあいいじゃねえか。

自分自身に嫌悪感を抱くも何も、そもそも生まれた時にはなかった筈だ。

自分が嫌いなんじゃなくて、ご自身を出せない環境がクソだ。
そんな環境の一因となっているであろう宗教背景が嫌だ。
そういう話なんじゃないかと、他人事ではあるが、思った。

あれば全て解決するという訳でもないが、ないよりはマシだろう、ストレス発散というか、息抜きできる方法は、幾つか探しておくと良いかもな。
・・・小瓶の中の手紙を読む

烏羽
とりあえず、ストレスの発散方法は自傷以外にもある。

一人一人どんな事で発散されやすいかとか、好みや趣味とかでも異なるので、個人的なものだが、一応書く。

軽いストレッチでも、シャドウボクシングの真似事でも、少しジャンプするでもいいので、身体を動かす。

カラオケとかで、思いっきり、感情を込めたり、大きな声を出す。
深呼吸をする。瞑想する。(瞑想のやり方は幾つかあるので調べてみてね。俺のはいろんなのが合わさった我流なので人に自信を持ってお勧めできない)

気が向いた時でいいので、日記(雑記)を書く。
動画(松岡修造でも興味のある動物でもなんでも)を見たり、音楽を聴いたり、絵を描いたりする。

集中出来なかったり、ネガティブな事を考えがちな時には寝る。(それらは脳が疲れているサインだと思ってるので。大事なのは時間ではなく熟睡できているかどうかで、眠ることによって脳の老廃物が取り除かれるんだとか)

紙飛行機もいいぞ、飛ぶか飛ばないかは別にして、自分オリジナルの飛行機を作る事に真剣になり、飛ばしては拾って、試してを繰り返せば、少なくとも嫌な気持ちを抱える時間を減らせる。

ゲームしたりもいいな。
格ゲーとか対人要素のあるものは…、俺は平気な方だが、精神的に来る事も多いようなのでお勧めしない。

まあ、やり方は色々あるし、一つのものに限った話でもないので、自傷以外にも、精神を保てる手段を探してみたらええんちゃうか。

もちろん、宛メに吐き出すのも良い訳だしな。
・・・小瓶の中の手紙を読む

烏羽
(長くなるので、お時間やゆとりのある際に読んで頂ければ幸いです)

体は動かしてるか?
たまには紙飛行機でも作って、どんな形が良く飛ぶのかとか、自分で試して、飛ばして、遊んでみないか。
(飛ばしたのを拾いに行く分、割と良い運動になる)

真面目な話、精神は体の一部なので、軽くジャンプするでも、ストレッチでも、シャドーボクシングの真似事でもいいから、何か体を動かす事で気分が改善する事もあるぞ。
(無理に楽しもうとしなくていいし、体動かすの苦手だったら他の方法を探せばいいので、気が向いたら気が向いた時にやる程度の推奨)

また、ぼーっと、太陽の光を少しでも浴びる時間を取る、とかもいいかもしれん。
カラオケに行ったり、大きな声を出せる環境で、思いっきり叫ぶのもスッキリするかもな。

あと、眠くなったらあまり深刻な事を考えず、自分の呼吸の音を聞くなり、目を瞑った時に見える暗闇の中のチカチカとした光のようなものを見て、寝るといいかもな。
眠い時は頭が疲れてる。疲れてる頭は、物事をネガティブな方向へと考えやすいらしい。

まあ、生きている意味に関しては、そうだな。

それは、生きて、自分の人生を歩む事でしか解らんよ。
歩む事で、一人一人の中に、少しずつ出来上がってくもんじゃないかね。

それが、自分で意味を見つけていく事、自分の守りたいもの、思いを見つけていく事が、生きる意味、生きていった道になっていく。
そう思うよ。

多分、生まれる前から、何のために生きるかの理由なんて決まってないんじゃないかと思う。(特に精神的な面で)

まあ、強いて言うのなら、「心から楽しいと感じたい」「楽になりたい、助かりたい、辛さを解消したい」ってのが、今小瓶主さんが生きている、進もうとしている理由なのかも解らんな。

それも立派な理由になるんじゃないかね。

何不自由なく、恵まれていても、人は死にたくなる。
そんな人間が生きていたって、大丈夫だろう。

少しでも楽しいとか、興味があるとか、そういう事があるなら続けてみたらどうだろうか。
「心から楽しい」というのが、どういう事を指しているか詳しくは解らんが、のめり込むほど夢中になるとかなら、人生の中で中々、多くあるものでもないと思うしな。

毎日、年がら年中とは言わないが、続ける事で、物事の奥深さが見えてきて、そこに興味を持って、今までよりもっと、深く楽しめる事もある。

それに、趣味なんてなくても、何か色々な事の中で、一つ一つ、切れ端からでも、楽しみを見つけられるならそれも良い事じゃないかと思う。
(無理に続けようとこだわる意味もないしな)

他、だらーっと、ぐでーっと、あえて、そういう過ごし方をしてみるのも良いかもしれん。

あとは、理由もわからなく、何故か生きている事が辛い。この漠然とした不安よな。
馴れ馴れしいかもしれんが、これは辛いだろう。

でも、不思議だよな、俺もそうだったんだが、この不安はいつの間にか来やがる。

幼い頃なんて、「生きている事」そのものが辛いなんて事はなかった筈なのにな。
そして、いつの間にか生きている事のそのものを、嫌なものにすり替えやがる。

正直、俺には言葉を書く事だけで、直接的な手出しはできないが、小瓶主さんを生かすのは、小瓶主さん自身しかいないからな。

生きる事を手放して、生きたまま楽になれるかもしれない可能性に、背を向けてしまうなよ。
あなた自身が手放したら、誰にも止められない。

生きていれば、自分の中で嫌な事とか、諦める事とかはあると思う。

だけど、何かを諦めても、自分で、自分の事の全てを手放さない。
一つを諦めても、他はまだ諦めない。
それは、覚えておいてほしい。

…ただ、人間ってのは、意外とタフでな。
エグい話かもしれんが、首を切られても意識はあるそうだ。

俺にも死んでみようとした事はあるが、未遂に終わってな、身体の意識が全力で抵抗しやがるし、意外と、高い所から転がり落ちても、運が良かったのかかすり傷程度で死ななかった。
飲まず食わずで死んでやろうともしたが、いつのまにか意識は朦朧として、水を飲んでいた。

追い詰めるようで悪いが、現実的な話、死ぬってのも、決して楽な事ではないぞ。

とりあえず、少し気分がマシというか、ご自身で元気があるな、と思えた時に、もう一度考えてみてはどうかな。

出てこない事もあるかもしれんが、生きている事の中で、何が辛かったのか、嫌だったのか、何度か考えている内に出てくる事もある。(理由があったならな)

生きたいか、死にたいか、そんな事は良いんだ。
とても楽しい事や見たい先があれば、生きたくもなるし、耐えられないような辛い、苦しい、見たくない先があれば死にたくもなる、逃げたくもなる。

日々の小さな幸せがささやかに、生きる事を支える事があれば、日々の小さな不幸が、少しずつ重荷になって、生きる事を否定する事もある。

そんな事は関係もなく、理由もなく、生きたくなる事も死にたくなる事もある。

今、心から、何がしたいか。
どんな小さな事でも、夢物語のような、非現実的な事でもいい、何度か考えてみてくれよ。

それで、気が向いたら、ストレス解消の方法や、リラックスできる事を探して、自分に合うかどうか試してみないか。
・・・小瓶の中の手紙を読む

烏羽
お返事のお返事、ありがとう。
遅いか早いかは特に気にしてないからええよ。
(という体で遅めの追加お返事&長くなったのでお時間のある際に読んで頂ければ)

元気かどうかは…
いつも通りかな、特に可もなく不可もなく、気怠く生きてるわ。
スリザリンさんもそれなりに元気だと良いな。

まあ、一重に俺のお陰という事ではあるまい。
他の人との関わり、きっかけもそうだが、きっかけを何に、どのようにか結び付け、それに対して思いを巡らせ、努力をする。
自身がどのような立場にいるのかという、思い、意思、広い視界を、自分自身で作っている。

そんな、スリザリンさん自身の力もあってこそだろう。
扉を見付け、開く力は、あなた自身のものだ。

俺は結局、他人の人生に、勝手な価値の押し売りをしとるに過ぎん。

…だからこそ、礼を言ってくれて感謝の念が湧き上がるというものだ。
こちらこそありがとう。

そうそう、何度かしたお節介かもしれんが、考え方以外にも、軽い運動やらシャドーボクシングの真似(俺がたまにやる)とか何かしら、気分転換やストレスの対処方法として頼れるものを増やせれば、シンプルに頼れる支えの数や対応の方法も増えるし、良いのかもな。

あと、嫌な事を考えているとか、負の感情を抱いていると気づけた時、また、そうであったと後から気付いた時。
それが辛くなって避けたい場合には、どうすればその思考や感情から、自分自身の意識を薄められるか、逸らせるか、尚すれば止められるか、色々な方法を、一つに留まらず、一度に留まらず試してみるのも良いかもしれない。

それで方法を確立しても、いつか、その時に受け止められない辛い事は来るかもしれないし、気付かぬ内に疲労が溜まる事もある。
だけど、だからこそ、自分自身を知る事が大事だと思う。

おっしゃる通り、辛い事も、自分らしく生きる為の…、自分の人生を歩んでいるからこそ、自分だけの答えが出てくる。出す材料になる。

そうして少しずつ自分の傾向を知り、自分の体の仕組みと連なる精神の形、心の輪郭を作りつつ、理解して行く事で、ストレスへの対応も自分自身へより合ったものになって行くと思う。

具体的には、「辛い時、考え方や意識がこうなりがちだ」「悲しい時の自分にはこういう傾向がある」などと、己が身を理解できれば、それに対応する注意や、対策を練る事が出来るからな。

もし困難に塞がれる事があっても、立ち上がる力や、回復力を高められる方法がある筈だと、そう、勝手に思っている。
・・・小瓶の中の手紙を読む

烏羽
なんか変なんだよな。

働かざる者食うべからず。
…単に、働いてる立場からしたら、働いてない奴にムカついてるだけじゃね?
あわよくば、都合の良いように人を動かしたいだけじゃね?

