LINEスタンプ 宛メとは?
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烏羽 さんの小瓶箱
烏羽
少し頭のネジが外れていますが、私は元気です。
Vtuberはいいぞ…

名前は、解る人に解ればいいという気持ち等から。
伝える事をはなっから諦めてるという意味ではないのであしからず。
烏羽さんのお返事(532通)
烏羽
確かにその通りだ。
人の気持ちなんて、厳密に、100%解る筈もない。

全ては自分の主観。
どれだけ客観的に近付く事が出来ても、それはあくまでも主観。主観の延長でしかない。

だが現実的に見て、それが人の心を考えなくていいという免罪符には、まるでならない事も事実だよ。

悪いな、説教たれられる程人生経験豊かではないんだが、俺はそう思って人の気持ちを考えず行動し、落ちぶれた事もあったもんで。
ちょっと纏めるのが苦手なもんで、長いかもしれんが、もし読まれるのであれば、時間には気を付けて。

人間というのは、言葉を使うだろう?
だけど、それは気持ちあってのものだ。(あなたの小瓶の文章も、俺の文字もそう)

どんな状況からどんな言葉の流れで発せられた言葉かは解らないが、「人の気持ちを考えろ」と言われた場合にも、人それぞれの気持ちが乗る。

例えば、喧嘩などの際、話を切るように、捨て台詞のように言われたなどであれば、その言葉は言葉通りの意味ではなく、「私の気持ちを察しろ」という事に近いのだと考える。(俺はな)

であれば、例え話ではあったけれど、あなたが(全般的な)人の気持ちを察する事が出来ない、という事にはならない。

そうとも、それと同じく、「気持ちを考える事など出来ない」などは、厳密には「相手のすべての気持ちを知る事は出来ない」だ。

だが、他の人から見れば、その言葉の解釈や、見た時の気持ちは「相手のすべての気持ちは解らないが、欠けらなら解る可能性がある」とかかね。
少なくとも俺はそう思っている。(逆もまた然り)

まあ、そもそも、「人の気持ちを考えろ」という言葉を面と向かって言ってくるような奴は、付き合いが短い傾向、あるいは人としての関わりが浅い傾向にあるんじゃなかろうか。
(もしくは、その人自身が、自分の気持ちを具体的な言葉として伝えるための表現が苦手とか、感情的になってしまったなどの事で、論理性を欠いた、とかな)

要は、お互い大してその人となりを知らない訳で、当然、相手の価値観、「これは嫌だ、我慢ならない」とか、「これは好きだ、求めたい」とか、理解する為の情報に欠ける。

そんな状況だった場合、当たり前のこと、気持ちを知り難い状況なのだ。
そこで、そんな関係性の中言われてもどうしようもない、というのが所感だな。

ありがた迷惑という言葉や、自分にされて嫌な事は人にしない、と言ったような言葉もあるがな、基本的にはそこから見える違いなどから、その人の事を知れば良い訳でもある。(意図的に起こしたいものではないが、良く言えば知れる機会)

また、同じ言語、言葉を使う訳なのだから、ある程度の意思疎通は可能となっている。
その点で、他の意思があるであろう動物よりもコミュニケーションは取りやすい…かもしれんな。

少なくとも、どこがお互い違うのか、異なる価値観や認識の仕方、どんな対応の仕方をするのかという所は、見えて来やすいだろう。

…散々書いたが、別に人の気持ちを考えろと強制したい訳ではない。
それこそ、あなたの自由な訳だしな。

ただ、知っておいて欲しいのは、欠片だとしても、気持ちが解るという可能性はある。という事。

じゃないと会話なんて成立しないだろう。

別にあなたは、微塵も人の心が解らない訳ではないのだろう?
その分を大切にして、気が向いた時にでも育てていければ良いんじゃないかね。
・・・小瓶の中の手紙を読む

烏羽
気が向けばだが、1000〜20000通目辺りの小瓶とか、ポツポツ見てみたらどうかな。

全体を通して見ると、意外と優しいお返事ばかりではないし、俗に言う荒れるような事もあったし、何より、俺もあんまりよく解ってはいないが、宛メの方針自体が過渡期だったような気もする。

そういうのを見て、結構考えさせられる事も多い。

アーティチョークさんの遺書の奴見たけど、まあ、どうなるにしろ、ちょっとでも落ち着ける時間というか、気が楽になるといいな。

気が落ちてると、俺の場合だが、なんだか、どうにも色んな事が、自分へと向けられて発せられた言葉や、状況のように感じてしまう事もあるから、それで更に落ち込んじゃったりもするしな。

逆に言えば、そういう自分の状態に気付ければ、「今は元気じゃないな」とか考えられるし、そこから休んだり、リフレッシュしようとしたりと、何かしら行動できたりもする。

俺も宛メを利用中に疲れた時、なんかだるくてしょうがないなとか疲れを意識できた時は、よく宛メから離れて(場合によっては数ヶ月)、別の事をしてる。

そしてふらっと戻ってくるを繰り返したりしてますわ。
(それが、少しずつ自分で立てる力を養った一要因なのかもしれんが、よく解らん)

あと、余談というか、アーティチョークさんへの個人的な要望かつ、小瓶の中で書かれた苦しさとかが今もあるかもしれない中で聞くのも、また辛いんじゃないかと思うんで、申し訳ないんだけど…

どういう所に宛メの居心地の良さを感じたかって事と、変化したって思う事、変化して何処に居心地の悪さを感じるかって事の3つを、難しいかもしれんが、少しでも具体的な言葉にしてくれると、察しの悪い俺としても宛メを利用する上で助かる。

なんというか、宛メだけじゃなくて…、というか、宛メも現実の一部なんだけども、現実的に、普段でも応用の効く考えがそこにあるような気がしてさ。

まあ、別に返事がなくても色々な事情が考えられるし、それ故に心配事はあるが、返答がない事は気にはせんので(俺が悔いのない書き方のお返事を書いているので)、そこんところはアーティチョークさんもどうか気になさらぬよう。

直接関わりはなかったと思うけど、チラホラ見かける事もあったもんで…。んじゃ、またいつか。
・・・小瓶の中の手紙を読む

烏羽
一応、解っているかもだが、糖質制限といっても、糖質の全てを抜いたら身体に悪影響あるからな?
(判断力や集中力、認識力や記憶力の低下、体全体のパフォーマンスの低下、免疫力の低下など)

勉強などで脳が運動する為のと、筋肉が運動する為の糖分なども計算して摂らないとあかんのよ。

食べる量を減らしたり、糖質制限すると確実に痩せるけど、何のために食べるのって、必要だから食べる訳で、それを減らせば必ず影響は出る。
極論、行動の為に必要なエネルギーを、ギリギリの所まで減らせば、無駄な脂肪も落とせるって事だ。
(詳しくは、確かインスリンが空腹時に脂肪を作りやすくなる関係とか、糖分を摂らない期間が長引くと身体が本当に死ぬんじゃないかと認識する場合があるから、その時は糖分を摂らないと困るとかもあったと思うけど)

だから、確実ではあっても、それなりのリスクはあるし、一歩間違えれば逆効果になる。
(別の話だが、寧ろ、食事を抜くと太りやすくなるなどもある)

それを小瓶主さんが解ってるのなら、親御さんに知識が足りないのではと思うので、「糖質制限ダイエット」というものについて調べてもらうとか…

昔の人は、食事を抜く事が「ダイエット」だと考える傾向があるように思うので、そうじゃないんだよと伝えるとか?

うーむ。
・・・小瓶の中の手紙を読む

烏羽
寂しさか。
別にええやろ。

人に触れる事がどうとかはともかく、こうして文字にする事で、ご自身の感情などを認識して、状態確認にもなってるんじゃないかと思うし。

俺も正直人と会いたくないし接したくもない、いつ裏切られるんじゃないか、コイツは何か企んでいて今にも手を出してくるんじゃないかとか、時折、この場で料理に毒でも盛って殺そうとしているんじゃないかとか、自分でも馬鹿馬鹿しくなるくらいに、内心ビクビクしてる事がある。

じゃあ、この、宛メでの関わり合いはなんなのって思えば、もちろんその恐怖が無い訳ではないけど、物理的な距離があるだけまだマシっぽくて。

それに、出会う全ての人間が、過去にあった糞みたいな人間と同じ事をするとは限らない訳で。

まあ、小瓶主さんとは、そもそも悩みというか、状態が違うのだろうし、状態が違うのだから程度の比較も出来ない。
(そもそも同じ人間でも状況でもないのに、厳密な対照比較なんて出来ないと思うが)

それでも、何というか、お互い手の届く範囲でからでも、出来る事をやっていこうな、という気持ちになった。

フラッと立ち寄ったようなもんだが、もし読んでくれたなら、こちらこそありがとな。
・・・小瓶の中の手紙を読む

烏羽
「諦める」という事を諦めきれていないぞ。

そして、「自分の人生を諦める」という事も、全てを諦める人生を行おうとするあまり、叶おうとしてはいない。

それは、「自分の意思を諦めない」という事に他ならないからだ。

…まあ、単なるジョークだよ。

でも、見落とすなよ、人間なんてのは不完全な生き物だ。
何もかもが、誰しもが、中途半端なまま死んでいくものだ。

だが、それは同時に、人間の向上に、いつ何時の終わりなどないという事でもある。
完璧な人間なんて存在しないが、もしそんなのがいるとしたら、生まれた時から終わっているって話さ。

…それを知った上で、覚悟を持てよ。

例え見ず知らずの誰かが、あんたが自殺しちまうかもしれない事を止めたくても、あんたの意思だ。止まってくれやしないだろう?

