人に対して寛容になれないことが苦しい。
人の弱音を聞いたとき「それくらいのことで」とか「こういう風にすればいいのに」といった否定的な考えがぱっと浮かんでしまうのが怖くて仕方がない。
人並み程度とはいえ辛い体験もしてきて、他人にそういったことを言われるとどれほど心が痛むのか少しは想像できるつもりでいる。
いや、むしろ、自分は辛い目にあってきたという思いが必要以上に強すぎて、嫌になるのだ。
悩みに大きいも小さいもなくて、その人の気持ちはその人だけのものなのだから、その人にとって今辛いことならそれは内容関係なく「世界一辛い」で良いと考えている。
考えているのに、勝手に自分のことを引き合いに出して自分の物差しで比べては「それくらいで」と思ってしまう心が怖い。
妬んでいるのかもしれない、と思う。自分もこういう風に気軽に頼れたらよかったのに、といった、今目の前の相手にぶつけても仕方がない妬み。
わたしが苦しかったこと自体はわたしが認めてやる。苦しみに大小はないという信条も、そうしたいためにたどり着いた考えだ。しかし、弱音を吐いたり人に頼ったり出来なかったのは単にわたしの弱さだ。情け無い。
情け無い、と書いてから、これでは弱さを出せない人の苦しみを認めてやれないな、と気づく。自分を縛るつもりでどんどん不寛容になってしまう。癖になってなかなか抜けなかった自虐も、人を傷つけると思うと出来なくなって、それはやめられたわけではなく単に表に出せなくなっただけで、余計にきつい。
わたしはすべてゆるしたいのに、どんどん許せないことばかり増えて がんじがらめで苦しい。
わたしが辛かったとき、この人ならこんな気持ちもきっとわかってくれている、忘れないように大人になってこういう大人になりたい、って憧れられる人がいた、でもやり過ごして二十歳になるだけではそんな大人にはなれなかった、
わたしは幸せになりたいはずなのに、幸せなあんたにはわかんないだろうってあちこち睨むつもりで生き延びてきてしまったから、あちら側(ってなんなんだ?)になってしまうのが嫌だとかどこかで思っている。いつまでこんな子どもみたいなままなのだろう。
人をゆるすには自分をゆるさなくてはならないのだろうか。だとすればとても難しく感じる。