頭おかしいだのなんだの、そもそも頭がおかしいという意見を押し付けているお前の感覚がおかしいって話だし。

自分達(だと思ってる多数派の後ろ盾が欲しいのか?)が正しいものだと、そんなに思い込みたいものなのかね。

まあ、ただ、事実として体を維持するためのエネルギーが食べ物から取れてないと、体を分解して運動するためのエネルギーを得ようとするから、体は物理的に痩せ細る。
小瓶主さんも解っているとは思うが、その点では、俺は大事な事だと感じる。

(限度を超えて食えという話ではないよ、極端に言って、栄養が足りないと、筋肉や骨がスカスカになって最悪立てなくなる事もあるっていう話)

小瓶主さんが周りと比べて細いからなのか、少食なのか、ストレスとかで拒食気味なのかとかは解らんが…、なんなんだろうな、このくだらんやり取りは。

小瓶主さんが心配なら心配だと言えばいい。
みんなで食べたいならみんなで食べたいんだとそう言えばいい。

実にアホくさい。

大体の場合、こういう奴らは自分たちの立場、相手からどう見えているのかを想像しようなんてしない。
何で気付かないんだろうな、言いたい事も言えないように、自分たちがしているんだって。

何がおかしいのか、何が狂ってるのか、「自分たち」までを省みやしない。

とにかく、小瓶主さんのようにおかしさに気付ける人間がいるんだと知れて良かったよ。
俺は自分を正しいとは思えない、俺自身に微塵もおかしさがないとは口が裂けても言えない、それでも、こういうのは、まともじゃない。

人それぞれ食べ物に好みがあるなんて事は、幼い頃に知った筈なのにな。
人それぞれ個性があるなんて事は、その時点で欠片でも思いつく。

…なんでそれを集団で潰そうとするんだ?
自分と違う事なんてありふれているのに。

細かく見ていけば理由なんて腐るほど思い付くんだろうが、一体俺たちゃどんな常識とやらを学んでんのかねぇ。
ため息も吐きたくなるわ。
・・・小瓶の中の手紙を読む

烏羽
あ、お返事どうも。
(まりちゃんさんか?)

なるほど、助かるぜ。

…というか、まりちゃんさんだったらあれだろ、今までの感覚から俺を見て、判断してる事になるよな。

本意か…
そうだなあ、そういう所もあるときゃあるな。
無理な時もあるってのが解った上で、ってのもその通りだと思う。

ただ、どうでもいい時はどうでもいいので、割とその話の流れに合わせたり、逆に載った上で修正しようとしたりする事もあるね。

やりとりの連続ってのは、まあ現実的な話シームレスな訳でもあるから、そういうのも込みで「連続」だわ。
(長期的にも、体調やら解釈力やらの関わりとかで、一度に伝わらない事もザラにあるし)

で、なんでこんな風に事細かに説明しようとするのかというと、表現する事で自分の気持ちも見えてくるからなんだわな。
どんな意味や思いを込めた言葉だったのかとか、何を伝えたかったのかとかが、少しずつ明確になって行く。

(割と人間ってそこん所、明確でないらしく、嫌な事とか書き殴ったりするとストレス発散になるのも、そこら辺の具現化、表現化が関わっているとかなんとかようしらへんが)

…多分、そこが誤解されてるような気がするな(苦笑)

正確に伝わらないのが嫌かというとそうだけど、ものすごく嫌か?、と問われると、人の事なので後は知ったこっちゃねーぜ、がある。
(どうにもならないし、大して気にならない)

ただ、少しずれると真逆の意味になるとか、致命的なのは特に避けたいとは思ってる。(言葉は怖い)

…クックック、投えi…?
おっと、誰か来たようだ。

まあ、バイアスってやつぁ、人間の認識として誰しもある訳ですわな。(※こういう脈絡のない表現をすると解釈がズレやすかったり)

だから、それとどう関わって行くのかを、自分と相談するのが、コミュニケーションにおいて大事なんじゃないかと思うんじゃよ。(同じ話を繰り返すオヤジ)
・・・小瓶の中の手紙を読む

烏羽
うーむ…

正直、あまり言いたくはないが、良し悪しを超えた状態になる、というのは、別に良いもんでもない。
当然、今とは別の状態になる訳だから、人によっては都合の悪い面が新しく出てくる事にもなるかもしれない。
勿論、都合の良い面も生まれるのだろうが。

(俺の場合、日々の原動力が薄まったので、「自分自身が何をしたいのか、どう生きたいのか」を煮詰める必要があったし、今も気が向いた時に自分と向き合っている)

はっきり言って、する事モードも、ある事モードも、状態であって、良し悪しはない。
良し悪しを付けているのは言わずもがな、一人ひとりの人間だ。一人一人が自分の人生を生きているからだ。

…もし、表現は悪いかもしれんが、勘違いをしているのなら、「評価をしないようにしよう、とする事」が「ありのままを認める事」ではないと思うぞ。

評価をしても、ありのまま、その良し悪しを認める事は出来る。

…というか、評価、価値の判断がなければ、良し悪しなんて生まれないからな。
(恐らくここが矛盾の原因ではないかな)

強いていうのであれば、単に「あれは個人的にダメだと思うけど、別の視点もあるよね」と思えれば、それでありのままを認めているという事と同義だろう。

(絶対の必要性は感じないが、何か目的があるのなら、常日頃何事に対してでもその視点を持てるようになる事が、その視点を身に付けるという事なのかもしれん。…一人の当事者としては、頭の中がゴチャゴチャでしょうがないが)

他の言い方をすれば…
良し悪しの判断、評価を付けるというのは、それだけで物事に進む力ともなる。
だが、反面、何かに執着したり、片面だけに囚われる事にも繋がる。

それだけではないだろうが、その、メリットとデメリットを理解する、「人間の認識を知る」という事だろうかな。

(真面目に書くと、脳回路としての繋がりを、人によっては新しく作る事になるので、視界が変わるには、栄養と日数が掛かる。
あと、常日頃からそういう視点だと、個人差はあると思うが、どうも複雑な思いを抱きやすくなるようで、さらに自分と向き合うというか、ストレス発散やらリラックスやら、方法を増やした方がいいかもしれん)

はは、まあ、りぃふさんの書かれたマインドフルネスがなんなのか、よく解ってはいないから、そのプログラムで目指すものと一致しているかは不明だがね。

呼吸などの身体の感覚に意識を集中させるとか、吸った息の倍吐き出すのを繰り返すとか、いくつかやり方はあるが、瞑想はいいぞ。

詳しい理由は解ってないそうだが、統計的にやり方次第で集中力や落ち着き、冷静さなどが高まる可能性が見えているからな。
・・・小瓶の中の手紙を読む

烏羽
おひさ〜。

いや、大分遅めの返信なので、色々考え巡らせて振り返るのも難しくなってるかもしれんが、前書いた「生きてる指針」っちゅーのは、あれよ。

勉強のことだけじゃなくてな、いろんな事だよ、生きていて感じる、遭遇する色んな事。

強いて大筋があるとするのなら…、シンプルな言葉にするのなら、「どうやって生きていきたいのか」。
「瞬間瞬間、何がしたいのか」。その中で「何をどう捉え、見続けるのか」。

なんというか、この小瓶でりぃふさんが書いていた殆どの事に、指針が見え隠れしていたもんで、その中で一つ取り上げ、どれだと考えると、どうにも上手くまとめられず抽象的になってしもうた。

まあ、確固たる指針として、自分が生涯貫きたい、ずっと持っていたい、と思うものもあるとは感じるが…
人間は、未来を持つからこそ、「今」が一番浅くなる生き物だとも感じる。

要は、皮肉めいた表現になるが、幼い自分が作ったデコボコな指針を、成長した自分が持ち続け、保ち続けられるのだろうか、と思うのよ。

そういう部分もあるしな、少しずつ纏まったり、散らばったり、整ったり欠けたりを繰り返しながら、道みたいなものが出来ていくんじゃないかとね。

(これに関してのお返事はせんでええよ)
・・・小瓶の中の手紙を読む

烏羽
(長いので、面倒だと思ったら読み飛ばして貰って構いませんので…、もしも飛ばさず読まれる際には、お時間と気力のある時に見て頂ければと思います)

そうだよな、俺もそう思ってる。

けど、なんでこんな悩むのかって、意見を言っても対立しない可能性があるってのも、あるからだと思う。

「意見を言う事=対立する事」ではなくて、あくまで対立する可能性のある事、なんだよな。

でも、可能性っつっても、その言葉だと何の事だかはっきりしにくい気もするので書くと、まあ、言葉の表現による可能性じゃないかと思う。

同じ意見の人には通じるし、共感もある。

だけど例えば、「俺は指で直に鼻クソをほじる奴が許せねえ、鼻クソ触った手で他のものに触れんじゃねえよ!」とか、否定的な事を挑戦的…というのか、対立的、排斥的、…簡単に言えば、攻撃的な表現をすると、そりゃあ対立、争い事になりやすいと思われる。
(汚い話ですまない)

じゃあその例を少し変えて、「俺は指で鼻クソをほじるなら、その指で色んな所を触られると気になっちゃうんで、出来ればティッシュを使ってくれるとありがたいかな」と表現すると、どうだろう、多少は柔らかくなったんじゃなかろうか。