この先の未来、何か良い事が待っているかもしれない、なんて、保証は出来ないし、保証があるなら俺も欲しいくらいだ。
悪い事が起こる事も十分あり得る。そしてそんな事の保証はまっぴらだ。

まあ、もし先を生きるにしろ、そうじゃないにしろ、何にせよ、それなりに覚悟は必要だろう。
あんたが、丁度いい具合に完璧じゃない事を祈る。

ゆっくり休んで、ちょっと気になった事でも、楽しい事でも、好きな事でも、何かしらやってみたらいいさ。

今までのあんたの人生には、お疲れ様なんて言わんぞ。
死んでどうなるのかも、解りやしない。

ただ、解るような気はする。
もしかすると、心に溜まったような、何か、この、重たいとでも言えるようなものを、あんたも感じているんじゃないか?
休んでも休んでも癒えない、この重たい何かを。

もしそうなら、生きている内に、少しだけでも軽く感じられるか、感覚を忘れられる時間を増やしとけよ。
それは、恐らく生きている内にしか出来ない事だ。

どうすれば解らないなら、探してみろよ。
人それぞれ軽く感じられるかどうかが違うから、色々試してみないと解らないだろうがね。沢山ある筈だ。

もう何か、興味のあったような音楽は聴いたか?
漫画や小説、図鑑なんかの本は?
ちょっとした公園で、草木を眺めるのもいい。動物園や動物と触れ合える場所があるなら、そういう場所へ行ってみてもいい。

俺の場合だが、紙飛行機を色んな折り方をしたり、自分でオリジナルのものを作ってみたり、ちょっとハサミで羽の部分を切ってみたりと、どんな飛び方をするのかとか、飛ばないのかとか、色々試してやってみてたのも面白いと思う。
(まあ、それをやって楽しくない事もあるだろう、出来ない状況もあるだろう、他にも人それぞれ好みやら合う合わないある事だし)

少しでも安らかに、心休める時間が増えてくれればいいな。
・・・小瓶の中の手紙を読む

烏羽
(暴走しているお返事を書きます。)

手を見る。

今思えば、俺も死にたい時、見てたな。
ちょうど、俺は今まで何をしてきたのか、この手で何が出来てきたのかを、自分へ問いかけるように。

「人間は…」、なんて語れる程生きてもいないが、一人の中にも、良い所、悪い所、沢山あるんだよな。
俺も昔、白黒はっきりつけたかった。
自分が憎くてたまらなかったし、自殺未遂もした。

2、3回程度の未遂だったが、結局死ななかったのは、大体他者のおかげだった。
相手はそんな事思ってもいないかもしれないが。

そしてそこで、怖がるなり、他と関わるなり、踏み止まった自分のお陰でもあった。
脳を含めた身体が、全力で抵抗したお陰でもあったのだろう。

好きではないが、嫌いでもない自分がかつてから今に至るまでいる訳だ。

人間ってのはどうにも、総合的なまとめとして、一つのものに評価を付けたがる。
良し悪しどちらをも、一人の人間の中へ見ていたとしても、本当の所、それは結果的なもので、運のようなものも含まれている。

その人間そのものが、本当に良いのかというよりも、その人間の関わった範囲を含めて、良いのか悪いのかを判断している。

自分だけの人生。

だけど、振り返れば様々な人の、良し悪しも考え付かないような彩り、関わりがあって、そこに自分がいる事に気付く。

そこに何を思うのかは、人それぞれの価値観という奴だろう。

曖昧な気持ちは、曖昧な気持ちという、それ以上なものにはならない。

自分を見るのか、現実を見るのか、人は分かれやすいが、本質的に分かれる事など出来てはいない。

自分自身を通して、人は現実を見ている。

良いのか悪いのか、判断を付けているのは自分自身ではないか。

その判断というのは、変えられるし、変わるものだ。
たとえ、曖昧な気持ちが存在していても、その上から判断し、価値や意味を付ける事は出来る。

本当にあなたの人生が、あなたが無価値なものだったのかどうかは、大嫌いだけど大好きな、あなた自身に聞いてみると良い。

大概、人間なんて矛盾だらけのデコボコなものさ。

現実は曖昧で、抽象的で、どこに何があるかも解らないから、生き物は視界を持った。
人間は、どうにも、極端に物事を捉える事で、シンプルに一纏めにする事で、情報の整理をし易くしているのかもしれん。

老い先良くなるか悪くなるかなど解らんが、俺のような人間には、どうにも、今までの人生を振り返って、良いか悪いかどちらかと、判断が付かなかった。
付けられなかった。

まあ、要するに、一人の人生を判断するだけの情報が足りていないって事だろう。
そしてそんな表現力もない。

俺はそうだ。
振り返っても過去の事が流れるばかりで、それが良かったかどうか判断出来ても、これから何があるかも解らない。
本当に良かったのか、悪かったのか、確信など持てはしない。

だが、何故それで生きているんだろうな?
まるで生きている事が、確信に繋がって欲しいとでも言うような体たらくだ。

死にたい時と同じようなものだ。
自分の死が、何らかの、ものことへの確信に繋がって欲しかったから、死ぬ事を諦めようとしなかったのだろう。

何故生きているのか。
それは自分自身の行動や判断で、ほんの少しの、ある程度の範囲だけでも決められるものだと、知っているからだろう。

そして多分、それもまた、確信にしたいからなのかもしれんな。

返答しようとしなくていいが、あなたはどうだ?

何か、確信に変えたい事…、「自分が自分として足り得る支え」のようなものを、欲しがってはいなかっただろうか。

自分自身を通して現実を見ているとはいえ、自分の内側も、現実の一つではある。

俺は、自分自身の嫌いな部分と好ましい部分がある時、どちらも認める選択肢をした。
もちろん、全てにおいてその限りという訳ではないがね。

全体的なイメージの話をすれば、鉛筆でちょっと小さく書いたような「自分という点」があり、その両端に、「嫌いな点」と「好ましい点」がそれぞれあって、点と点が、線で繋がれている。
言ってみれば、「一つの星座」のようなイメージが、自分の全体像だという感じで考えている。

これで、説明の付くような気がしてな。

(…いや、今までの長ったらしい文章必要あるかとかいうツッコミはなしでお願いします。一応あるんで。一応。)
・・・小瓶の中の手紙を読む

烏羽
長くなります。
読まれる場合は、時間の許す際に…。(文字の量も多めなので注意)

控えめに言って、コミュニケーションとは相手とのやり取りでもあるので、やり取りがうまく行かない場合、どちらか一方に全ての責任を押し付ける事なんて出来ないと思う。

小瓶主さんの対応や、その言葉を交わした場面、状況については詳しく解らない上での推論だけど…
はっきり言うと、もしかすれば小瓶主さんの対応にも問題はあるのかもしれないが、「親への虐待」「弟の方が〜」「人間失格」という言葉を使う場面の親御さんには、人間的なマナーとして問題があるように見える。

(親御さんも人間だから、完璧になれる訳ではないのだろうし、弟さんが軽度障害という事なので、日々心労などもかさむ事だろうが、子に対して「人間失格」という言葉を使う親こそ人間的に失格ではないか。下手したら言葉の暴力という小瓶主さんへの虐待になる)

それと、いじめにあった事からなる人への恐怖感や、日々さいなまれているであろう「死にたい」という気持ちからして、脳はそこにエネルギーを使っている。

なので、例えばだけど、勉強に集中しにくくなるとか、運動中は他人の目が気になってしまって思うように動きづらくなるとか、コミュニケーションにおいても人とのやりとりがギクシャクしてしまうとか、それらは仕方のない事なんじゃないかと思うよ。

極端に言うと、100%の能力が発揮できていないような状態なんじゃないだろうかという。
そしてそれは、怠けとか甘えとかではなくて、結果的な状態として、そうなってしまっている。

(どこまで発揮できないのかは、個人的な部分が大きいので、あくまで俺の経験からしか言えないが、いつもの半分以上の力が出せればそれで十分な程)

また、そんな中であっても、小瓶主さんはこうして、状況をある程度説明できる能力を持っているのだし、言葉に沢山の気持ちを込める事も出来る。
絵だって書く事が出来るそうじゃないか。

決して「全てが出来ない」って訳じゃない。
ただ、ちょっと力を発揮し難い状況の中、上手くいかず悔しかった事や、コミュニケーションで気持ちが受け取られなかった事があったり、到達したい目標が沢山あるだけさ。
出来ている事は、小さく感じたとしても、間違いなくある。

少しずつかもしれないが、変える事は出来ると思う。
ただ、変えようと行動に移す前に、ご自身の状態と、状況がどういうものなのかは知っておいて欲しくて書かせてもらった。
(力を発揮し難い上、他の事をやるにも万全でない状態の中、なおかつ、エネルギーを多く使うであろう受験を控えているという状況。かなり大変だと思うので、状況の許す限りあまり無理をしては欲しくない)

誰だって、知らない事はしらない。赤ん坊の頃からだ。
赤ん坊の頃から、知らない事は知らないし、知ったとしても忘れる時は忘れる。

「聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥」みたいな言葉を聞いた事はないだろうか。

これから先の事を考えるのであれば、多少迷惑と思っても、聞いた方がいいのかもな。
聞く事で知識が身に付けられたなら、他の人に教える事も出来るだろう。

そして、迷惑だと思うのなら、今後もし、その人が困っている時に気が付く事があり、手を差し伸べて、多少でも助けてあげられれば、それはそれで良い事だと思う。

更に、そのやりとりがコミュニケーションの練習にも繋がるだろうさ。

…推測でしかないので、あまり口出しをしたくない事だが、多分、クラスメイトがあなたの事を笑うのは、多くの場合あなたの能力の低さを心の底から馬鹿にしているという訳ではなく、「アイツまた間違えてるよ〜」という「いつもの日常」感として、笑っているのかもしれない。

まあ、かもしれないと言うだけで、事実は聞いてみないと解らないし、細かく言って見れば、聞いたとしても答えてくれるかどうか。
また、聞かれた人が自分の気持ちや思いを上手く言葉に乗せて伝える事ができるか。その言葉や、言葉のみに含まれないニュアンス(顔の表情や仕草)を感じ、受け取り、どこからどこまでが伝わるかどうか、というのは、それぞれ別な事の訳だ。

「物事を説明する」と言っても、人によって伝え方などまちまち、様々なものだろう。
その為には、小瓶主さんのいじめという経験からくる、恐怖という現状を考えると、やや難しいものかもしれんが、様々な人を知らない事には「言葉へ、延いてはコミュニケーションでの理解力」というものは向上しづらいかもしれないな。

要は、大人数とは言わない、深くとも言わないが、人と関わる事だな。
人を知る事で、「この人はこの気持ちであの言葉を言っていたのかもしれない、この気持ちだからあんな態度を取ったのかもしれない」と、思う事も簡単になっていく。(相手側としても)

俺もそれらしい経験はあったが、いじめを受けた心持ちとしては、どうしても人と距離を取りがちと言うか、どうにも恐怖心などから「こいつは何か企んでるんじゃないか」とか、人と会う時にそういう気持ちが出てきやすくなってしまうものなんじゃないだろうか。

もし、小瓶主さんが、その状態の自分を嫌いと言うのなら、俺は逆に、「人を疑う姿勢」のまま、それを続けていいのだと思う。

何故って、どういう人間なのか知る為には、思考を巡らせる必要性もある。疑問はその燃料になる。

他に、漫画やアニメ、創作物によく出てくる、本当に気の許せるような、絶対的な信頼の置けるような人間、相棒というのは、現実的にはそう滅多に…、というか、それこそ寧ろ、絶対的に、ほとんどいると言えたものじゃない。
恐らく生涯、人生の中で一人か二人見つかれば良い方だ。

例え気の許せる人間がいるとしても、その人間の疲れや、気の迷い、いわゆる魔がさすという奴だな、そういったものから、関係性が拗れるような事も割とある。

本当にそれがその人の性格なのか、疲れや心労から、感情的になってしまったのではないかとか、自分の対応はどうだったとか。
現実と自分の推測は異なるかもしれないとか、現在と過去は性格が違うのではないかとか(人の性格が変わるなど数ヶ月か、年単位ぐらいのものだと思うが)、そういった事を理解した上で、判断したくてな。

まあ、あくまで俺の考えだし、小瓶主さんのあれこれを俺に変える事は出来んがね。

今は、いじめられた経験から、どうしても特定の人物や集団などが、自分に対してやった事、やってきた事を、他の人もやってくるんじゃないかという疑問や不安が浮かぶ事だろう。

それを直ぐに止める事は、経験上とても難しいと思うし、止められなくても仕方がないのだと思う。
俺も何とか、これがなくならないか、それなりに頑張っていた事もあるが、怠けや甘えではなく、どうにも上手く行かない事もある。

