日本は
死…について
考えないように
させられて
いるのかな?
死…について
普段の生活から
遠ざけられて
いるような
感覚がある
気がする。
それこそ、
友人や家族、親戚の
訃報や葬式などで
やっと
死があること
失うこと
…など考える。
それも
過ぎてしまうと
忘れるのだけど…
また、
ある方が
言っていたのだけど、
「死んだらどうなるか?
…について
正しいことを
教えられてない」
と。
言われてみれば
たしかにそうで…
学校で習わない?
また
諸説、諸宗教、
入り乱れ、
何が真実なのか
わからない状態に
あるような気がする。
それぞれが
それぞれの
世界観や
解釈を持って
語られ、
それが本当だと
豪語までされる…
よくよく考えると
他人からの
伝聞情報が多い。
本当はどうなのか
確かめた…とまでは
行ってないらしい…
アノ有名な方が
言ってたから
間違いない!
…と信じるのも
よいようだけど…
それはどうなの?
一体
どういうこと
なのだろう?
死にたいと
思うのは
自由だし、
そう思うことは
多々ある。
けれど、
死んだら
おしまい…と
思考停止せずに、
死んだらどうなるか?
また、
諸説、諸宗教や
各種情報を
確認し、本当かどうか?
…の情報を
調べてみるなど
してみたら
どうだろうか?
そして
その情報は
確かだろうか?
本を読んだり
ネットで調べたり
…などなどね…
それこそ
宗教の原典を
観に行くとかまで
したりとかね。
名前のない小瓶
103032通目の宛名のないメール
この小瓶にお返事をする
誰でも無料でお返事をすることが出来ます。
お返事がもらえると小瓶主さんはすごくうれしいと思います
お返事が届いています
ななしさん
死んだらどうなるかは、誰にも解り得ないと思います。
臨死体験はあるでしょうけど、それは死ではないでしょう。
死が日常から遠ざけられてるのは、私も感じます。
優しい宛メの闇がプロフに
日本は宗教に疎いから死について考える機会も少ない。
というか むしろ葬式だけ まともに やるのは
まさに「死」に ついて考えさせない為だ。
死生観を語るのは一種の哲学のようなモノだと思っているが
自分は悩んだ末に一種の答えを出している。
「無」だ。
ただの無だ。
いま ここに一台のスマホがある。
画面、バッテリ、メモリー、カメラ、
CPU、スピーカー、基盤その他......
の本体に加えて
OSとデータというソフトを加えることで
スマホは自分を認識し処理を実行して稼働し
世界に存在することが出来る。
もしも、
データを消去して、部品を全て分解し
ただの素材となったら。
それはスマホと言えない、無だ。
人間も同じだ。
人体あるところに
脳あり記憶あり自我が あり。
これが死んで焼かれた後は
灰と煙に なって空気中に散逸する。
もちろん人間と言えない、無だ。
どうだろう、スマホも人間も
あんまり違いないだろう?
......って事を本気で考えて欲しい。
感想は......聞くまでも無いな?
困ったことに
無は無ゆえに証明が効きにくい。
「無いモノの証明は出来ない」って やつ。
死後の世界も同じだ、証明する方法が無い。
実感が出来ない事を信じろと言うのは酷だろうな。
どれを信じるかは個々人の価値観に お任せするしか無かろう。
尤も自分は「無」という答えに辿り着いてしまったがな。
リトルビュート
宗教的な話になってしまうのですが、神道では死は不浄なものと考えられていて、その感覚が今の日本人に根強く残っているそうです。(これも伝聞ですね…)
この小瓶にお返事をする
誰でも無料でお返事をすることが出来ます。
お返事がもらえると小瓶主さんはすごくうれしいと思います
以下はまだお返事がない小瓶です。
お返事をしていただけると小瓶主さんはとてもうれしいと思います。