もちろん、小瓶主さんが、「争い事を作る必要性は無いんじゃないか」と仰ってるのは、少しでもある、対立の可能性を潰すためだとは思う。
けど、表現によって、受け手が感じる言葉への解釈って結構、変わったりもする。

他に、猫派と、犬派が居たとする。
で、猫派の人が「猫には猫だけの良さがある、その良さは犬にはないし、猫は犬の良い特徴をも持ってる。犬は嫌いだ。犬は猫より劣る」なんて言ったらそりゃムッとするんじゃないだろうか。

だけど、そうじゃなく、猫派の人が「猫には猫の良さがある。だから私は猫が好きだ。犬は苦手だが、犬にも犬の良さがあるのだろう。尻尾の振りなどが猫にはあまりなく、可愛く思える」と、受け入れれば、もしかすると犬派の人も、「へー、猫って尻尾ブンブン振らないんだ。僕も猫は苦手だけど、猫にも可愛い所があるんだろうな」など会話が広がっていくかもしれない。

まあ、思い付く限り、他にも、「不快に思われたらごめんだけど」とか、「上手く言えないから傷付けてしまったりするかもしれないのだけど」とか、予め前置きとして断っとくのもあるかなあ。

そういう、ちょっとした心の声を表すというのか、争いたくない事や、上手く表現する自信がないと伝われば、聞ける体勢も整うというかね、そこで通じる話もあるかもしれない。

…多分、精神的に落ち着いてる状態とかだと、自分の嫌いなものを好きだと持ち出された所で「へー、そうなんだ、そういう事もあるよね」ぐらいにしか思わんよ。
少なくとも俺はそうだし、言い方が余程の悪意、敵意に満ちているとか、衝動的で困った言い方だと感じられなければ対立する事もないというか。
(他の人は知らんけど)

ただし、どんなに気を付けていても、どんな表現であっても、受け手が怒っていたり、見るもの全てに腹が立ってムシャクシャしているとか、平常な状態でない時は、そうでもなかったりする事もある。
(俺もそう)

あくまでも言葉とかから、どう思ったのか、何を伝えたいのかを認識するのは相手なので、相手側の解釈する力が落ちていたりすると、どんな表現でも争いの火種になる事は割とある。
(発信側の疲れなどから、表現力が下がって、伝わりにくくなる事なども勿論ある。自他共に誰が悪いとかもなく、どうしようもない時はどうしようもなくあったりする)

だから、その時に発信側が出来る事として、まず「ごめんなさい、そんなつもりじゃなかったんだ」と謝るとか、誤解を解こうとするとか、落ち着いてもらうために引っ込むとか…、そういった行動を取れるようにするしかないかね。

正直、人それぞれ価値観や認識が違う中、「すべての人に嫌われない」って事は不可能に近いぐらい難しい事だと思うのよ。

だから、自分自身が言われてムッとした言葉を使わない、苛立ちのある時には感情的になりそうなので意見を言わない、ってな事も、時と場合で大事だと思うけど…
「言わない」事を深刻に考えるより、「対立する事やよく思われない事をどう回避できるか」、「困った事がもし起こった時に、どんな事でフォロー出来そうなのか」って事を深刻に考えた方が、少し先が見える分だけでも気楽じゃないかと思う。

畳み掛けられているように感じるかもしれんので、あんまり言いたくないけど、「言わない事」を「良くない事だ」と認識する人がいれば、黙ってても嫌う人はいないと言えない。
(黙っている事を都合よく解釈して、好意的に見る人もいるかもしれないし、そのどちらとも思わない人だっているのだろうけれども)

気休めになるかは解らんけど、よっぽど極端な人でなければ、「嫌われる=その瞬間から人が離れる、攻撃される」という事には必ずしもならないだろうし。

態々嫌われようとする意味は(目的がなければ)ないけど、嫌われないように努力した所で、嫌うのは自分じゃなくて他の人な訳で、どうしようもない時もある。
(元々人が嫌いだという人には嫌われてもしょうがないし)

こういうしんどさなのかは解りかねるが、嫌われないために作った自分があるとするのなら、その仮面が続くかどうかも別だしな。

あと、人それぞれの価値観や、解釈が違うからこそ、その人それぞれ、個人を知った上で、関わっていくのも大事かな。
どんなものが好きとか、嫌いとか、許せないラインがどこにあるとか、そこら辺が解って来ると、手探りよりは楽になると思うから。

とりあえず、言われるまでもないと思うが、小瓶主さんの気が向けばな、言えそうな時、練習ついでに試し試し、少しずつ意見を出していく回数を増やしていくのもアリだよな。
(やれとか、強制したい訳ではないので、そこん所は無理なさらず。したくないならそれでいいだろうし、方法なんて色々あるし)

この小瓶を意見として読んだ感じ、…俺が、共感なりしてるし、そういう人間だからという事もあるかもしれんが、小瓶主さんを嫌いだとか、対立的だとか、特に何も思う事はないし。(中立)

全ての人が大丈夫かは知らない(解る訳ない)が、個人の感覚からはまったくもって平気だったぞー。
・・・小瓶の中の手紙を読む

烏羽
(長くなったので、お時間や気力のある際、気が向いた時に読んで頂ければと思います)

大丈夫、自信が持てなくても、上手く行く事だってあるよ。
(当然上手くいかない事もあるが、それはそれとして)

自信があるかどうかは、確かに迷いというのか、行動に部分的な影響がありはするけど、自信を持つ事が良い結果を出すのか、それで上手くいくのかって、そんな事実はないから。

(自己評価と、結果は別物。また、他人からの評価も、その人が感じる事を伝えているだけであって、別のもの。認識はそれ以上でも以下でもなく、事実そのものではない的な)

寧ろ、不安な事や、現時点で出来ていない事があると理解していると解釈するのなら、それも充分、小瓶主さんが出来ている事ではある。

ただ、それを絶望、悲しみや苦しみのまま終わらすのは勿体ないと、手前勝手に俺は思う。

気が向いたらでいいんだけど、期待されているとか、こういう人だと決め付けられる状態とか、その中で…
なんて言ったらいいか上手く表現できないんだが、何か、人に言いたくないというか、行動を思い留まらせる理由、立ち止まる理由は思い付くだろうか?

例えば、小瓶主さんが実際どう思うかは別に、俺が適当に思い付くものとして、「嫌われたくない」「争い事になったりで、関係性を壊したくない」とか。

いわば、どういう所に不安を感じるのか、何が起こると困るのか、って感じ。

そこが明確になってくると、それを避ける為にはどうすればいいのか、もし困った事が起きた時、どんなフォローが出来るのかとか、対処方法を具体的に考えやすくなっていくと思うし、対処が見えてくれば、行動への移る為のハードルは下がるんじゃないかと。

(行動に移る際、大なり小なりの覚悟はいるかと思うので、そこは変わらないが、何も対処できないという不安は、多少なり楽になるかと)

まあ、もしやるとしたら、自分の気持ち、理由が考えても出てこない、明確にならないなんて事は山ほどあるので、長い目で見て、休み休み日を跨ぐでも、何度でも気が乗った時に考えるのをオススメする。

(ついでに、好き勝手考えていると、最初に何を考えていたか解らなくなる事もあるので、何を考えるのか、目的とかをメモするのも、考える支えになると思う)

思い返してみると、過去の自分の気持ちは、輪郭的に覚えているようでも、事細かにはあんまり覚えてない事も多かったからさ。

…本当は何もしなくとも、状況が変わってくれれば良いとは思うんだけど、都合よく変わってくれる事もなかなか無いからね。
(小瓶主さんに対して何かしろとか、とかそんな事を伝えたいのではなく、直接的でなくとも、何かしらの行動をした方が、多少でも確実に変化はあるので、考えた一例をとりあえず書いてみたというか)

あとは、人によってそれぞれ感覚が違うから、個人差は大きいと思うけど、趣味というのか、ガス抜きできる時間というのからストレスの発散方法を持っておくとかも大事かな。
(俺だったら、絵を描くとか、歌うとか、音楽聴くでも漫画読むでも景色見るでもあるし、軽く運動する、逆にぼーっと何もせず、のんびりするとか)

で、どうして生きているのか、という事に関しては、俺も興味があって考えているけど、明確には解らんな。

物理的な視点から言えば、親が産んで、育てられて育って、生命活動のその連続からとしか。
何のために生きているのか、と問えば、身体的には子孫を残す為、生きているこの状態を維持しているから、だとかは答えられる。

何か使命、役割があるとか、精神的な目的とかになってくると、解らんね。
人それぞれ違ったものになってくるとは思うが、強いて言うなら俺自身の中では、「学ぶ事」や「楽しく思える事」とかが生きている事の一つの支えというのか、一瞬その時を進んでいる、ちょっとした原動力だと考えている。

別に、疑問を持つまで意識してこなかったように、「生きたいから生きている。生きていたいから生きてきた」という訳ではない、目的があった訳ではないから、考えた所で、生きている事に関わる周りの事って結構スカスカだったりするのかもしれない。

(そもそも、生きているという事がどういう状態かなんて、物理的な反応以外に何も解ってないし、だからこそ考えたくもなるのだが)

だから、強いて言うならば「生きていたから、今も生きている」し、「生きている中でしたい事、楽しいとか感情を含めて、良くも悪くも興味のある事があるから、そこへ向く」としか、今の俺には言えないかね。
そんなもんなので、死にたいと思う事に大した歯止めもないから、そこはちょっと困る部分ではあるかもしれないが…、死ぬときゃ死ぬと思って、生命活動に関しては身体に大体をお任せするつもりになってる。

とはいえども、もちろん俺も身体の一部な訳で、喉が渇いた、腹減ったとなると飲み食いするし、寒いとかなら暖房も付ける。
意識としての俺が、体を動かして死のうとしたら、身体が苦しいだとか腹が空いてしょうがねえだとか、危機感を出して全力で止めようとするし、抗いもするしな。