なら、その上で自分の身を守るためにも、距離の取り方を学べばいいのだと思う。
他の人が、いじめてきた人と同じような事を、絶対にやらない道理はない。

ただ、もちろん、他の人が、同じ事を絶対にやる道理だってない。

手の届く範囲の事をやればいい。
例えば、コミュニケーションと勉強など、両立させたいのか、それとも、例としてコミュニケーションの事は一旦置いといて、受験が終わるまでは勉強に専念してみるとか、優先度を付けてみたりな。

ああ、あと、お節介かもしれないが、ちゃんと休みは取れよ。
勉強や練習以外に、絵を描くとかの息抜きも大事な事だし、そういった「遊び(余裕)」がないと、勉強した事も頭に入り難くなったりするしな。

運動して、食べて、寝て、そして筋肉が付いていくのと同じように、脳みそも運動したら、食べて、寝る時間がないと、成長して行かないだろうから。

まとまりもなく、読みづらかったかもしれない。
目を通してくれてありがとう。
・・・小瓶の中の手紙を読む

烏羽
この「消えたい」ってのは、なかなか面倒なんだよな。
自分自身の内に溜まっていって、俺も解消されてない。

なんだろな、今はそれ程強く、消えたいと思っている訳じゃないんだけど、俺はそういう時、心から落ち着けなかったりで、何かしらの安心や安らぎを求めていた気がする。
寂しさとかではなくて、「自分自身の根幹が揺らいで落ち着けない」みたいな。

(大体そういう時は、散歩に出かけて自然に触れたり、自然の中でぼーっとしたり、曲を聴いたり、頭使わずに出来るゲームとかをしてたと思う。一時しのぎにはなっていた)

これが良いのか解らんのだけど、「何も持っていない」と小瓶主さんが書かれているので、何かしら持ちたいもの、「そうありたい状態」のようなイメージがもうあるのかな?と思う。

出来るなら、それを求めてみるってのは、どうだろうか。(形になってないあやふやな状態なら、少しずつ具体的にしてみるとかから)

確か…というか、生きていて確かな事なんて数えるぐらいにしかないのかもしれんが、しっかり、「これが自分の持ってるものだ」というか、自信というのかね。

例えば、自分の中に、信じられる能力なのか、自分自身がありのままでいいんだというか、これが自分なんだとでも言うのか、うまく言葉にならないんだけど…
そういう支えがないというのなら、見つけるなり作るなりで、ほんの少しでも、小瓶主さんご自身の心持ちが楽になるのかな?と思った。

まあ、実際どうなのか解らないし、試してみてやり方の合う合わないもあるだろうから、参考程度に留めておいてくれれば。
・・・小瓶の中の手紙を読む

烏羽
例えから返答してみるなら、好きと恋は違うぞ。
like(好意)とlove(性的欲求も含めた親しみのある愛)が違うように。

言ってみるなら、好きで、愛があっても、恋とは限らない。
恋っちゅーのは言ってみれば、悪く感じ取れる表現かもしらんが、一種の、我欲からくる甘えだ。

要は、自分の感情に関心を持って、それを軸とし、行動に反映されていれば恋に近い。
自分の感情に関心があろうがなかろうが、それを抑えるなり見ないなりその時関心が薄いなり、何らかの経緯から相手への関心の方が高かったり、自分を自制する心が強ければ好きや愛に近いのではないかと思う。

多くの人がそうであるように、基本的に横沢さんのおっかさんも多分、自分の持ち得る経験などから、その延長からでしか、「当然」という基準を認識できない。

その上、そもそも横沢さんはおっかさんとは異なる性格をしているのだから、「差し引いて考える」というのなら、「何が当然」なのかなど基準そのものが違うために考えられないと思う。
(極端に言って、言葉通りに差し引いては考えられていないように見える)

なので、おっかさんは自分の性格を、「世間一般の人間基準」に近い、少なくともそっちの側だと思った上で放った言葉だと俺は推測する。

人間の事を語れる程長く生きて、経験を積んではいないが、俺が思うに横沢さんは正常の範疇だと思う。

それに、嫉妬も持っていると思う。

人間は言葉として、ある程度、現実を解りやすい認識として捉えるために、対極化、極端化しがちだ。

だから、「長所と短所は紙一重」、なんて言葉があるが、恐らくそれは、人間が物事を理解する時、長所と短所をそれぞれ別のものだと考えがちだからだろう。
同じものを見て、状況などを足した結果、自分に都合が良いか悪いかを判断している。

俺としては、嫉妬というのは、詳しい元は解らんが、何かをある立場、条件から見た一面の状態でしかないのだと思う。

だから、「嫉妬」と脳が判定するには薄いのか、その方向で発生していないだけで、持ってはいるんじゃないかね。

…ただ、まあ、気に障ったらすまんが、横沢さんの過去からして、もしかすると、何かしらの感情が薄まっている可能性もある。

よくあるんだが、暴力や虐待を受けた人間は、それをどうにも出来ない場合に、その環境に耐えるため何かしらの感情を抑えつけたり、それによって感情の一部が希薄だったりする事がある。

それが反射的なものとして身に付いていると言うのなら、その環境から離れていれば、自然と抑える必要もなくなるので、恐らく、何かしらの感情が出てくる事もあるかと思う。

ふむ、いや、寧ろ、ご自身で疑問に思ったという事は、「抑え」が薄まる、あるいは薄まってきている前兆なのかもしれん。

まあ、全然そんな事はないかもしれんし、解らんがね。
比べる事による嫉妬や憧れがない、あるいは薄いという人もいない訳ではないしな。

横沢さんの仰る事が理解できるというか、俺もそういう考え方に近いから多分解るんだけど、あれじゃないかね、「周りの人に囲まれて彼女(あるいは友人)が喋ってんの楽しそうだな、俺も混ざりてえな、アイツと話してえな」って気持ちがあるなら、それが状況や発生の仕方によって、嫉妬に繋がる事もあるってだけなんじゃないかね。(俺はある。それでも少ない方かとは思うが)

憧れに関してもそうで、俺の場合はそもそも、相手と自分を比べる上で、「今まで得てきたものや経験、順序、それに対しての対応、考え方、行動の取り方、そして何より時間、タイミングが違うのだから、厳密な対照比較にならない」と思ってて、そこに競争心というか、「俺もアイツみたいに出来るんじゃね?」という気持ちがないしな。
(また、今は然程でもないが、「競争」そのものが幼い頃から嫌いだったので、それに合わせてか、少しずつ考え方が変わって行った)

「あいつ俺にない能力持ってる」って、そりゃ様々なものが違う訳だし、その考えが「当然」や「基準」になってるから、自分で出来る事をしよう、にしかならない。

(「アイツみたいにやってる事、近い事は再現できるんじゃね?」はあるし、俺には出来なさそうだとかで落ち込む事はあるが…、言い方は悪いけど、「あんな奴には出来て、何で俺には出来ないんだ」というものがない。一応、憧れはある。)

人として病気があるか健康かならまだしも、正常って、誰ぞの主観で決められるものなのかね。
「人として」大事なものってのは、人の価値観、考え方がそれぞれ違う以上、近いものや普遍的に通る概念はあれど、人それぞれ別々のものになり得るし。

深刻な事じゃないさ。

だって、別に、今まで横沢さんが嫉妬や憧れを感じない事で、不幸になった事や、嫌な思いをした事はあるのか?

寧ろ、人に嫉妬しない(か薄い)分、諍いになる可能性は減るし、嫉妬のある立場からは、少しだけかもしれんが、心穏やかに過ごせる時間が増える可能性はある。

憧れがない(か薄い)分、自分に出来る事へと向き合う時間が増える。
言ってみれば、俺の場合だが、憧れたりする中で、「俺には出来ない、どうやっても無理だ、悲しい」という何も出来る事がないと落ち込む時間が少ないので、そのエネルギー(元気など)や時間を短縮できるという訳だ。

…もしかすると横沢さんは、「嫉妬や憧れ」という心に対して、「憧れ≒興味し」ていないか?なんてな。
流石に冗談だが。
・・・小瓶の中の手紙を読む

烏羽
本気で考えて書くので、長くなります。
(めんどくさかったら一応…、それでも長いけどある程度のものを下部に纏めてあるので、そこを読んで頂ければ)

少し風刺的かもしれんが、人間、同族が死ぬと諍いの理由になりやすい事を解っているのかもしれん。

他にも、日本だの海外だの、嘆かわしい事に今でもそうだがな、領土問題や国同士の諍いで血が流れた歴史もある、その無益さは嫌という程解っているんだろう。
(それでも起こる時は起こるから現実に存在している)

戦争問題、法的な人権問題、実際に今現在ある安楽死制度に対する波紋。
そして何より、恐らく人を物として見ている訳ではないと思うが、国は人民がいないと成り立たないからな、国にとって将来性のある国民、つまり国の一員を、望み好んで殺そうという国のリーダーはそういないだろう。(そう願いたい)

だが、安楽死を望む人や、その…、医療現場において、どうしようもない場合があるのだが、高齢者が身体の負荷などの問題から、延長的に麻酔などで記憶喪失となり、豹変してしまった際の、周りの人が望む尊厳死など…
それぞれ理由はあるが、国自体と、個人の、死を望む人々の向く先、見ている場所は異なるのだろうな。

(健康であっても死にたく、周りに健康だから安楽死が許されないんじゃないか、という事と、国として、人権的な問題や、制度変更に伴う法改正におけるルール、世論などと言った観点から安楽死を制度として取り入れるかどうかという事は、人の死において、焦点を当てて考えている場所がそれぞれ違った場所にある。つまり、その個人それぞれの思いと、国政の中で制度が通るのかどうかというのは、お分かりだと思うが違うものだ)

また、命に関して個人的に思うのは。
そうだな、人だけじゃない、虫、動物、果ては植物から微生物、細胞、どこからどこまでを命とするのかは人それぞれだろうが、今日も人の知らないところで命が生まれて消えていく。

実際俺はそういう視野でものを見ている。
その上で、それはとても重い、辛い、ストレスの掛かる生き方だと思う。
とてもお勧め出来るような考え方、生き方ではない。(そもそも、やりたくてこう見ているかと聞かれれば、そうでもないのだが)

命の重さ、というものがあるのなら、それは人それぞれが勝手につけているものじゃないかな。

俺にとっては、アリの命も人間の命も、同じものだ。
アリを不意に踏み潰せば悲しむ。家の中を歩き回られても嫌だという事で、多く入ってきた者たちを処理に困り、故意に殺しても、それは重い事だ。

何が悲しいものか、アリの気持ちなど知る事は出来ないのに、それこそ身勝手にも悲しいなどと思ってしまうものだ。

人間の命が失われれば、その家族、周りの人間達は恐らく悲しむだろう。
亡くなった方自体の行先、将来や人生そのものに対して、様々な情感が巡る事になるだろうと思う。

将来の人生は良くも悪くも解らない、そこに至らなければ良いか悪いかを判断できない。
健康な人がある程度若い場合に(年齢という話に留まらず行動する先がある)、その行先が失われるという事に値する程の価値を誰が付けられるだろう?

