蝉の音が、ぶぃんぶぃんと翅を震わせながら
緑を揺らす。
陽の光はじりりとあたしの肌を焦す。
夏は動いている。
夏は終わりへ向けて動いている。
オリンピックに、甲子園に、夏まつりに、どうして人びとは夏を刻もうとするのだろう。みな、時間の感覚が愛しいのか。あるいは少しずつ、たっぷりと与えられた水が減って、枯れていく感覚が心地良いのか。
世の無常を慈しむ感情は太古の昔から変わらない。
そして、動を求めるがゆえにわれわれは静に沈む。徒然なるままに、日暮し。
ところが今年はめずらしく、動の夏だった。
それは受験生という立場の宿命のようなもの。仕方がない。
蝉に想いを馳せるというより、生き急ぎ翅を震わす蝉かれらのようだったと振り返る。
まだ、死にたくない。終わりたくない。
そんなことを蝉に投影するのはあたしのエゴか。
あたしのこころは、恐怖が支配している。
時が動いていくのが、ただおそろしい。
ヒグラシの啼く声は昔から大好きなのだけれど、今年はそれさえおそろしい。
うつくしいものに心を動かす余裕もないのなら、石のように静かに坐っていられたらどんなに楽か。
次第に、動いていくものを思うと、死を連想するようになった。
何に絶望しているのかも判らず、何となく、脈略もなく思う。大丈夫。今のところ、そんな願望も気力もない。
流されるように夏が終わる。
来年の夏、その絶え間ない脈動を、あたりまえの日本人のように、無邪気に愛せたらいいなと思う。