…こういう、心と身体の差というのか、関わりって、人間関係の一模様に似てるよな。
似てると思ってるだけなのかもしれんが。

ここまで読んでくれたならありがとな。
長文を読み返すのも大変だろうから返事とかも無理にしてくれなくていいんで、とりあえず、風邪には気を付けて。
・・・小瓶の中の手紙を読む

烏羽
そんな説明会みたいなものがあるのか!?
俺の経験した所だと、紙に任意で理由書く所があるだけ見たいな感じだった筈。

…正直びっくりだが、小瓶主さんの思う通りに、「精神的に辛くて辞める事を決心しました」とかで良いんじゃないのか。

何かそれ以上に深掘りされて、答えたくなかったら「答えたくないです」で良いだろうし。

そう答えても、あんまり問い詰めてくるようなら…
もし俺がそういう立場だったらさ、事情とかはよく解らんから妄想なんだけど、「そういうのが精神的に辛くて辞めたくなったんです」とでも言ってやりたいね。
突き放しつつ、トゲのある言葉なので、人間関係的な意味でオススメは出来ないし、俺も多分、そういう状況になったら言えなさそうだけど。

うん、まあ、恐らく「何が」精神的に辛かったのか、聞かれる可能性はあるので、考えとくと良いかもしれない…
…と言っても、答え難かったり、曖昧というか、明確ではないかもしれんから、その時は「答えにくい」とか「言葉にならなくて、明確には答えづらいです」とでも正直に言ってみるのはアリだと思うよ。

寒いと乾燥しやすくなって、そこから風邪にも繋がるので、あったかくするとか、喉のうがいとか、ケアは忘れずにな〜。
・・・小瓶の中の手紙を読む

烏羽
(上手く纏められず、読み難いだろうという懸念のある上、かなり長いので、時間や気力に余裕がある時に、読んで頂ければ幸いです)

人それぞれ価値観が違う。
だから、悪いが「人間としての価値」と言われても、俺が思う価値観でしか物事を語れない。

…が、個人的な意見を書かせて頂けるのなら。

事細かには沢山ありすぎる事と、「人間として」とはどこまでの意味を持ってのものなのか解らず、全てを書く事は出来ないが、まず、「意味を作れる事」だと思う。

どんな事に価値があるとかないとか、その価値や意味は何であるとか、因果関係を想像して結び付けられる。

勿論、それによって嫌だと思う事、避けたいと思う程の意味のあるものも生まれる。
意味を作れるというのは良い事ばかりではないが、良いも悪いも含めての価値だと俺は思う。

長所と短所は紙一重だとか、バカと天才は紙一重だとか、そんな言葉を聞いた事はないだろうか。

人は物事を対極的な、「良い所しかないもの」とか、「悪い所しかないもの」と言ったように見がちな所があるように思う。

俺は良いも悪いも、根本は同じものなのだと考えている。
何が良いのか、悪いのか、その意味を、都合や状況に合わせて判断(作っている、あるいは分断)している。

それで、いつのまにか、自分の感覚、感情や思考を伴う経験から、「これはこういう意味があるから良い」「あれはああいう意味があるから悪い」とか、延いては「この行動は良い」「あの行動は悪い」などと、意味が作られていく。

その積み重ねにより、自分の視野、認識している世界が形作られていく。
そう考えると、ここまで大きな影響のある価値はなかなかない。

…別の話だが、重なる事として、俺は「生きている事」に対して、意味を見出せていない。

ただ、今まで書いた事が、「生きている中でしか出来ない事」だとか、「生きているからこそ行える事」という視点を持って考えてみれば、「生きている中で価値を見出す事が出来る」などといった意味、価値を、繋がりの中から感じる事は出来る。
(生きている事自体に意味が見出せなくとも、ものことの繋がりから価値や意味を見出せる)

最初に「因果関係を想像して…」とか書いたがその具体例を説明したくて、上のを書いた訳だ。
そういった視点の変更や、繋がりの中から感じ入る事が出来る事、そこに意味があると感じられる事を、一つの人間の価値(人の持つ能力的な意味)として見ているというか。

…ずいぶん長々と説明したが、難しい事でも大した事でもない。
誰でもすぐにでも、特に意識しなくても出来るような事で、一言で表せば「学びがある」という話だ。

生きている中では色々な事がある。
その中に、自分自身で、価値があると思える、感情や感覚、経験、過程や結果、意味…、色々なものが、生きている事の中から見出されたり、作られていく。

「学びがある」という事を俺自身の人生で、人間である上での価値として、意味として、支えの一部にしている。

生きている中で、死ぬまで、変わらない価値があるかどうかは解らない。
人は変化するからな、価値観が変わる。感覚、認識、考え、ものの見え方も変化する。

「生きている意味とは何か」を問われれば答えが出しにくいように、「生きている中で瞬間的に、その時々に意味を見出している」のだ。
(解らない、答えが出ない、という状態も含め)

生きている中、人間である渦中、それらである事の価値、意味を考えても、その場その時、瞬間的な、小さい部分での意味しか考える事は出来ない。
変化し続けているし、ある程度かもしれないが、自分で変化する事も出来るからだ。

小瓶主さんにはどうだろうか。

俺は通算二十年ぐらい、気が向いた時にでも考えて…、いずれは違った意味を見付けるかもしれない、決して明確ではなく、頼りにも出来はしないので、支えではなくなる時は来るかもしれないが、今そういった答えを出している。

返信はしてくれなくて構わないが、今までの人生を振り返って、何か、人間としての価値…、あるいは、「どんなものが人間なのか」とか、「どういった人間に、どんな価値を感じるのか」を考え出せるだろうか。

自分の人生そのものというのか、運なども含めて、自分の作ってきた、関わってきた世界をどういった価値として表せるだろうか。

今までの人生を、考えたいから考えては来たものの、答えはそうそう出せるものではなかったと思う。
正直言って、人間としての価値とは、一体何なのかという事は、俺にとって、自分の人生とはなんだったのか、という疑問に近いからだ。
それに、変化し続けているという事もある。

こういう見方、考え方をしているので…、これが今の自分の答えだ、考えだというものは出せても、小瓶主さんの遊蝶花さん自身が持つ、疑問への答えは、悪いが出せない。

そこは、もしもだが、気が向いたのなら、その時々にでも、少しずつ、休み休みご自身で考え、いずれ導き出して欲しいし、それは一人一人違ってもくるだろう。

あなたにしか出来ない事だし、だからこそ、価値が生まれ来るのだと思う。

…まあ、多分、何か嫌な事があったとか、葛藤などから疑問がわいたとか、そういう事からこの小瓶、言葉を流したのかもしれないとは思うが、無礼は承知の上、あえて「人間としての価値」とは何かを考えさせて貰った。

何でもいいから、何か言葉を送りたいと思うのも、人間の価値…と言えるのだろうか?

もしここまで読んでくれたのならありがとう。
寒くなると免疫力が低下しがちなので、ココアなどを飲むとか、暖かくして、風邪などに気を付けてな。
・・・小瓶の中の手紙を読む

烏羽
(長文なので、時間のある時や余裕のある時に読んで頂ければ幸いです)

多分、こればっかりは関わってきた時の長さとか、返事をしてきた数なんて関係ないよ。

俺も、自分の返事を見直しては「ここ説明として足りてねえんじゃねえかな…?」とか、「この表現や言葉遣いで良いのか?」とか、色々悩んだり試そうとしたりしてる。

納得行くものにしようとした結果、補足を書き足して、書き足して…、長文になって、読む為に時間とエネルギーを使うという点から見て、受け手が読み難い長めの文章が出来上がったり、まとまりがなくなったり、言葉遣いの一貫性がなくなったりする。

自分の納得を求めるのは、一言で言うと沼よ。

突き詰めて考えると、人と人との関わりにおいて、特に誰とも解らん人に言葉を伝える事に置いて、安心なんて出来る訳もないし、納得もほぼ無理だと思ってる。

何でって、人によって、更にはその人の日々の状態によっても、言葉への解釈、意味の受け取り方、ニュアンスが変わる事なんてザラだからよ。
(発信する側としての自分自身も同じく)

だから、ぶっちゃけ何が良いのかってのは、判断が難しくなる。

例えばだけど、「敬語」で良いのか?と考えるとする。
敬語で伝えれば、統計的には言葉遣いが良くなって、言葉から受け取る印象は落ち着くかもしれない。

ただ、どんな感覚として受け入れられる可能性があるのかを考慮して、言葉を選ぶ事は出来ても、だからといって、絶対に相手へと伝えたい言葉が届くのか、というのは別なんよな。
自分じゃなくて、相手が判断するから。

また、相手側へ伝える時の問題だけじゃなく、自分としての納得も、相手への考慮とは重ならない別の所にある場合がある。

俺なんかは、敬語を使うのに慣れていないというのか、正直「日本語としての正しい敬語」がよく解っていない。

また、「普段とは別の事をする」という感覚も合わさって、あんまりしっくりこない。
だから、自分で敬語を使おうとする時、使っている時に違和感をよく感じているし、それ故にエネルギーを使う訳だ。

この納得出来なさを押し通して、敬語を使わなければ良い、という訳ではないし、かと言って必ずしも敬語を使うのが、全てにおいて良いという訳でもない。
(敬語の与える印象として、堅苦しくなってしまう事もあるので、そういうのが嫌だとかになると、使っていいのか迷う)

俺の場合で言えば、敬語を使おうという意識から、返事を書き続けにくくなる事もあるし、相手に合わせてみようとなった時、自分の意見を曲げるのが良い事なのかと感じ、葛藤する事もある。