(勿論、健康でなくとも先行きなど解らない)

「もしかすると」なんて言葉は幾らでも言えるが、健康的、五体満足か、あるいは自力で何かしら、問題解決へ向かえる可能性がある際に、心が傷付き死を選ぶという事は、悲しい事だと思う。

命、人生、それは形のない、それこそ物質ではないものだ。
比喩だと解ってはいるが、幾ら医療技術が発達して、心臓などを提供できるとしても、他の人が自分の人生を使う事など出来ようがない。

どれ程大きな事か、重みのある事か。
言っておくが、現実的に、これも身勝手な話だと思う。
それこそ、極端に言ってしまえば、自分の内にある「命の重み」という価値観を、勝手に人へ重ね見ているだけなのだから。
(※身勝手だからと言って、それが良いか悪いかという話ではない)

例え同じ人間だとしても、考え方や価値観には差があるだろう、その人の考えが100%正しく予測出来るなんて事は、ほぼ不可能な話だ。

だからこそ先に書いた通りに、どれ程の重みがあるかどうか人それぞれの考えを、価値観を持っているものだと思う。

安楽死やそれを望む人自体を否定はしないが、人間の人生というものは人…、あるいは他の動物達と共に、紡がれるものだろう。
言ってみれば、確かに「自分の命」に違いはないが、「自分だけの力で支えられて存在する命」ではなく、「自分一人だけで存在した人生」でもないという話になる。

赤ん坊の時に手を加えられなければ今まで生きてきてはいないし、そもそも親無くば産まれてもいないだろう。
そして色々な生き物や、原子や分子を食らって、己の身体として生きている。そう考えてる。

安楽死…といっても、それを行う人間が居るとなれば、どれ程の苦悩を抱える事になるか、死を身近に感じた経験のある方はよく解ると思う。
(戦争でも、覚悟があったとしても、人を殺した事で精神的に大きなショックを抱える事は珍しくなかったらしい)

死は、本来的には日常のすぐ側にある、馴染み深いもので、ドラマや漫画みたいな大それたものではない。
現実的に、死ぬ時はあっさりと死ぬ。

殺すのは人だけではない。
生き物によっては、遊びのために他の命を殺す事もある。(その後食ったり食わなかったり)
同族の恨みのために、己の傷など関係ないとばかりに相手を殺そうとする者もいる。

そして、食べる為に、生きる為に殺す。
沢山の生き物達が今日も知らぬ所で、大雨や強風、食物連鎖によって死に、産まれてくる。

もう一度言うが、アリの気持ちなど、体の作り、脳の作りの違う人間が、安易に解る筈もない。
だが、アリの命が失われ、その周りのアリたちは何を思うだろうか。人間のように何を思わずとも、違和感は間違いなく感じるのではないか。

そう考えるからこそ、身勝手であったとしても、俺は命を無下にしたくないと、せめて命という概念に対し、真摯に向き合いたいと、そう思って生きている。
自分が命を奪った現実から目を逸らしたくないし、それを何もせず、何も考えず、ただ過ぎ去っていく事をしたくないってだけだがな。

何故人間以外に対し、命の法制度などが手薄いのかと考えると、人間だけが高尚だとか、傲慢だとかではなくて(そういった事も考えられはするが)、人間も「死」っていうのがどういう事なのか、認知が広がっていないんだろうと思う。

天国、地獄、無。色々考えたり、科学で推論を立てる事は出来ても、それはあくまでも推測でしかない。
少なくとも今、生あるものに確かな死の形というものは掴めていないんじゃないか。

それだけ、人間の手に余るって現象なんだろう、「死ぬ」って事は。

具体的には多分、他の生物達に慈悲や対等さ、生命としての尊重がないって訳じゃなくて、そこまで考えると、人間の脳はパンクするか、パンク寸前まで行くんだろう。

要は、死の重みを確かなものとして感じた時、今まで生きてきた者たちを、無邪気に殺してきた、頂きます、ありがたい事だと感謝を込めて(いるかどうか、それぞれの事は知らんが)命を食べてきたのか、それらが苦痛に、重荷へと変わる時もあるだろう。(実際俺はそうだ、その重荷が生きるという事を支える原動力になってもいるが)

それに、安楽死が受け入れられたとして、制度変更に伴う法の改正や、人間以外の生き物に対する法改正…あるいは制度の追加も手間取るだろう他、あくまでも例えだが、海外のシーシェパードだったか、ああいうのが特定の動物を過度に保護する事で、逆に生態系を乱してしまう場合すらある。

他の動物、生き物に関わる事で、その周りの環境にも間接的に影響を与え、全体的な環境が変わってしまう(例えば、「食物連鎖のピラミッドの構成が、逆三角形状になる=肉食の生き物の生息数が草食動物を過度に上回る」など)、その変化により多くの命が失われる(食物連鎖の関係から、草食動物がいなくなり、肉食も餌がなくなるので次々と死ぬ、など。現実はもっと複雑)、という事態は起こっているだろう。

生き方の違う…、例えるなら、文化も考え方も、そしてその生き物が与える周囲への影響も(主に「食性」など)、人間とは全てが違う生き物と「関わる」上での問題点というものも多くあるだろうな。
人間もそうだが、それぞれを国のように…、環境の一員としてみた場合、とても繊細な、微妙なバランスで成り立ってる。

地球で生活する都合上、大気気温が平均でほんの1度でも上がれば、世界全体に住む小さい生き物の我々は大きな影響を受けるという程の、そういったバランスだ。

重要なのは、少なくとも、それを崩す力を人間が持っているという事だな。
その上で「関わり」というものを考える程でなければ、安易に生態系のバランスを崩しかねない。

人間同士でもそうだ、コミュニケーションの取り方…、どのような言葉にどのような意味を乗せて使うのかだって、よく見ればそれぞれ微妙に違うものだ。
まったく普段関わりのない人と話す時、知人とのコミュニケーションにいかに慣れているか、解るかと思う。

その上、人々の認識の仕方、考え、価値観、そこからなる意見、それぞれが異なるし、そのそれぞれを結び付ける…というのか、良い所を上手く合わせて通せるような、そういった仕組みを考えるというのも、中々に骨の折れる事だろう。

…まあ、それは置いといて、大した事は言えないし、言えるつもりもないが、すぐ側にある人間、自分の手が届く範囲の命、自分の命などと、まず真摯に向き合うのも、大切な事の一つなんじゃないかね。

俺には安楽死があってもなくても、良いとも思えないし、悪いとも思えない。

いつまでたっても、どれだけ思い巡らせても、人それぞれの考えがあるという事は、決まりきった答え、命に対する考え方がないという事に近いと考えられる。
もちろん、一瞬一瞬、足を付けて止まる場所はあるだろう、自分の考えが固まって行くと言う事は。

命という事へのわだかまりというのか、モヤっとしたこの感情は、自分の人生と共に、命を考え続ける事でしかないハッキリしてこないのではないかと思って、考え続けてる。

最後に、大体まとめると、現時点では、命、人生、それは自分のものであって、自分一人によって作られて来たものではない、とか。

多分、安楽死の際に、健康だという事だけが問題ではなくて、それを含めた上で、医師などによる安楽死といっても、医師も人であり、人の手で他人の人生に幕を下ろす訳だ。
これから何が起こるかもわからない、替えの効かない個人の人生、その未来を奪う事になる、それに葛藤、ストレスはあるだろう。人によりけりだろうが、非常に大きなものが。

国における話だと、倫理的な問題、制度変更の際に関わる法の見直しなどがあるので、恐らく国政としてはかなり慎重にならざるを得ない、とか。
極端に言って、海外では安楽死が制度として容認されたらしいといえど、その流れに乗ろう!…なんて軽率に国政が変わりはしない。(そんな首脳のいる国に居たなら、控えめに言っても国外逃亡したいレベルだ)

安楽死を提供する側の心的負担、国政関係。
そして、死という事に対して、逃れられない人間関係としての、親族や周囲の人々の心の機微。
中々に難しい問題だと思う。
(悪いとかダメとか思ってるんじゃなく、それらの関係を考えた上で、制度を導入するのは中々に骨の折れる事であり、楽観的に見ても、少なくとも時間の掛かる事だと)

…あまり不安の種を撒き散らしたくないので、言いたくない事だが、正直に明かせば、安楽死とは言えど、本当に苦しくないのかなどと、解るものなのだろうか。
安らかに楽に死ぬ。例え本当にそうであったとしても、現実的に動物の殺処分に当たった方々はかなり苦悩しているらしい現実もあるしな…。

命に対する考え方は人それぞれあり、小瓶主さんは、「それだけの事」と思っているらしいが、俺は「重い事だ」と考えている。
そのどちらもが、そして今まで俺が書いてきた文章全てを含め、自分の意見でしかない、という事も。

そして、「死」とはどういう事なのか、多くの人に、考える機会は少ないのではないだろうか。

多くの人は、それがどういった事なのか解らず…というか、間違いなくどういう状態かなどと、それこそ死ななければ解らない。
生命活動の停止という事は解っていても、真にどういった事なのか知らず、死んではいけないとか、死にたいとか、そういう事を言う。(当たり前の事だが)

俺はそういう人間の一人で、そうして死のうとしたが、死に切れず生きている。
何度か死のうとして、他には偶発的に、命のもろさや、死のあっけなさを理解した。

所詮、どこまで行っても自分の意見、思いや考えでしかないのだろうが、例え、命が重かろうとも、命は儚い。軽く、あっさりと、死ぬ時は死ぬ。

多くの人は健康で、それが当然なのだから、健康が当たり前である事に有り難みを感じる事も少ない。
だからと言って、健康である事を有難がれという話ではなく、健康であっても、死にたくなる時は死にたくなるし、そういった状況でも死へと向かう。

例え死の間際、こんなに苦しいものだと思わなかった、と思ってももう遅い。
人間、壊れやすいという程には弱くないが、頑丈という程強くもない。

もし、死が無だとするなら、死んだ時には当然意識もなく、自分が死んで、苦しい人生が終わった事にも気付かない。
そういうものなんじゃないかね。

もし小瓶主さんが、辛くて死にたいと思う事や、ショックな事があって、死生観を考えだし始めたのなら、止めたい訳じゃないし、止まるも進むも本人の意思だ。

でも、多分死んだら後悔なんて出来ないし、楽しい事も苦しさから解放された感覚もないのかもしれない。
お節介かも知れんが、生きている内にやっておいた方が良い事もあるのかもな。
・・・小瓶の中の手紙を読む

烏羽
正直に言おう。

生きなきゃいけない理由はない。
また同じく、死ななきゃいけない理由もない。

…というか、小瓶主さんは、「生きていきたい」理由が欲しいのだろうかね。

それを他人がどうこうと…、少なくとも俺には、小瓶主さんの「生きたい理由」を言う事は出来んよ。

参考になるかどうかは解らんが、準引きこもり状態の俺が、今生きてる理由は、食べてきた食べ物、命に申し訳ないからだ。

逆に言うと、それ以外に俺をこの世へと縛ってるものは何もない。

強いて言うならば、そんな中で生きてて、やりたいと思った事…、例えばだが、腹が減ったとか、動画が見たいだとか、絵が描きたいだとか、歌いたい、運動したいだとか、それら一瞬浮かんだ事の連続で動いている。

正直、そういうものがあっても、個人的には今死んで何の悔いもないよ。

昔は、小瓶主さんのように、死にたい気持ちもあったし、自殺未遂もしたが、今は何もない。
生きたいと思える理由もこれと言ったものはないんだがな。

はっきり言おうか、小瓶主さんが死にたいかどうかは置いといて、何かまだ、したい事、楽しいと思える事はあるか?

生きる理由なんてものは、確かに簡単には見つからんだろうが、「生きている中で一瞬一瞬に動く理由」なんてものは、案外すぐに見つかる。

顔を洗うでも、歯を磨くでもな。

小瓶主さんが書いた、誰かの人生、心とかを傷付けたくないって事も含め、今まで生きてきたのって、大体はその、一瞬一瞬の積み重ねなんじゃないかと思う。

だから、「生きる理由」が見つからずとも、「生きている中でしたい事」を探せば、少なくとも何かしら「動きたい理由」は作る事が出来るんじゃないかね。
「したい事」まで行かなくても、「とりあえずやってみたい事」とか。

その継続が、生きている事の支えになるかもしれないな。

ただ、「自分を押さえて無理に生きてる」という事なので、死にたいという気持ち以外に、周りに対し、我慢し続けて苦しい事があるとか、嫌な感情を抱きながら、ストレスを抱えながら生きているという事なら、辛いんじゃないかと思う。

一番良いのはその環境が変わって、ストレスが離れていく事なんだが、それが難しいなら小瓶主さん自身で、ストレスを発散したりしないと精神的にキツイかもなあ。

例えば、散歩程度でも身体動かしたり、自然の風景を見たり、ペットとかと触れ合ったり、音楽聴いたり、なんか映画でも見たり。

ストレス発散の方法の合う合わないも、人によるので、自分にあったものを探してみる…ってのも、直近の「とりあえず生きている理由」には繋がるんじゃないか?
今の時代、ネットで「ストレス発散方法」とでも検索したら、色々出てくると思うしな。

もちろん、無理して生きるための理由を作る必要はないので、気が向いたら試してほしい程度だが。

ただ、うつ病ってのは、思考回路のほとんどが「死にたい」って方向へと向きやすくなってしまう病だとは言っておく。

…俺もうつの初期症状が出てたらしいが、うつ病ってのは人によって程度も様々で、判断が難しいらしく、診断に時間がかかるらしい。
なのに通院しなかったので、自分がうつ病だったかは解らんが、多分、その後の状況からして近くはあったと思う。
だから、一応、その重みは欠片だとしても解る気はする。

とにかく、そんな状態だと、体力というか、やる気出すのも中々しんどいものがあるだろうと思うんで、許す限り、あまり頑張りすぎないでな。
・・・小瓶の中の手紙を読む

烏羽
自己肯定感というと、よく自分を愛せるかだとか、自信だとかの話を聞くが、そうではなくて、ただシンプルに「自分はありのままでいいんだ」と思える事らしいな。
(小瓶主さんの言う、生きてていいんだ、ってのも多分そう)

お節介かもしれんが、自己肯定感以外にも、自分のストレスを発散なり、軽減なり出来る方法が見つかると、支えがその分増えるだろうから、また変わってくるかもしれんね。

何か動物と触れ合うとか、自然の景色とかに触れてみるとか、ちょっとした散歩をしてみたり、音楽なり漫画なり、または動物や自然の動画を見るなり、好きな事するなり。
(不貞寝も結構スッキリするぞ)

なんだったら「アナと雪の女王」の「ありの〜ままの〜」って奴をカラオケとかで歌うのもアリだと思う。
(冗談半分本気半分。意外と声出したり、適度に体を動かすと、ストレスは発散されやすいらしい)

失敗した後の自分のメンタルをケアしたり、リセットしようとしたり…、まあ、そういう手段があっても辛くなる時は辛くなるけど、立ち直って、ある程度でも元気を取り戻せるなら良いじゃない?

というか、誤解だったら悪いんだけど、何が起こってもどんな失敗をしても落ち込まない人間なんてそうそう居るもんじゃない。
ショックな事があって、そこで生きてていいんだと思えても、さらにその上から死にたくなるような事も割とあるんじゃないかな。

(ショックな事があって、過去から来る周囲への意識や、自己否定などの流れから、今生きている事も否定してしまう生きづらさ、という感じのなら俺の完全な誤解なのですまん)

人間すぐには変わらないというか、物理的な脳の回路が変化するまでに時間かかると思うから、少しずつ、気が向いた時にでも続けてみると、変化していく…、かもしれんね。

どうあれ、好転するのを願うよ。
・・・小瓶の中の手紙を読む

烏羽
今更お返事するのもなんですが、読んで、寄り添いのあるお返事をくださって、ありがとう。

考える意味は、俺にはありますよ。
生きるか死ぬかだけの、何の意味もなく過ぎる人生なんてつまらないですから。
(もちろん、意味が溢れて疲れる事もありますが)

全てに意味がないと思う時も良し悪し、全てに意味があると思う時も良し悪し、それぞれそう思う事でメリットとデメリットがありますでしょう。
(そしてその中で揺れ動き、バランスを取る事もある)

お返事を下さったあなたなら解るかと思いますが、あれこれと考えて、意味を付けているのはあくまで主観を持った人間側ですよね。
(だからそういったお返事を書かれたのかと思いまして)

言葉遊びのようになりますが、「意味がある」と思うも、「意味がない」と思うも、結局は同じくして「意味」を付けている、と俺は考えています。

極端な例として言えば、意味がないのなら、考えすらしない、思い浮かびさえしない、みたいな。
(はっきり言って良いくらいに、そんな訳はまずないのですが)

実の所、この小瓶に書いた文章、こればかりは我が事として見逃せない為、真剣に考えた訳でもあります。

それに、寧ろ俺の場合、自己嫌悪どころか考える事が楽しかったりする面もあるので、一種のストレス発散になっているのかもしれんです。

はは、まあ、この件はガクンと気落ちする程のものではなかったので、確か、並みに元気でした。
文章を書いている時の気持ちとしては、普通を少し下回ったり、上がったりを繰り返してた感じでしたかね。

あまり気になさらんで下さい。
・・・小瓶の中の手紙を読む

烏羽
そうだなあ、また久しぶりというか、時間の経った上での返事になるから、もうある程度考え付いてはいると思うが、書かせて頂ければ。

人間なんてまず、自分の延長線上からでしか物事を考えづらいものだと思う。

もし、自分について、を捨てる事が出来るなら…そりゃ、もしかしたら出来るのかもしれないが、出来たとしても意識があるとは言い難いのではないかと思う。

どっかの心理学者が全てを疑い続けて、疑う事だけは真実であると、我思う故に我ありと、そういった事を言ってたらしいけれど、それと似たような事だと思うぞ。

「自分」というものから、思いが発せられているのだから、それを失う事は出来ない。
打ち消そうとしたってモグラ叩きになる。言葉にして説明するのは難しくても、単純な話なのさ。

それに、自分を捨てた所で、「自分」
から生まれた「自分から脱却したい」「この息苦しさから抜け出したい」というそもそものそれが解消されるという訳でもない。

自分がなくなる事で、苦しみはチャラにできるかもしれないが、「自分」がなくなるのだから、発せられた思いの、「悩み」というものもなくなってしまう。

一見良さそうに感じるかもしれないが、自分を失う事は、その他に発するものの、「解消」や「解決」そのものをも失う事になる。

悩み自体を停止や、保留するようなもの、と言えばイメージしやすいだろうか。
あるいは、悪くなれば、パソコンなどに溜まる事のある、削除も修復も不可な、アクセスできない壊れたデータのようになってしまうんじゃないかね。
(流石に人間は、もう少し融通が効くだろうと思いはするので、あくまでも例え)

偉そうに言える立場ではないが、物事を、深刻に考えるか、浅く考えるか。
近いと遠いの違いかね。ベルさんはその内実を理解できたんだろう。

きっと、ほんの少しでも明るい道が開けているよ。

所で、自分とは何なのか…
案外、業っていうのは、この事なのかもしれんな。いいも悪いも含めて。

まあ、自分っていうのは、変化、成長して行くものだろう。
自分と決めた己の部分と、その外の自分と、共にな。
・・・小瓶の中の手紙を読む

烏羽
なんとなくだが、20半ばから30レベル付近はあるんじゃない?
上限解らんけども。

とりあえず、お疲れさんだ。

人や時間、視界の焦点が少しでも違えば、例え同じ言葉を口にしても、何を感じるか、何を思うか、様々に違う事だろう。

同じ過ちだと思ってしまう気持ちは、解るような気はするが、それと似て、本当には、同じではないよ。

何より今あるりぃふさんの心持ち自体が、以前とは違うのだろうからな。

りぃふさんのように衝撃的な、人の死と密接に関わるような行動、出来事はないが…

死へ対峙した人への、自由意志の尊重というのか、それとも諦めや手放しというのか。
どういった言葉になるのかは解らんが、その両方のような時、不安で押しつぶされそうになるのは解るつもりだ。

彼氏さんがどういう思いで死にたいと口にするのかは、他人には解らんし、こう言った所で仕方がないのかもしれんが…
不安でも手放す、その覚悟が理解できれば、「死」という言葉に纏わる重みも理解できるかもしれん。

まあ、人にはそれぞれの生きる時間がある。
学ぶ時間も、考える時間も、やり方からペースから、何から何まで違ったり、その中で他人と重なったりもする。

りぃふさんと同じく、いつか解る可能性はあるかもな。
・・・小瓶の中の手紙を読む

烏羽
お返事どうも。

うーん、差し支えなければちょっと考えてみても良いのではないかと思ったんだが、書いた字や絵のどこに嫌悪感や気持ち悪さを感じるのだろうか?

字の汚さや絵の下手さというのなら、自身の目標が高いというか、こう描きたいのではないという納得感、向上心が関わっているのではないかと思ったりするのだけれども。

まあ、無理に向き合う必要もないと言えばないしな。

今回の小瓶に関して言えば、姉さんの行動が頭をよぎる分、絵を描きたいとか、表現したい気持ちを堰き止めているように思ったので、そうだなあ。

もし描きたいというのなら、姉さんやらに何か言われても…、実際言われたら気にはなるのだろうけど、「まあ、いつもの姉のいう事だしな」くらいに思えればいい…

…のかもしれんが、まあ、そう言われても事が起これば迷惑な気になるだろうしな。

とりあえず、自信とか関係なく、絵は描きたいから描くもんだ。
上手くなりたいという気持ちがあればそれだけでもいいし、それを抜きに表現したいというだけでもいい。

言われるまでもないかもしれんが、もしも上手くなりたいというのであれば、よっぽどの才能か努力、あるいは運がない限り、こなした数が少ない中で、上手い絵を描けるかというと難しい。

そもそも、絵は自由なものなので、何が目指す場所なのかという所も特にない。
あるとすれば、それは描き手の意思であって、「何が上手いと感じる絵なのか」という感覚や描き方も、身につく…というより、積み重なって、形成されていくものなのではないかと思う。

人から見た評価、というのもそうで、描き方が解らないなりの評価と、解った上での評価というものはまた訳が違う。

俺も小学校の頃描いた絵に、一度だけ、なんかの賞を貰った事があるが、なんというのだろうな。

あの頃は自分の絵の、何が上手いかなどさっぱり解らなかった。

ただ、今になって分かるのは、色をどのように付けたかというのは、絵を描いた奴には、直に絵を見てみると、それとなく解るっぽいって事だな。

勝手ながら、かつての小瓶主さんの絵を拝見させて貰ったが、水彩の色使いと言うのか、あえて水の量を多くしたり、筆先から水滴を垂らしたりしないと、そこまでぼやけたりしないし、あの色の付け方だと、結構描くのに時間が掛かるんじゃないかね。