(相手に迎合する的な事は無理があったので久しくやっていない…が、それはそれでお返事をする時、小瓶主さんの文章から読み取れる内容へ共感が出来ない事も多く、その立場を説明しようと伝える時などにはどうしようと悩んだりもする)

まあ、もし小瓶主さんからのお返事が来たり来なかったりで、伝わらなかったと感じる事があれば、気が向いた時に補足や、誤解を解くための返事を書いてみてもいいだろうし。

俺自身としては、お返事の中で思い付いた事は、ある程度やってみてるかね。

相手の事も自分の事も含めて、納得付けようとして、上手くいったり上手くいかなかったりして、今も悩みながら書いてる。
人と関わる以上は避けて通れない葛藤なんじゃないかと思うよ。

なので、お返事をする上で「何が良い」として考えてみても、具体的には説明出来ませんな。
それに、解ってるかもしれんが、やっぱ「伝えやすさ」とか、「解りやすさ」や「読みやすさ」って、自分自身が何を目的とするのかや、その都度、場合にもよるしな。

一応、曖昧に、倫理観に反しない事だとか、思いやりのある言葉遣いを心掛けるとかは言えるけども。

何か他に心掛けてる事があるとすれば、ただ正直に書くようにはしてるかね。
(それはそれで問題になる事もあると解ってるから、そういう時は返事をしなかったり、する場合には控えめな表現を意識したりもする)

伝わるかどうかは別にして、思ってる事って、「認識」な訳だからね。
言葉を発する時には、この、自分の認識から伝えようとする訳だから…、いや、俺自身がそういう人間ってのもあるのかもしれないけど、好ましさとか嫌悪感とか、そういう抱いた感情って文章(行動)に乗りやすい。

要は、良いも悪いも含め、文章から思いが滲み出てるな、って感じる事があると思うんよ。
だから、人としての節度というか、プライバシー的な線引きや、言ったら嫌な気持ちになるだろとか思う事は言わないとしても、寧ろ心を開くというのか、正直にね、その時に伝えたい事は伝えようとしてる。
(嘘付いても俺の性格上、多分すぐにボロが出る)

まあ、そうじゃなくても、場合によってはこういう長文を目にする事で、良し悪しの「圧」を感じてしまうだろう事から、意図せず「やたら熱意がある」と受け取られたり、書き方とか受け取られ方が悪くなってしまうと、「この人は自分をそんなに否定したいのか」と受け取られる事もあると思う。

(俺としては、もうこの長文を書くのが普通の感覚になってしまっているし、推敲を重ねる内にこの文章量でも長いと感じなくなってきてしまっているという…。…みたいな余計な事を書いているから、長くもなっているのだが)

気分を害すというのか、不快に思われたら困るけど、不快に思われても「それでも、これは伝えなきゃ余計困った事になるんじゃないか」と感じるものは、「不快を承知で」「気分を害したら申し訳ないが」とかで伝えようとしてみたりもした事はあるかね。

方法として良いかどうかは解らんが、こればっかりは、その都度、何を目標として求めるのか。
自分が何をしたい時に、何を見落としがちなのかとか、何が試してみてやりやすいと感じる方法だったのかとか、自分の感覚に合わせてやっていくしか、納得出来る方法はないと思う。

半ば人と接しながら、自分自身の特性とか、性格とかとも向き合う事になるかね。

ご自身が、どんな目標…、どんな返事をしたいのか、どんな事を伝えたいのかって部分を、少しずつ具体的にしていく事も大事かもしれん。

何故足りないと感じているのか。
つまりは、具体的にどういう所に不安があって、そこに対してどんな対策が出来そうなのかって事を考える訳だよな。
・・・小瓶の中の手紙を読む

烏羽
今思ったんだけど、「誰かのせいにするな」って、解釈次第で、意味がかなりブレる言葉よな。

自分に責任を持つ事なのか。
自分のせいにもしない事なのか。

あるいは両方を含めてなのか。

昔の事だろうし(今返事を書くのも時期的になかなか前の事だろうし)、俺としても人の事なので、どんな文脈の前後があって、全体的にどんな意味だったのかは解らない。

結果的には、「(自分以外の)誰かに責任を押し付けない」って意味として使われた結果、りぃふさんの概念が立っていったのかもしれないけどな。

…というか、生きてる指針お持ちやんけ…。
拠り所や支えという程、大きくはないのかもしれんが、小さな端々の要素が、指針や目的を作っていくものじゃないかね。

…まあ、求めるものが目的から目標になるというのか、求めるものが過程から、いつのまにか結果に…というのか(逆もまた然り)、それに近い事だと思うんだけど、子供の頃からの遊びが仕事に昇華したりという場合もあるしな、延長線上ってそういうもんよ。

そうやったりして、少しずつ「自分自身の芯」というのか、信じたいもの、守りたいもの、続けたいものとでも言えばいいか、何かしらが見えてくるのかもしれん。

哲学書か…
そういえば哲学者の言葉とか、サイトでの要約的解釈とかを読んだ事はあっても、哲学書そのものって読んだ事ないな。

うーん…
何だろな、自分で興味を持って、考える方が楽しいからかもしれん。
人の考えを知ってから何かするより、自分でやってみてから他のやり方を知るのが良い、となっているのかもしれん。

(ネットで調べたらパッと出てくる事もあるんだろうが、人生の中でそういうものって結構少なかったりするしな。人間、スマホばっかりだと漢字を忘れるとかもあったりで、使わない能力は衰える。それと同じように雑多な情報の中から自分で考えを導き出す能力的なものが薄れるんじゃないかとか色々考えたりもする)

…と思うと、それが今ある俺の、一つの生きがいというか、ある方向へ進む際の支えなのか。

それとも、単に偶然で、行動が積み重なった事により、それが癖になったのか。

ところで、哲学ってなんなんだろうな。(哲学)
・・・小瓶の中の手紙を読む

烏羽
(長いので、もし読まれるのであれば、時間のある時や、元気のある時に…、また一気に読み切る必要もないので、お節介かもしれませんが、休み休み目を通して頂ければ)

もちろん、「被災などの条件下で励ましてくれる」だけのために敬っている訳ではないよ。
天皇陛下は確か、「日本統合のための象徴」であられる筈。

…んまあ、元々は、神社とかの祭り(神様を祀るための行事)を取りまとめる、祭事の長…、たちをさらに取りまとめる大長、みたいな感じだったかな。

詳しくは、俺の解釈や説明が間違っているかもしれんので、それも踏まえてネットで調べてみて欲しい。
そうすれば、解りやすい説明が多く出てくると思うが、要は、「今まで続いてきた、日本の歴史そのものの象徴」なんじゃないかね。

不敬に当たるかもしれない事を承知の上で書くが、天皇陛下には私事(殆どの自由意志)がない。
天皇としての名前はあっても、確か、我々のような住民としての「個人名」もない。
天皇として使用するものはあっても、自分の車とかもなかった筈。(要するに、好きな時に外出とか、ゲームとか出来ない)

悪く言って、国ぐるみで、「天皇」としての立ち振る舞いを強制される。

多くの制約の元、日本の続いてきた歴史を背負って下さっているのが、天皇陛下、という感じかね。
そういった背景などから、敬意を表してる…と、俺は思ってる。

当然、御公務というか、普段の立ち振る舞いも全て公のものになる訳で、つまりは常に人の目線に上がり、天皇としての立ち振る舞いを求められて、自分自身としての行動、「我」というスペースが許されない。
かつ、精神的にもそういった事から辛さはあるだろうし、日本の歴史を背負っているという重圧が更に拍車を掛ける事もあるだろう。
(その状況がどんだけ苦しいのか、察するに余りある。そういった畏多さからくる敬意もある)

そういった、日本を統合する象徴としてある、天皇陛下への敬意と、被災地へボランティアに来て何かしらの行動を起こして下さる方々への敬意って、やってる事そのものの、中身が違うと思う。

だから、「どっちが」とか、俺は比べて語る事は出来なくて、「どっちも」凄い事だと思ってる。

「地位的なものは平等だ」という言葉についてはちょっとよく解らんが、地位があろうとなかろうと、人は人として平等な立場である、的な事や、それに続く言葉を仰ってたような気がする。(同感だった事もあってか、詳しく言葉を覚えてない)

で、次。
限界を超える、について。

そうだな、人は肉体の限界を超えるとボロボロになるわな。

…だが、人間の身体(もちろん脳も含め)は高性能なので、限界を超える力は基本的に出さないようになっている。リミッター(出せる能力の制限)という奴が掛かっている訳だな。
そのリミッターを、訓練によっては少しずつ緩めていく事が出来る訳だ。

…が、やはり、問題があるからリミッターというものがある訳だな。
と言っても、この人間の身体というのはかなりの高性能なので、だからこそ相当の状況でなければ、まずリミッターが外れるという事はないし、少し緩めるにしても相当な努力や忍耐が必要になる。

(身体も生命維持、生命保護のためにリミッターを外さないようにしている訳なので、「ちょっと限界を超えよう」と思った所で外れる事はまずない。自動的にとでも言えばいいか、調整された中での力しか発揮できないのが常だ。自分の足を叩こうとしてみると解るかと思うが、加減されているだろうし、強く叩いても痛みから、少なからず「やめよう」と思う筈だ)

で、また別の側面、人間の身体は成長する。
リミッターを緩めた事による負荷へ対応できるように、変化する事ができる。
…無論、その為には食事による栄養や、適度な休息、細胞の更新までの時間が必要になる訳だがな。

(急に限界を超えるなんて事は現実的にまずない。大体、身体の変化をも伴うので、少しずつ限界の上限が上がっていくものだと思う)

栄養が足りず、休みも取らず、動き続けるとなると、人間の回復力が追い付かず、まあ消耗するというかな、壊れる。

…が、これにもリミッターがあるので、よっぽどの事や、自律神経のリズムが乱れるなどがなければ、空腹で物を食べようとするし、眠ったり休もうとする。
(あるいは、動かないようになったりと、回復が追い付くよう、身体が働こうとする)

そのリミッターを超える無理は、そうそう出来ないようになっているという事だ。

…ただ、そのリミッターの下、制御下の範囲の100%が「やれる範囲」なのかと問うとそうではないよな。

その上、「どこまでが限界なのか」ってのは、他人が外見だけで判断する事は難しいし、例え行動する本人であっても、リミッターなどの影響から「動けるエネルギーはあるのにやりたくなくなる」という事もある。

(身体のリミッターが正常に働いていても、正確に、状況に適した働き方を必ずしているとも限らない。極端に言って、身体のリミッターが大雑把に働いている時があるという話)

しかも、どこまでが限界なのか、「自分の意識」として理解するためには、ある程度動いてみないと解らないという事もある。
(日々の体調や、成長などの変化があるため、微妙に変わったり、大きくズレたりする事もあるので)

小瓶主さんの仰る通り、「自分のやれる範囲でやればいい」というのは全く持って同感だ。

だが、逆に、「やれる範囲」でやると、頑張り過ぎる傾向の人は「無理をし過ぎる」場合もある。

「やれる範囲」という感覚は、その人の、「現時点での当然」から来るので、この場合は「無理をし過ぎないように」という点も考えておいた方が良いかもな。

つまりは、何かしらのきっかけで、無理がたやすくなっている場合…、例えば、楽しい時とか、怒っている時、やる気に満ちている時などには、リミッターが緩みやすく、その状態がスタート地点だとすると、終わった時にドッと疲れが出やすかったり、とかもある。
(その状態での基準が、通常になってしまっていると、リミッターが緩んでいる為にその分エネルギーを多く使い、疲れやすくなるなどから、困る場合もある。大体は一時的なもので、寝れば元に戻りがち)

小瓶主さんの文章を見る限り、出来ているとは思うが、一応書くと…
他の人に伝える時や、言葉を受け取る時は、自分との認識の違い、感覚の違いがあるという事も頭に入れておいた方が良いというかね。

「限界を超えろ」という言葉が、誰かから言われたものだったとして、「限界」とはその言葉を発した人の基準からして何を表したものなのか、主語も解らないし。

その言葉に、文章的に続く言葉や、状況(運動中とか)があるのだとすれば、「続く言葉も含めて伝えたい事」になると思うので、「限界を超えろ」という言葉の意味が変わってくる。

まあ、小瓶主さんの文章は、読んでいて皮肉とは受け取れなかったし、不快にも思わなかった。
それに、常識ってのは一人一人の中に少しずつ出来ていくものだ。疑問を持って、考えた事は大事だと思う。

ひねくれるというか、素直に疑問に思ったからこそだろう?
・・・小瓶の中の手紙を読む

烏羽
いつか全ては終わる。
いつか幸福が訪れる。

同じ事だ。遠すぎる。

しかし、あまりに遠い出来事と言うには、日常に欠片がありふれ、実感が曖昧になる。

世界を語るには小さい。
だが、見たもの全てを世界だというのならそうだ。

そして、そのスケールを幾ら変えた所で、現実にある苦しみが消えはしない。
幾らか変えて考えてみれば、この苦しみは重く大きく感じるというのにな。

平穏か。俺も知りたいよ。

生きていて、あるのは苦しみ。
だが、苦しみに苛まれている間には忘れる、一瞬の安らぎや、小さな幸せも確かにあった筈だ。

何も失う筈はないのに、何も変わる筈はないのに、どうしてこうも見えなくなるんだろうな。

そりゃそうだ、嫌な事を考えれば、行動している自分の頭の認識が変わる訳だ。
嫌な事をそのまま、ガス抜きも何にもなく、変わりなく続ければ辛いままだ。

意味のあるなし、価値のあるなし、今までとこれからのあるなし…、人はよく考えるものだ。

なのに、自分の今、どういう瞬間にあるのか、それはあまり考えない。
現在が当然の状態だからなのだろうか。当然の状態として、あまりにも距離が近過ぎるからなのだろうか。

辛くなれば目を逸らす。
それは自分を守るために必要な行為の筈だ。

なのに何故?…何故?
時に自分を追い詰める行為へと、成り下がってしまっているのだろうか。

人間には野生の記憶があるのだろうか。
勝てるかどうか解らないものと闘争するよりも、逃げる方が、怪我をするより、食い合うより、ずっとリスクが低い。

簡単な事だ。
「社会」なんてものは「本能」ではない。

だが、この「社会」は、本能を持った人間が構成しているのだ。
当然、「本能」が少なからず反映される。それだけだ。

だから、どう見ても下らない諍いに巻き込まれる事もある。
「野生」の延長線上でしかない。

社会がなければいいという訳でもない。
完全に自由になればいいという訳でもない。

ゴミの掃き溜めみたいな、くだらねえ人間関係を作ってる、それを「社会」とは呼ばない事さ。
その集団は、ただの猿の山だ。

何のために「社会」を作ってんのか、何のために倫理観や法が存在すんのか、何のためにお歳暮やらお中元やらやたらとしきたりが存在してたのか、何も考えねえ奴が「社会」を作れる訳がねえ。

人間関係だろ。
社会のルールを守るって事は、人への尊重なんだよ。

そうだろ?
だから、人を貶めたり、金やら利益を不当に得ようとしてる奴が犯罪者って呼ばれんだ。

なのにゴミみてえな事ばっかりだ。
ゴミみてえな事ばっかりだ。うんざりだ。

…その憤りが、またクソみてえな人間関係を作ってるんじゃ埒があかねえ。

畳の上に寝そべって、穏やかな隠居でも決め込みてえよ。
焚き木がどうにも恋しくっていけねえ。

人間の社会ってのはこんなにも狭っ苦しい、人間関係の問題に溢れていたもんかね。

…と吐いた所で、何一つ現状が変わる訳もなく。

少なくとも、せめてもの、自分自身だけは腐っても落ちぶれないようにしようと、この私め、ニートは考えております。

せめて、ウェットに富んだ、バカらしく笑える事なら良いんだがなあ、笑えない馬鹿な事が多いのが一層虚しい。

ともあれ、一人一人が全体の構成員な訳で。
明るいかどうかはいっそどうでもいい。全体が変化するかどうかなんて神様じゃあるめえし見れる訳がねえ。

それでも、身近のため、愉快な事をするために、ユーモアとは何かを理解するために、常識を考えねば困るだろう。
でなきゃ、非常識な事で笑いを取るなんて芸当が出来る訳もない。

自分自身の問題や、人との問題を、一人一人が考えられるようになれば…、あるいは、例え感情的になってしまっても、後から謝れるのであれば、心の軋みや諍いを少なく出来るよう努められれば…

それが上手くいけば、一瞬一瞬の豊かさに繋がる。
それが続けば、平穏になっていく。
そうありたいものだ。

考えてもみれば、心の痛みというのは一生引きずるような深刻なものに繋がりかねない。

…一生を振り返れば俺自身にも言える事だが、なんでそんな、重大な事を見落としてしまうんだろうな。

状況が許すなら生き地獄を味わせてやりたいものだよ。
行動はしないけどな。ただ永遠に許さないだけで。


…ってな感じに、心穏やかじゃない事もよくあるよな。

ちょっとストレス発散がてら、石畳でも殴ってくるか。
・・・小瓶の中の手紙を読む

烏羽
何か嘘をついてしまったら、それより多く、言われたり、されたりして嬉しい嘘(サプライズ的な)を考えて、嘘をついてしまった人に対して行動してみるとか?

まあ、積み重ねた嘘の場合は、どっかでほぼほぼ嘘はバレるだろうし、大事な事なら、現時点から見て、早めに嘘でしたって言った方が良い事もあるかもな。
(勘の良い人や、洞察力高い人は割と嘘を見破れるし、見破った上でスルーしてる事もよくある)

今まで習慣付いたものを、急にパッとやめてしまうのってメチャクチャ難しいので、少しずつ嘘つく事を減らすなり、嬉しい嘘にするとか、行動をすり替えて行くと変えて行きやすいかもしれん。

そうだな、すり替えるのの別の案で言えば、「誰がどう聞いても嘘だと見破れる嘘、あるいは冗談」を考えて、自分から嘘を付きに行くのもありかもな。
話のネタにもなるし、冗談というか、ユーモアを磨くチャンスにもなるし。

例えば、「知ってたか?テレビって中に人が入って動いてるんだぜ?」とか。
「タピオカってカエルの卵なんだぜ」(正確にはイモ科のでん粉だった筈)とか。

…まあ、大抵、仲の良い奴以外にそんな事言っても無視されるか、「えっ、本気でそう思ってるの?」とかガチで戸惑われたりする事もあったりするので、そこん所は注意な。

また、その時、カエルが嫌いとかで、ガチで怒る場合もあるから、その場合は正しい知識なりで訂正したり、すまない、冗談だ、とか、撤回する事も必要だな。

ただ、逆に、平然と相手が「えっ!?知らなかった」とか言ってきたら、「んなわけあるかーい!」とか解りやすくツッコミ入れるのもありよ。

そうだな、後、応用として「俺こういう奴マジで許せねえんだよな」とか言っときながら、自分もそういう事するとか。
いわゆる「ボケ」って奴だよな。

…ただ、これは使い所が限られるのと、あまりに非道な事をすると冗談、シャレの範囲じゃ済まなくなるし、「ボケている」って事が解りやすい状態だったり、ある程度親しい間柄でやらないと、マジで「アイツやべー奴だ」と思われても仕方ないので、状況判断とテクニックが必要になる。