俺も、昔の事はよく覚えていないが、やってた事はあるからな。

評価していいのかよくは解らんので、失礼に当たったら申し訳ないのだが…、無礼を承知で書かせて頂ければ。

主さんがそこまで色を付けた根気とか、労力が感じられる事、そしてなによりも、全体的な色遣い。
これを幼い当時、どこからどこまで考えてやったのか、考えてなかったのかはさて置き、一枚の絵として見れば、小学三年生の描く絵としてかなり上手い部類に入ったのではないかと俺は思う。

自分語りで悪いが、俺の絵はどっか行っちまったからもう解らんで…(どっかに展示されたかなんかで、手元に帰って来てない気がする)、ただ昔褒められたのだけは覚えててな。

昔から絵を描くのは好きだったが、その賞を取れたからか、絵を描きたいのかなんなのか、よく意識するというのか、身近な存在になっていったのだよな。
・・・小瓶の中の手紙を読む

烏羽
小瓶主さんからのお返事どうも。

「僕なんかに」とは言うが、俺が使いたくて使ってる時間だから気にする事もないよ。

それ所か、あんなクソ長い文を態々読んでくれる、なみだうさぎさんにこそ感謝だわ。

理解に関しては、なみだうさぎさん側に不得手な所があるというより、俺自身上手く伝えられない事が多いんで、俺の表現が下手な気はしている。
(申し訳ない)

まあ、先生も授業内容やら課題内容やら採点やら、忙しいからね。
時間に余裕のない時、手一杯な時は何も言われないなんて事はあるし、普通に忘れてたりなんて事もあるだろう。

俺もその都度怒られたとは言ったが、担任による所もあるから、人が変われば諦められたような事もあったしなあ。

解釈は大体そんな感じかな。多分合ってる。
若干、俺が早とちりして書いた感はあるが、平均点というのは一つの例だと思ってくれればいいかね。
(勉強に関して安心した)

一人一人違う感覚を持っている事が、それぞれにとって普通の、当たり前の状態だし…

そうだな、その違った感覚から出る、一人一人の当人が思い描く「平均」だとか、「一般的」だとかも、当然それぞれ、様々だという感じか。

その、「一人一人が異なる当たり前を持っている」という事が、それぞれの「普通」という感覚の中身になっている。

どのような程度の違いか、というのはあるだろうが、宛メを見渡す限りでも、生きていて「死にたい」と思う人って、意外と多いんじゃないか?

それを表に…、誰かに出したいか、出したくないか…、言いたいか、言いたくないか、そういったものはあるのだと思うがね。

平均点はあくまでも数字で、実際に存在している大多数とは限らない。

それと同じように、自分自身、一人一人が周りを見て思い描く「普通」は、本当にそうなのかも解らない。

同じ「5×2」という式を見たって、「九九では10だ」とすぐ答える人もいれば、「5が2つで10だ」と思う人、「2が5個…、合わせると幾つだ?」と考える人、それぞれ違うかもしれない。

今使っている「言葉」にしたってそうで、ある程度共通の認識として重なる部分はあれど、どんなニュアンスを持って使っているのかそれぞれ違うだろうし、どのように読み取るのかも異なる。

俺は、周りがどう思おうと、少数派が異常だなんて事は思わないし、大多数派が正常なんて事も思わない。

「正常=そうでなくてはならない」だとも思わん。

大多数が正常で、少数が異常と言うのなら、今までの歴史は何だったんだとも思うしな。

人間、そうキッパリと分けられるよう、簡単には出来ていないと思う。
大多数にも少数にも入るという事なんてザラだ。犬派猫派、きのこたけのこ派、どっちも好きだという人はいるだろう。
どちらか聞かれたから「どちらかというと」、という人も多いだろう。

俺自身、真面目な部分もあれば、また別の所で不真面目な部分もある。

今の状態…というか、このお返事を書いて、なみだうさぎさんが当初思い描いた状態…
それを、変えたいというのならそれで良いんだと思う。

だけど、自分がダメだと責めて、辛くなって、死にたくなって…、それで動けなくなってしまえば、目標も何もないからな。

行動が積み重なる事で、自分にとっての、普通という感覚は出来上がっていくのかもしれん。

…小瓶は読んだが、サボり休みで、それに罪悪感やら嫌悪感、不安なのか、戸惑う感情が出るのも仕方ないと思うぞ。
それこそ普通というかな。少なくとも、俺にとってはそうだ。

じゃ、また気が向いた時にでも。
・・・小瓶の中の手紙を読む

烏羽
文面だけだが、腹立つな。
腹立つし、悲しくなる。

なんで小瓶主さんが、こんな思いをしなくちゃならないんだろうな。

なあ、もし、爺ちゃん婆ちゃんや、父母のご兄弟姉妹がご存命だったり、信頼できて、頼れるようだったら…

小瓶に書いた事や、父母兄、家族にされた事を(言える範囲で)電話か、メールか、何かで話して、匿ってほしいとか、助けて欲しいとか、この家に居たくないとか、言ってみるのはどうだろう。

…出来れば性暴力の懸念や、金銭的な都合もあるので、父母の兄弟姉妹が独身である場合や、特に独身男性である場合、連絡するのは避けた方がいいかもしれない。
(同性…、女性で独身である場合は、選択肢に入れていいかもしれんが、金銭的な面から不自由だと、それによって暴力を振るわれる可能性もあるので、出来れば既婚者が望ましいと思う)

あと、母から虐待を受け、父に監禁まがいの事をされたりしているとの事なので、出来れば、爺ちゃん婆ちゃんに連絡する際、父母兄、家族に見つかる事は避けた方がいいかもしれん。

最悪、それが理由で軟禁(程度のゆるい監禁)される事もある。
(なので、誰かに助けて欲しいと伝える際は、「虐待が激しくなったり、監禁されるかもしれないので、家族には隠しておいて欲しい」という事も言った方が良いかもしれない)

持っているようであればご自身のケータイ、スマホなどを使うとか。
予め、爺ちゃん婆ちゃんなどの、頼れそうな人の連絡先を調べておいて、公衆電話を使ったり、学校の電話を借りて、連絡を取るのがいいと思う。

また、保健室の先生(出来れば同性…、小瓶主さんなら女性の先生)に相談してみるとか。

ほかに、「教育相談窓口」あるいは「教育相談センター」と検索をかけて貰うと、無料電話相談の出来るサイトが出てくる筈だ。

他にも、「警察相談専用電話」と検索をかけて貰うと、警察署の、生活に関する、電話相談の窓口が出てくる。
(110番とは別)

宛メのサイトの下部にも、管理人さんが集めてくれた相談窓口へ飛べるリンクサイトがあるので、「悩み相談ができる相談所を集めたサイト」という所を、スマホなどであればタップしたり、パソコンであればクリックして、チェックしてみてほしい。

ただ、無料相談窓口は、混みあっている事も多いので、それによって電話が繋がらない事もある。
諦めず、時間を開けたりして、何度も掛けてみたり、一つの相談窓口以外にも電話を掛けてみて欲しい。
(相談受付時間も確認してな)

専門の方々へ相談する事で、現状を少しでも良くできる方法を見つけたり、教えてくれるかもしれない。

なんとかならないか、どうにか状況が良くならないだろうかという思いで一杯だが、一先ず無事を祈る。
・・・小瓶の中の手紙を読む

烏羽
楽になるとか、イメージが払拭されるとかは解らんが、いじめられる側にどんな要素や理由があろうと、いじめた側が悪い事に変わりないぞ。

小瓶主さんが、誰かのせいにしてもダメだと、そう思えるのは立派な事だと思うが、いじめてきた側に責任がある事は間違いないと思う。

例え、いじめに結び付く要素が、小瓶主さんの行動の中にあったとしても、それはあくまで「いじめた側からの視点」で、いじめる事に繋がった、結果的な理由でしかなく、そこに小瓶主さんへの非はない。

どんな理由があろうと、いじめは犯罪で、正当化されるものではないからね。

だから、昔小瓶主さんをいじめてきた奴らのせいであって、そいつらが悪かったんだと思う。

また、許したい、あるいは、何かしら心の整理を付けたいというならそれでいいと思うけど、酷い事をされて許さないというのなら、そりゃ許せないだろう。
無理に許そうとしなくていいと思う。

俺も、結構…、いじめではないんだが、狡猾な手口で、裏切られるようなショックな事があって、夢は見ずとも、今でもちょくちょくそいつの事を映像のように思い出すし、絶対に許そうとも思えない。憎さ極まって殺意さえある。

(通院中ではないが、それやら色々な事が合わさって、高校不登校、中退後、鬱っぽくなったり、自殺未遂に至ったが、現状は割と元気)

正直、思い出すのも嫌なんだがね。
(割と不謹慎な話、現実的に殺すかどうかというとそうではないが…、いや、せめて一発、後遺症が残るぐらいには、思いっきり殴らせろ程度の害意があるけれども、ふと思い出した時は殺す妄想やら、顎の骨を砕いて吹き飛ばしてやるイメージなどをしている)

一々そんな嫌な記憶を、思い出すのも労力の無駄というか、その時間を別の事に使いたいし、それ故に鬱陶しいし、どうすりゃいいのかよく解らん。
(俺もこれが軽減されるなら知りたい)

因みに小瓶主さんは、通院中の心療内科の先生に、「仲間外れにされたり裏切られた時の夢を見る」事に関して、困っていると話しただろうか。

まだ話していないなら、話してみるといいかと思う。

もう話したのなら、ご存知かも知れないが、心療内科の先生も人間なので、人間関係という点から見た、話しやすさと言えばいいか、お互いの相性もあるので…
(医療の先生それぞれに、やり方の違いや、患者さんとのやりとりの違いがある)

もしも合わないと感じているようであれば、別の心療内科へ行く事を検討してみるのも、一つの手かもしれない。

小瓶主さんと俺と、病気の性質というのか、状況や程度はそれぞれ異なるだろうが、多少だとしても似たものを感じる。
少しでも、楽な気持ちに、穏やかな時間を過ごしたいもんだな。

何か、音楽聞くとか、動物の動画を見るとか、景色眺めるとか、窓側で日向ぼっこ(日陰ぼっこ?)するとか、温泉に行くとか、風呂に、泡がボコボコなる系の固形入浴剤とか、香りを楽しめるような入浴剤を入れてみるとか…

香りと言えば、紅茶とかを嗜んでみるのもいいかもしれん。

とにかく何かしら、ほんの少しでも、気分が落ち着けるような時間があると、いいんじゃないかとも思った。
・・・小瓶の中の手紙を読む

烏羽
(長くなったので、もし読まれる際は、余裕のある時に目を通して下されば幸いです)

そうだな。

なんというか、辛さというか…

自分なりに努力していて、他の人が不正に欲しい幸せを手にしているとなれば、そう思うのも当然、真っ当な感情だと思う。

また、自分の不遇さにしろ、誰かれの不正にしろ、深刻に考える時には結構エネルギーが要るからな。
(それ故に疲れもする)