とにかく、少しずつで良いので、何らかの行動を考えたり、試してみると良いと思う。

まあ、状況解らんのであくまでも仮定的な話だけれども。
言いたくない事があって、とっさに嘘をついてしまうとかなら、「悪いけどそれは言いたくない」とか、冗談めかして「黙秘権を主張します」とか言って、話に区切りを付ける方法もあるし。

また、つきたくない嘘をついてしまったと気づけた時には、どれだけ時間経っても良いので、「あれはちょっとパニックになっちゃって、とっさに出た嘘なんだ、ごめんね」とかなんとか真実を話せば解ってくれる可能性もある。

人との会話で緊張しやすいとか、話題に合わせられないとかなら、無理に会話をしようとする必要はないしな。

むしろ、知らない話だったら、「それってどういう事?」とか…、もしも興味が湧くのであれば、色々質問して聞いてみるのも会話になるし。

確実に虚言癖をやめれる方法ってのは俺もよく解らんのだが、「どういうタイミングで」、自分自身が嘘をついてしまうのか、「何がしたくて」嘘をつこうとしている、していたのか、そこが解ってくると具体的な対策がしやすくなると思う。

(取りたい行動に合わせて、すり替えるなり、行動を少しずつ変えて行ければ良いわけだしな)

上に書いたのと同じような考え方として、少なくとも、確実に解るのは…、小瓶主さんは虚言癖をやめたい、この状況を変えたいんだよな?
じゃあ、それは何故、「どういった困る事があるから」、変えたいのだろうか、という話だな。

それが、具体的な「どうしたらいいか」に繋がる訳だ。
(正直、どうしたらいいと思うかを俺に聞かれても、俺は小瓶主さんではないので、解らん)
・・・小瓶の中の手紙を読む

烏羽
「自分を強く持つ」というか、「自分のなりたい姿」という自分の部分を、しっかりと持っておいた方が良いかもな。

常住坐臥、常日頃から、その姿を頭の中にも、物理的に目に付く何かにでも保持して、自分の行動を見つめ直し続ければ、自ずと取りたい姿の行動が思い浮かびはするだろう。

いかなる時もだ。

そう、例えば、取りたい姿の行動が取れず、悔しい思いをするとか、後悔の念で、くよくよしている時もだ。

「こんな自分だからこそなりたい」と思った事を忘れてしまい、「理想的な自分になれない」と思う時が、来ないと言い切れない。

忘れる事も流される事もあるかもしれない。
心乱す時は、いずれ少なくなるかもしれないが、先に一体どれ程多く、来るかも解らない。

どんなに強い心になれたとしても、「動じない心」だけが強さとも限らない。

…あんまり言いたくないが、「動じない」という事は、認識や感情の変化が薄いという事にも繋がるからな。
そこから、自分自身が間違っている事をしていたり、気付かぬ内に正当化しているような状況だと、思わぬ落とし穴に繋がる事もない訳ではない。
(正義の反対は別の正義であって、悪とは限らない的な話とニュアンスは近い)

なら、傷付かないように…、衝動や、流れに乗ってしまうなどから、間違った事、したくない事をする状況にならないようにというのも確かにあるが…、もしそうなった時の為にも、立ち上がれる力を。対応や対抗、対処できる行動、知識を。
受け切れないものは、受け流せる技量を。
後からでも、何か出来ることはないのかを。

人に頼るって手もあるしな。

粘り強さやしなやかさ。
硬いだけだと、脆くもなる。

自分がどういう人間なのか、行動と共に作り、壊し、試し、固め、それらを繰り返し…、成長し続けて行けばいいさ。

んまあ、端的に書けば、ストレスの発散やら、対処法やらの他、現状の自身がどういった状況の中、どんな行動をしやすくて、それに対してどんな工夫が出来るのかという事の繰り返しになる。

逆に言えば、状況などの運も、もちろん絡んでくるとはいえど、行動する事が、自分の流れや、自分自身の形成に繋がるという事なのだと思っている。

いかなる時も、自分の芯というのか、心構え、志し、そういったものを据え続けるのは難しい。
とてもエネルギーが必要で、それ故に疲れる。
だが、「自分を変える」というのは、それ程の事だ。

(変えたいものが多ければ多い程、また大変だと思うので、その場合は目標をまず3つ以下に絞って行動していくと良いかもしれない。
あと、物理的に人間の身体、脳などの仕組みとして、変化までに、数ヶ月単位か、長くて数年は掛かるので、長い目で見た方が良いかも。
ただし、数週間で変わる事もあるなど、個人差や健康状態などでの差があるので、ご自身で判断して頂ければ)

失敗も成功も真摯に受けて、大真面目にやって、行動の一部、自分の芯に迫る、認識、概念の核へと成していく。
大きな川というのか、自分という流れ、流されない心を作るってのは、そういう事かと思う。

息抜きや休む時間も大事にしつつ(休憩や睡眠で記憶は定着していくらしい。筋肉と似たようなもん)…、言われるまでもないとは思うが、無理し過ぎないようには頑張ってな。
・・・小瓶の中の手紙を読む

烏羽
(なかなかの長文かつ乱文なので、もし全て読まれるのであれば、気力やお時間のある時に、余裕を持って読んで頂けると幸いです)

弱音を吐いても良いんじゃないか?

俺は、上手い絵師さんでも四苦八苦してんだなとか、俺も頑張りてぇなとか、色々思ったりもするし。

まあ、強いて言うなら、言葉の表現というか、出し方よな。

ただ一言「自分は下手だわ、こんなんじゃダメだわ」と書いて、出してしまうと、今まで自分の…というか、小瓶主さんご自身の作品を見て、それを好きになってフォローなりなんなりと、付いてきてくれた人が、なんやかんや思ってしまうかもしれないし…
絵師さんの中でも、小瓶主さんの絵を上手いと感じる人は、ネガティブな感情を抱いてしまう可能性も思い付く。

だったら、…一応言っとくと、絵とかデザインを商売にしてる人には絶対にオススメ出来ないが、「何が出来ていないと感じ、どこをどうすれば、もっと、少しでも上手くなれそうなのか」を弱音としてぼやけば良いんじゃないかね。

単なる弱音として終わらず、次にどうすれば良さそうなのかを考えれば、次に繋げる事も出来るし、そこまでをワンセットに表せば、単なるネガティブな発言だけとして終わらない。
(他、反感を買う可能性が低くなるような、『「何へ」どう思っている』とか、主語などを抜かない言葉の表現も大事)

自分自身の目的の確立や、それを見た人のモチベーションアップにも繋がるし、小瓶主さんがどんな所に気を付けて絵を描いているのか、見る人にも伝わる。
なので、ノウハウ、改善策、向上策などが伝わる可能性がある。

(※逆を言えば、そこからどう意識して描けば、そういった絵を描けるのかの可能性が、延いて見て取れるので、そういうのが嫌だって人にはオススメできないし、絵を商売にしてる人には致命的かつグレーな問題に発展しかねないので、前述した)

とにかく、一例として今あげてみたが、別にこういったやり方じゃなくても良いだろうし。

今までのやり方を続けるのか、変えるのか、変えながらも通すのか、通さないのか。
色々目標というのか、着地点というのかね、そこが見えれば、考えられる事はあるだろう。

何をしたくて、何が嫌で。
何を避けたいのか、何に優先度があり、どれが高いのか。どれを現在、高いものとして行動するのか。

影響力が大きくなるという事はあると思うが、絵だって言葉だって、自分が使っている以上は変わらん。
自分が出来る事や、したい事に合わせて、成長していければ良いのではないか。

評価は確かに指標になるし、目的の目安にもなりやすい。モチベーションにも繋がりやすい。

だが、指標でしかないので、目的そのものにしてしまえば自分自身が揺らぐ事になるし、モチベーションが上がり下がりする分、疲れやすく、それに慣れない人は絵を描く事を辞めてしまいやすくもある。

だから、長く続ける為には、「自分自身」が大切だったりもする。
その視点から話をすると、評価っつったって、細かく見れば、ただの人間関係の、その一部よ。

人の意見を聞く事も含め、自分がどうしたいのか、ある程度でも理解しておく事だ。
じゃないと、自分の絵は描けんし、筆も迷う。

まあ、もし人生を絵に例えるとするなら、その筆の迷いの表れをも含めたものが、人生だとは思うが。

…話は戻って、言うまでもない事だろうが、倫理観を含めた自分自身を、守りながら絵を描こうな。
(自分がないと絵が描けない)

色んな価値観を持ち、様々な視点を持つ人間が、SNSを利用している。
俗に言う炎上なんて、どこで起きてもおかしくはない。

絵を描く人も、描かない人もいる。
どのような人間が、どのような価値観、視点、思考を持って、何故の評価をしたなんて事は細かに解らない。
評価の価値、重さ、認識という考え方、それらは、重なる所があるとしても、人それぞれ異なる。

評価の多さや、人目に付く数から、感覚は狂いがちだと思うし、それらによる影響もある事だろうが、基本は、絵を描き、発信する己、評価を受け取る己の内にある。
だから、自分自身の事は大事だ。

評価なんて、感情の上がり下がりはあれども、大したものじゃない。

「どこを大したもの」として見るのは自分自身だから。人それぞれだからだ。
(だからこそ足場のぐらつきというか、「ご自身の立場にそぐわない高評価が来る」という認識にも繋がったりと、ややこしくなるものかとも思うが)

だから、炎上もそうだ、評価の良し悪しもそうだ、「そういった発言は控えたほうがいい」と伝えられた時や、「言いたいことを言いたい」という思いの中、何を問題として見ているのかもそうだ。

一人一人の感覚、認識や考えから発せられたもの。
何を大きなものとして、認識するかが異なるので、それ故に、言葉の価値や重みは変わる。
(そこが伝わらなかったりで、解らなければ、言葉や示されるものから、その人が伝えたい事の本質…、何を思って、何を価値、比重とし、表したのか見えてきにくい)

だが、シンプルだ。
評価というのは、人間関係だという事に変わりがない。

立場がどうだろうが、人目の多さがどうだろうが、人間関係とは、相互に影響のあるものだ。
それが、数の多さからか、立場の変化からか、明るみへと、見えてきたという事なのではないかと思う。

自分への理解。
したい事があるならすれば良い。
だが、そうだろう。見えるものへの不安というやつは、付いて回るものだ。

その、したい事をする上で、見えてくる不安については、どうしたい?

広義の意味で、周りの反応を気にしているのは…、絵を描いている時、どうだ?
少なからず、見た人、読んだ人が、「楽しんでくれるかもしれない」という期待はないだろうか。

そういった事などを含めて、「描きたい」という事ではないかと思い、俺は話を進めてきた。
その「描きたい」気持ちと、「自分が発するこの言葉は大丈夫なのかと考える事」は、方向性の違いあっても、根本が同じ事だと、俺は思っている。

自分が出したいかどうか、これで描き終わりなのか、大丈夫なのかどうか、少なからず考えはしないか?
今まで何となく行ってきたかもしれないそれが、価値観や重み、視点が変わって、表面化したのではないか、と。

表現の自由というものは確かにあるのだがな。
ただし、同じ表現するものだとしても、「絵」と「言葉」には違いがある。

情報量だ。
たった一言「面白い」と発しただけでも、人によっては不快に思ったり、大小の共感を覚える人も、無関心な人もいる。
そこには、現実における、対面コミュニケーションによくあるような…、絵で言えば「表情」「色」がない。

また、「音」「身振り」「リアルタイムなフォロー「人を知る事による、情報共有からの補正」が存在しない。

だから、「何が」という主語や、目的が、たった一言抜けるだけでも、情報の伝わり方が違ってくる。
その上、ある種リアルタイムではなく、一方的な投げ渡しになるので、言葉のみの情報だと、解釈が大きく、その時点の受け手に委ねられるからだ。

…自分自身の運に、余程の自信がないのであれば、言葉のみのコミュニケーションに置いて、最低限でも、目についた場所だけでも、伝えたい事を表すため、表現には気をつけた方がいいと俺は思っているよ。

小瓶主さんが気を付けていないとは思わないが、言いたい事を倫理観抜きに言ったとして、そこは様々な人が目に触れるSNS、公共の場だ。
諍いやら問題やらもある。好き勝手出来る場所でもないという事はご存知だろう。(自分の発言へ責任が付いて回る上での、自由の場)

ただし、人の違いから、どんなに気を付けていても、気を付けていなくても、起きやすさの違いはあるかもしれないが、殆ど問題は起きる。
(また、人が多ければ多いほど、可能性として起きやすくもなる)

嫌な事があって、怒りから当たり散らしたい人が出てくる事もよくあるだろう。
言葉の解釈の違いから、すれ違う事、そこから諍いになってしまう事もよくある。

まあ、そこに何を思い、どうするのかは人それぞれだ。

とにかく、絵を描く時はあくまでも自分自身への比重を重視する事になるのだろうが、公共の場、人と関わりのある場へと自分の表現を発信する時は、己が身だけの事ではなくなる。
どう行動したいにせよ、それは考慮しておいて欲しい。

だから、そこを理解した上で、自分の比重をどう混ぜていけるのか、出来ないのか、試し試し成長していければいいと思う。

…因みに、小瓶主さんと比較したいという話ではないが、そういう点、天皇陛下って詳しく知るとすげーよ…。
「自分」の比重が許されない立場なんだってよ。

極端に言って真似は出来ないが、それを軽くした「自分の比重を薄める」ってのも時に、人と関わる時の、ある状況の中、また一つの参考にはなると思ってそういう話をしてみた訳だな。

ああ、そうそう。
心が強い弱い、なんて考え方してるなら、そこに執着というかな、こだわるのはやめとけ。
それは結局の所、現時点で見た「評価」でしかない。(と書いているのも俺の評価なのだが)

大事なのは、強いか弱いかという評価じゃなくて、自分の心の得手不得手、強い弱い、良い悪い、好き嫌い…、「そう感じる所をどうしたいのか」だと思う。

立ち向かう、逃げる、休む、何でもいい。
それがストレス発散の方法やら、心の支えやら、立ち上がる力、立っている力に繋がっているものじゃないか?

そうやって出来上がったものが、自分自身の強みに繋がってくるんだろう。
絵だって、同じじゃないかね。

長ったらしくなったが、単純に言うとな。
絵でも言葉でも、それを扱う俺たち人間の認識が、変化している中の、その一瞬を写真のように切り取って、切り出している。
その光景への美醜感はあっても、そこに取り残されて、立ちすくんでしまうのは、もったいないと思わないか。

…もったいないかと思ったかは知らんよ。
けれど、何かしたいと思ったから、この小瓶を流したのではないかと感じたのだ。
・・・小瓶の中の手紙を読む

烏羽
おっと。
前した返事の補足をさせて頂きたく。
(他の方の返事を見て気付く事もある)

お返事のお返事(ラリー的なやり取り)に関しても同じくだな。
自分が小瓶主であっても、拾った側であっても、好きな時に返事を書くし、来るかどうか期待はせず、もしも来たら嬉しいし、やりとりを続けようとする事もある、そうでない時もある、って感じ。

小瓶主さんとか、小瓶主さんからのお返事を貰った方が、返答するために返事をしたとする。
その時、相手からの返事が返ってこなかったら、小瓶主さんや、小瓶主さんへ返答した方が不安になったりする事もあるとは思う。

ただ、お返事のラリーを続けても、歯切れが悪いというか、だらだら続く感じを避けたいとか、これ以上時間を取らせたくない、などと思う場合もあるかもしれない。
のんびり続くその感じや、連続したコミュニケーションを求めているという事もあるかもしれない。

現実で忙しいかとか、心の余裕があるかとか、運営さんの掲載とか、色々とあるのかもしれない。

その点は、現実で、というか、会話でのコミュニケーションと似たようなもんだと思ってる。

…ちょっと、何処が会話の終わり(やりとりの終わり)なのかって事を、言葉にしないと伝わり難い、フワフワしたまま終わりやすいって事もよくあるし。
終わりだと伝えたとしても、そこにまだ聞きたい事だとかがあって、お返事が来れば、やりとりが続く時もあったり…
やりとりが続いたと思ったら、急に途切れる事もあったり。

まあ、そこん所は「流れ着いた小瓶」だと思ってるので(前に書いた小瓶に辿り着けないうんぬんも含め)、そう考えて自分の感情と折り合い付けてるかね。
・・・小瓶の中の手紙を読む

烏羽
精神系の病状への理解は周知のものであって欲しいよな。

人間である以上、この大脳、神経系からなる感情の構造上、避けては通れないどころか、常に片足を突っ込んでいるような状態だという事でもある。
決して対岸の火事ではなく、差別できるものでもない。

根性や、やる気という言葉で片付けられるなら良いが、それが効かない状態であるのが精神的な病である訳で。

精神といっても、神経系を含めた、伝達物質や細胞の繋がり、体の一部からなるものであって、それ故に身体として、微妙なバランスから成り立っている。

ただ少し、小瓶主さんの文章を読む中、気を付けたいと思ったのが、「人間は」という部分だな。
俺も便宜上よく使う言葉だが、やはり人間の全てがそうだとは思えない。

何故って、別に差別やいじめをしたくない人間もいるだろう、例えそういった状況下にある人間がいたとしても、年がら年中、常にその状態である訳でもない。

人間は、いじめや差別をしたい生き物なのかどうかは解らないが、いじめや差別をする可能性のある生き物ではあると思う。

個人的に思うに、何故差別やいじめが起こるのかと考えれば、自身がストレスを感じた際の対処法として、「他へ当たる」という発露の方法があるからなのだと思う。
(実はこの方法では、ストレスが解消されない場合が多いらしい)

だから、誰にだって状況が状況であれば、そういった可能性はあると思いはする。
(「差別」や「いじめ」というものが、受け手側の認識を無視できない、2人以上の関係からなる言葉という点もある)

正直な所…、国(文化)が違えば、その発露の方法こそ、「神経の異常」「病」だと捉えられてもおかしくはない。

つまりは「何が異常なのか」など、人それぞれが決めてしまえる、という事でもある。

だから、専門的な医療定義における「精神病」を、一般の人(俺もそうだが)が判断する際、勝手なイメージを付けて見てしまう事もある。

その結果、自分と他者を見比べる比較の際や、噂などの情報など、現実との齟齬が生まれる。
その軌道修正がなされず、問題へと発展すると、これも、いじめや差別へと繋がってくるのだろう。

人間は恐らく、脳の処理上、情報や、言葉の表現が省略されやすかったり、「己が考える、都合の良い(悪い)方向へ、自動的に思考や行動を修正しようとする」能力が少なからずある。
つまり、それがあくまで推論である事を忘れ、推論を正しいと、いつの間にか思い込み、思考や行動に移してしまう危険性を持っている。

その危険性を理解した上で行動(確認とか、反省とか、謙虚的な)出来れば、多少はそこへと繋がる齟齬的問題、延いてはいじめや差別的問題を減らせるのではないかとも思う。

…ただ、この方法の欠点として、何故脳が省略しやすい処理方法を取るのかというと、省略しない、手探り状態の処理では、多くのエネルギーを使う事になるのだろう。

確認作業など、気を付ける事に多くのエネルギーが必要な場合がある点、疲れやすいと思われる点を理解した上で、無理はしない、休息を適度に取るなどを含め、行動に移したり、状況判断の材料としたい。
・・・小瓶の中の手紙を読む

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