辛い事を考える時間もあっていいとは思うが、辛い事を考えていると自覚出来た時は、そのエネルギーを別の事へ使おう、といった具合に、すり替えるのもいいかもしれない。

(パッと考える事を止めるというのも、難しい場合があるので、困った時はすり替えをオススメする)

俺がよくやるのは、歌を歌うとか、体動かすとか、絵を描くとか、少し寝るとかだな。

何か別の事に熱中というのか、集中というのか…、行動などを通したりで、そこに対して少しでも意識するようになり、深く考え出すと、そっちへ意識が流れて行きやすい場合もある。
また、寝ると体感、意外にスッキリする。

また別に、どうしても相手が許せなかったり、自分を嘆くのが収まらない時は、寧ろそのまま流れに任せて頭の中で相手を貶してみたり、自己憐憫していると、何だか自分自身で虚しくなってきたり、疲れてくるので、そのまま自分自身が「疲れたな」と自覚できる場合もある。
(疲れたと思えば、休みたく、考えたくもなくなると思う)

場合にもよるだろうが、逆に、相手への怒りから、自分のやりたい事を何クソと思い、バネにするような感じで、意気込む事も出来るかもしれん。

本当にそう、心から考えられるならの話でもあるが、比較したり、自分を嘆いたり、不正を許せなかったりする際の時間や労力を勿体ないと考えたなら、別の事をしようとも思えるかもしれんしな。

あと思い付くのは、ストレスの発散、解消の仕方なんだが…
先程書いた、歌う事も含め、「体を動かす」と、結構発散される事が多い気もするかね。

気にならなければ一人カラオケとか、迷惑になったりしない時や、人のいない時間を選ぶとか、恥ずかしさとかを考慮した上でなら、家ででも出来るぞ。

体を動かすのも、肩を回す感じの簡単なストレッチとか、スクワットとか、腕立てとかいいかもしれん。

手のひらを、神社とか行く時みたいに、身体の正面で合わせ、両腕の肘も合わせて、合わせた腕を、そのまま垂直に…、膝が頭の上辺りになるまで(上がる所まで)上げて、10秒程キープして、降ろして、上げてキープして…、と、何度か繰り返すのもなかなかいいかもしれんな。

(文字だけなので解りづらいだろうが、肩やら二の腕周りの筋肉にかなり効くので、肩凝りにおススメ)

他には、握力鍛えるための、あの二つのバーを握り合わせるような、V字型の器具、って解るだろうか。(ハンドグリップというらしい)
あれを握り込むのもいいかもしれん。

シャドーボクシングもどきや、正拳突きとかをやってみるのも割と楽しい。
(いいパンチを出すためには、足腰や、重心等が結構関わっていたりもするっぽい)

これも俺自身がリラックスできて良いなと思った事なので、実際どうなのかは解らんが、キャンドルや、アロマキャンドル等もいいかもしれん。

火を扱う時はそれなりに危険も伴うので、取扱説明書とかをよく読んだり、ネットで出てくるようなキャンドルについての注意書きを見たりで、引火するものがないかとか、よくよく気を付けて欲しいが、個人的に火を見ると、なんか落ち着くんだ。
(焚き火を眺めるとかそういう感覚)

まあ、自分の事を考えるというか、色々、悪い方向へ考えてしまう事を止める方法やら、嫌な気持ちを流せる方法やら、探したり試してみようぜ。

辛い気持ちがあっても、それをどう消化したり、受け流したり、自分を支えたり出来るのか、出来る事は割とありそうだしな。

自分なりの正解というのか、理想あってこそ、目指す場所も見えてくるものだろうし、何が自分にとっての正解なのか、固まっていくものなんじゃないかと思う。


ただ、まあ、ここからは余談なので、スルーしてくれても構わないんだが…(これ以上長くなるので)
俺の場合、余計な事も、比較も、幸せを求める事もしていいと思う。

勿論、スリザリンさんが、言葉通り、自分の事を考えない、と、そう思っている訳ではない事は解るつもりだ。
(ややこしい話なのですまん)

が、その上で、自分の事を考える事自体や、比較する事そのもの、幸せを求める事そのものは、やはり悪いものではないと思う。

要は、それらの中で上手くいかない事があり、対処に手間取る事がある。
あるいはこう言い変えられるか、ご自身にとっての適切な距離感が掴めない、とか。

距離感と言っても大した話ではないんだが…

俺の話だと、自分を憐れんだり、他人と比較するよりも、別の事を考えたりしたいし、上手くいくかどうかは別に、そうしようとしてきた。

憐れむにしろ比較するにしろ、落ち込んだり苛立ったりするより、また、それがあるとしても何か学びを得たいとかな。

嫌な気持ちになりたくて考えたい訳じゃないというか、考えて嫌な気持ちになって、ただそれだけで気分が落ち込んで終わるというのは、適切な、理想的な距離感ではないなと思った訳だ。

また、比較するにも、対照実験的に見るとすれば…
そもそもが同じ背景を持った、同一人物という訳でもないしな。
考える事もやる事も、思う幸せも、悩む大きさも、それぞれ異なる。

厳密な比較は出来ないという事に気付いてから、それを自分に言い聞かせ続け、行動してきたというのか…
自分で考えて納得して、常に意識している状態になったというのか、それが当たり前な感覚に加わったというのか…

今も比較して、嫌な気持ちが湧く事もあるが、そんな感じに、言わば隣の芝は青い的な比較は少なくなって行ったかな。
(この小瓶の不正した人に対しての、スリザリンさんの比較は、状況が違うだろうなのでなんとも言えんがね)

幸せに関しては…
…いや、まあ、求めていた事もあったが、求めなくなったのもあって、引きこもって今生きてる訳だしな…。

あまり何かしらの情報は言えんが、自分がやる事に関して「期待の度合い」が高ければ高いほど、叶わなかった時の落差は大きくなるのかもしれん。
(なので、期待が高そうな時は、ある程度落差があるだろうという覚悟がいるかも)

逆に、思っても見なかったような良い事が起こると、心なしか嬉しさを大きく感じる気もする。
(思っても見なかった不幸が起こる事と同じく)

そこに関して、「どうなるか解らない」という考えは、不安とセットでもあるが、期待も解らない。

ある種、視点や認識に、余白が生まれやすいスタンス、考え方なのかもしれんな。

ただ、期待と不安は、「未来をイメージして、待ち受けようとする」という点で見ると、同じものと捉えられる。

それを軽く、あるいはポジティブとも言えるか、その視点で見る事。
それを深刻に、あるいはネガティブとも言えるような、その視点で見る事。

言葉にしてみれば、それだけの違いなのかもしれんと思う。

それらの違いが、なんというか、気持ちへの距離感とも、少なからず関わっている気がする。

…まあ、どちらも過ぎれば、「軽率」と、「臆病」等に繋がってしまうのかもしれんがな。
だが、両方がなければ、バランスを取るなんて事は出来ず、極端に振り切れるだけになってしまうかも解らん。

自身が深刻に考えて、行き詰まっていると感じる時、辛いと感じる時は、考えを軽く出来ると良いかもしれんよな。
(止めるなり、すり替えるなり)

また、理由なく運悪く、仕方なく起こる問題もあるので、そういう場合もあると、深く考え過ぎない方が良い事もある、…といった所か。
無理に考えた所で、事実と認識が異なってしまう場合もある事だし。
(間違える場合もあると解っていて、あえて考えたいのであれば話は別)

とにかく、考える際にも、比較する際にも、幸せを求める際にも、その中でしたい事を通すための要点というか、その当時の自身にとって丁度いい距離感や、コツというのか…
そういった、それなりに大事な点はあるのだと思う。

長くなったし、読み辛い箇所もあったかもしれんが、自分の不遇さへ、良くない方向に考えるのはやめたり、すり替えたり、少しでも楽なやり方を見つけられると良いな。
・・・小瓶の中の手紙を読む

烏羽
(長くなりますので、もし読まれる際は、お時間の許す時に目を通して頂ければ幸いです)

まあ、「終わっていた」というそれも、一つの生きる意味を考えてきた、それに対する意味なのかもしれんな。

俺が思う所の生きる意味は、生物的には「繁栄」で。
個人的には、「よく解らん」、といった所かね。

なんと言うのか…小瓶主さんの「生きる意味」って、「生きて行きたい意味」なのだろうか。
そうだとすれば、「これから生きる上で求めたい意味」を考えなければ、答えは出ないんじゃないか?

何故って、自分の意思がなければ、生きる意味など生まれても来ないのではないかと思う。

自分の意思が、後付け的に、自分だけの意味を作っていくものではないかと考えているのだ。
(「意味や価値、重要性」→人が作るもの)

だから、「無い」とすれば無い。「ある」とすればある。
(物事を「軽く捉えるか」、「深刻に捉えるか」、という図式と似ている)

「生きる意味」以外もそうで、生きている中、瞬間瞬間に思う、「腹減った」だとか「遊びたい」だとか「ぐっすり寝たい」だとか、それらに意味があるとするならあるだろうし、ないとするなら、ない。

身体として、なんらかの理由はあるだろうが、認識としてそれらに何の理由があるかの判別は明確に出来ないし、間違う事もある。
(足の小指をタンスの角にぶつけて、それ程痛くなく、単に打撲傷だと思っていたが、病院に行くと実は骨折していたとか)

自分自身の認識として、意味を考えた時、それはあくまでも己の認識でしかない訳だ。

そういう事もあり、「生きる意味」は明確に解らないが、感情や理性、瞬間の、一時一時の気持ちや考え、行動が続いて、生きているのだと俺は思う。

それ自体…、意識的に、一瞬一時と行動している事の中身が「生きる意味」だとするのなら、それも、人それぞれの解釈次第だろう。

「言葉」への意味と同じく、意味を定めて使っているのは人間その一人一人だろうしな。

本来的に何か意味があろうと、なかろうと、それとはまた別に意味を作る事、定める事が出来る。
(それが、新しい言葉の意味になったりもする)

まあ逆を言えば、意味があろうとなかろうと、考えようが考えまいが、今ここに生きているのは間違いない。

「生きる意味」というのが、各々にとって、「生の中求めたい意味」なのか、「使命のような大きな柱として、縋りたい、生きている事を支えたい意味」なのか、両方含めたものなのか、はたまた別のものなのか…。

どのように、何故「意味」を求めるのか。
それを含めた上で、「全体的な意味」が見えてくるのかもしれん。

あるいは、求める事で、求める事そのものが意味の中に加わる、とでも言えるか。

「生きる意味」というより…
どうやって、生きていきたいのか。
あるいは、生きている中で、何をしたいのか。
何かのために、生涯を掛けたいのか。

もしかすると、「生きる意味」なんて言葉で、それらを考えるから、ややこしいだけな場合もあるかもしれん。

それでも、意味を見つけたいから、考え、探す。作ろうとする。
生きる意味を考える事が、生きる理由に繋がる事はあるだろう。

何かものを考える時、「考えよう」なんて事を思った「瞬間」、それ自体が考え事なのだ。

それと似たように、生きている上で、「生きる意味」を考えても、その「生きる意味を考えている」事が生きている事、「現在進行的な行動」だ。

そこら辺も、ややこしくなる一要因かもしれんな。

解釈次第ではあるが…
生きている事そのものが一つの意味、「自分が存在しているというもの」だとすれば、生きている意味はあるだろう。

俺として、自分自身の持つ、今思う、一つの「生きている意味」は、「意味を考え、作る事。意味と関わる事」だと考えている。

簡単に書けば、「意味」というのは、「個人の持つ認識」だと考えてる訳だな。
その考えを一つの軸にして、俺の人生観を捉えているという話になる。

ただ、それが全てではないとも思っているのでな。
「よく解らない」という部分は間違いなくあるので、生きる意味を考え続けている。

何年経ったか…、よく解らんな。
細かく覚えてはいないが、俺も十年近くは考えてる筈だ。

俺は考えたいから、まだ考える事にするよ。

十年近くと行っても、偶然だとか色んな要素もあるから、人それぞれタイミングは違うのだろうし、速さも関係がない。
「生きる意味」そのものも、各々、様々に異なるのだろう。

少なくとも、個人的に十年では、まだ解りきれそうにないからな。

小瓶主さんも、終わりなら終わりでいいんだが、考えたくなった時はまた考えてみても良いんじゃないか?

自分自身の考え方、解釈の仕方や、考える上で着目する視野、そういうものは変わりうるものだろうし、それが変われば、また別の、違う答えも見えてくるかもしれんしな。
・・・小瓶の中の手紙を読む

烏羽
とりあえず、先ずは高校おめでとう。

まあ、確かにこちらから、文字でのやり取りの中出来る事といえば、文字を送る事だけなんだよな。

だけど、それを見た小瓶主さんの、なにかしらの好転的なきっかけになれると嬉しいし、だからこそ誰かを助けられるんじゃないか、直接的でなくとも助けに繋がる可能性はあるんじゃないかと思って、俺は返事をしてきたつもりだ。

そして、俺もそうやって、誰かがきっかけを見せてくれて、元気を貰ったり、自分の気持ちを立て直したり、そういう事があった訳だ。

一人一人、自分自身の力もあるからこそ、言葉を読み、考え、気持ちも行き交うやりとりが出来る。

Orange7さんの小瓶や、小瓶内のお返事を読み返してみたけど、あのお返事をされていた方は、「意味がない」とは書いてないと思う。

寧ろ「お返事をする事で、僅かでも何らかの変化に繋がる可能性はある」という事を伝えたかったのかな?と思います。
(当事者ではないので勝手な解釈ではあるが)

ただ、まあ、その「相手の力」という視点を見落とした上での行動…
例えば、「自分の言葉で相手は必ず救われる」という思いからの行動は、逆に助けたいと思った方との、人間関係の軋みを呼ぶかもしれない。
(Orange7さんに関しての話ではなく、俺が思う事の説明)

何しろ、ゲームや人間の作り出してきた計算式のように、「こうすれば必ずこうなる」という法則なんてものは、多分現実的に存在していない。

それに、「必ず救える」という思いが高ぶって、いかにも「私こそが神様だ、全て自分の思い通りだ」と言わんばかりに振舞うと、相手にもそれは伝わる。

例えば…、また別の話ではあるが、もし何らかのお店の中で、店員さんに対し、客が「俺は神様だから、わがままを聞け!言う通りにしろ!暴言のはけ口になれ!」みたいな事を言ったり、行動したとして、そしたら、少なからず違和感というか、抵抗感や「何やってんだこいつ?」感を感じないか?

極端な例えだが、このように、「お客も店員も、サービス以前に同じ立場として人間であり、マナーがある」という事を忘れた所から生まれる、人間関係の軋みもある。

要は、この例えでいうと、「お客様は神様」というサービス精神…、言わばお店を経営する人の「目標、理想、理念」を、そのサービスを提供してもらう側の客が、「受けて当然のもの。あって当たり前で、ありがたさも何もないもの」として振る舞えば、おかしくなるというもの。

まとめると、それと似たように、相手に対して、「俺のやる事は全て正しいし、何でも許される」という自制も理性もない行動は困るという話だな。

俺が「救いたい」という事に関して、気を付けたいと思ってるのはそこなんだ。

相手がいるという事…、相手に対しての思いやりを忘れ、自分自身のうぬぼれから、言葉を叩きつけるだけになってしまう事。

そうなると、自己中心的に、「救いたい自分が欲しい」、「自分の思うがままに振る舞いたい」等となるだけで、相手を見ていない為に、「相手を救いたい」というものから離れていってしまう場合がある。

…ただ、実際の所「自分の思うがままに振る舞いたい」という思いの元…「自由意志」が、「相手を救いたい」という思いへ繋がっている。

だから、何かしらアドバイスをしたいと思う時には、お返事を書いていて、自分本意になり過ぎて、「相手をちゃんと見れているのか」というのか…

「救いたい自分の姿」が欲しいのか「届く範囲ででも相手を救いたい」のか、よくよく自分を見つめ直す必要性を個人的に感じている。
(…自分自身、上手く出来ているかと聞かれると、失敗の方が多いと思うが)

だから、俺の場合は最初に書いたように、相手の力があるという事を見落とさない為にも、自分が出来る領分を忘れない為にも、「直接的に助ける事は出来ない」と、そう思っている。

(本当の所、宛メの、言葉だけのやりとりに限った話じゃなく、現実的にもそういう事はある。…宛メも現実の一部だしな)

Orange7さんが宛メをやめようか、やめないか、その選択はあなた自身にしか出来ない事だ。

Orange7さんがやめてしまうのは寂しいが、それを俺が物理的に止める事は出来ない。

俺もなんらかのきっかけになる可能性はあるかもしれないし、今、その為に思う事を書いてみている訳だが、「言葉以上」にはなれない。

…そういった視点を持って、以前の小瓶を読み返すと…

あのお返事を書いた方は、Orange7さんになんとか休んで欲しかったために、「返信、(疲れていて無理な時に)しなくて良いです」と書かれたのかもしれない。
(違う方だったら本当に申し訳ないし、それを抜きにしても勝手な憶測による解釈なので、重ねてすみません)

また、相手にも自分で考えたり、立つ力があるし、僅かな変化の、きっかけ以上にはなれないから、「あなたも、私も、無力です」という言葉を書いたのかもしれない。
(無力であっても、無意味ではない)

憶測なので解らんがね。
だけど、あの方もOrange7さんを助けたい、何かしらの良いきっかけになれれば、と思ったから、そういうお返事をして、気持ちを伝えようとしたんじゃないかと思う。

誰かを助けたい、救いたい、そう思えるのは立派な事だと思うし、その気持ちは幻想などではないだろう。

ただ、他の方との、「助けたい」という思いへ対する、認識や解釈の違いを知ったというのはあるかもしれんがな。

もし気が向けば、もう一度…
ネガティブではなかったり、それなりに落ち着いている時に、あの小瓶や、小瓶についた様々な方のお返事を読み返してみてもいいんじゃないかなと思った。
・・・小瓶の中の手紙を読む

烏羽
頑張ったんだな。

俺なんか中学の時は、宿題まったくやらずに過ごしてたわ(その都度怒られたがな苦笑)

まあ、「当たり前」なんてものは、自分の現在ある姿でしかないよ。

そりゃ当然、周りの普通とされる基準というか、平均に合わせるのは骨が折れる。
それこそ、元々自分自身にとって普通じゃない感覚なのだから、仕方がない。

…ついでにいうと、多分俺にとっても普通じゃない。

なみだうさぎさんが普通じゃないとかというか…
「普通」という言葉には「ありふれたもの」とか、「当たり前である事」だとか、「一般的に」とか、そういう意味がある。

じゃあ、何をもって、何を軸に「普通」とするのか、これが問題になる。

なみだうさぎさんにとっての普通…、ごくありふれた、当然の、現在の当たり前の状態と、世間一般的な…、あるいはこう言い換えられる、大多数の平均的な、ごくありふれた状態は異なる。

…こう解釈して書くと、人それぞれ、違う当たり前を持っている事が、なんだかそれこそ「当たり前」の話に思えてこないか?

人と比べるのは構わないが、そんな「当たり前」から、自分を責めるのはやめようや。

なみだうさぎさんの頑張りは頑張りだし、辛さは辛さ。
それがご自身の「当たり前」な事であって、大多数の、平均的な指標やらと比べ、低いものだと認識しても、それはそうなのだ。

平均的な指標というのは、平均でしかない。
それぞれ、テストの点数が低い高いなどという、小瓶主さんも含めた、様々なものを合わせて、割った数でしかない。

そんなものに惑わされるな。

気持ちを奮い立たせたいから、あえてそうしようとする為に使う、というのなら良いのかもしれんがな…。

なみだうさぎさんの現実として、死にたい程に苦しい中、死にたい気持ちを抱える中では、集中力も欠けるであろうに、課題を提出しようと頑張ったり、自傷を我慢してきたり、色々やろうとしてきた。

そして辛さもあって、耐えきれなくなって、自傷をした。

これのどこが頑張っていないんだろうな?
これのどこが正常じゃないんだろうな?

真っ当な、個人の「当たり前」の感覚だろうに。

あまり思い詰め過ぎず、疲れた時は休めよ。

勉強も身体を動かす事と同様に、体力がいるからな、疲れれば集中力は落ちるし、それ故に記憶というか、頭に内容が入って来にくくもなる事がある。

筋肉痛のようなものは感じないかもしれんが、筋肉のように消耗もする。
死にたい思いやら、悩む事があれば尚の事疲れるだろう。

集中力の持続する平均は大体一時間弱とも聞く。
50分起きに休憩するとか、そういうのも大事かもな。

それなりに飯を食って、一時間程勉強に打ち込んだら、時には休みがてら、気分転換に、ゲームする時間やら、何かしら好きな事、興味のある事、曲を聞く時間やらを取るのもいいかもしれん。
(小休止であれば、ちゃんとそれらを中断して、勉強を再開する事前提なので、休憩時間も決めておくとかな)

勉強方法に関していうのなら、なにか、歴史とか数学の公式とか、英単語とかを覚える際、ふざけた感じで歌にして、テキトーなメロディとリズムを付けて、歌ってみるとかもありかもしれんな。

個人的な方法なので、やってみて効果がない場合もあるかもしれんから、その時はご自身で判断してほしいが…
上手いか下手かではなく、上手かろうが下手だろうが、自分が楽しいかどうかでやってみると、割と覚えやすい気もする。

(覚えやすいコツというか、そういうのも人それぞれあるだろうし、興味というのも割と覚えやすさや、記憶の引き出しやすさに関わっているような気がする。好きな歌とかを何度も聞いたり、何度も歌っていると、題名が思い出せなくてもメロディやリズムや歌詞を覚えていたり、いざ曲が流れればうろ覚えでも少しずつ思い出して歌えたりするし)

なみだうさぎさんは、ちゃんと、自分の見える範囲の事を、頑張ろうとしているし、それなりに考えてもおられるように感じる。

あまり追い詰めるというか、思い詰めるようになって欲しくはないが…
普通…というか、平均より上に行きたいとか、自傷を少なくしていきたいという目標あればこそ、ちゃんと休みつつ、ご自身のペースで、これからも頑張ってほしい。
・・・小瓶の中の手紙を読む

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