生きている意味について。
ふと思った。
生きている意味があるのかどうかは分からないけど、
生きている意味はあった方がいい。
本当にあるのかどうかは知らないけど、あってほしいと思う。
意味なんて無いかもしれないから怖い。
そもそも『生きている意味があるのか』論そのものが、
それがあって欲しいという願いとイコールなはず。
意味は無いって語る人もいる。
辛い目にあってそう思うようになったんだろうけど、
もし無条件で、何のデメリットも無しに
生きている意味を与えられるのなら、
きっと受け取るんじゃないだろうか。
乱暴な意見かもしれないけど。
生きている意味はあってほしいけど、本当にあるのかどうか。
感覚的な話で言うと、あると思う。
というか、あるとしか思えない事が多いんだよな。
街を歩いていても車が突っ込んでくる可能性は十分ある。
急に病気にかかって二度と目を覚まさないかもしれない。
人って簡単に死んでしまう。
でもまだ生きているんだ、私は。
運命や神様を信じている訳じゃない。
むしろクソッタレって思っているよ。
でも自分の今が絶好調ってわけじゃない。
むしろどっちかというと行き詰っている感すらある。
上手くいかなくて泣きそうになっても、
落ち着いて思い返してみると、いくつかの分岐点で
もっと最悪の選択肢があった事に気づく。
もっと酷い今があったかもしれないって気付く。
でも私はいまもこうしてキーボードを叩ける程度には健全で、
今日の晩飯をどうしようかなって程度には呑気だ。
最悪よりは少しマシ程度なのかも知れないし、
逆に私にとって可能な最高級の幸せなのかもしれないし、
人から見たら鼻で笑われるようなものかもしれないし、
贅沢を言い過ぎだと誰かを不快にさせているのかもしれないが、
そんな殆どの偶然と、ほんの少しの必然の中で、
生きていくのは意外と大変な事な気がしていて、
1秒に一回、宝くじが当たるような確率で死んでしまうような、
そんなサイコロを回し続けているような気がしている。
そしてそれを未だ続けていられるのは、
結構すごい事なんじゃないかって。
さすがに二十何年生きてきたら
もう会わない人や、もう会えない人だっている。
もっとシャキッと生きろ、理不尽だと怒られるかもしれないな。
例えそれを望まない人がいるとしても、
まだ生きているし、生きていたいんだ、私は。
居なくなる事に意味なんてないかも知れない。
でも、居た事には必ず意味があるだろう。
だって私はまだ覚えている。
良い事も悪い事もまだ覚えている。
その思い出のお蔭で、
私が最悪中の最悪の選択肢を選ばなかったのかもしれないし、
別にそんなの関係ないのかもしれないけど。
私もいつか居なくなるけど、『居た事』は嘘じゃない。
この世界で生きていく為に、誰とも出会わないなんて
あり得ないのだから、必ず『居た事』は残せるはず。
意味。
生きている意味があるとして、
形があるわけでもや値札がついている訳じゃない、
そんな気がする。
量子力学には観測者効果という考え方がある。
難しくてちっとも理解できていないのだけど、
ミクロよりもっと小さいの世界では、全ては確率で表される。
だから、実験するまで結果は決まっていなくて、
実験して観察した瞬間に結果が決まる、ということらしい。
本職の人に怒られそうだけど。
これをものすごく曲解すると、ある意味人間って全てを決められるんじゃないか。
気付いた時から全てを始める事が出来るなら、
どんな『意味』も、それに気付くまで存在しなくて、
人間が意味を問う事で、それは『意味』を持つのではないか。
だから、やっぱり人間が『生きている意味』はある。
それを人間が問い続ける限り、やっぱりあるんだよ。
結局分からないままだなぁ、って思っていたら、休日も終わってしまう。
そろそろ買い物に行かなくちゃいけないなって思う。
結局生きている意味ってなんなのだろう?
分からないまままた月曜日になるのだろうね。
最後に、私の好きな言葉を引用してこの長々とした迷子の文章を終える事にする。
私やみんなにとっての『ロックミュージック』。
早く見つかるといいな。
『君がそこにいる価値はきっとあるんだ。それを見つけるのが生きるってことだよ。
僕はロックミュージックにそれを見つけたんだ。』
47058通目の宛名のないメール
お返事が届いています
ななしさん
良い例えだと思います。
もし、この世界にハイゼンベルクと量子力学が生まれず、アインシュタインの相対性理論だけだったら、きっと生きる意味が有ったんだと思う。
全てが何らかの拘りによって動き、その結果も過程もある程度予想出来るから、人間が生まれ育ち死ぬまでが予想出来る。
その過程の中で自分という存在を、相対的に確認して努力した者は必ず成功すると信じて生きて行ける。
しかし、量子力学の確率論から見出せる事は確認は死んだ時であり、過程は確率で判断するから半死半生や、「私が月を見ていない時には月は存在しない。」という事になる。
私達の生きる意味がぼやけてしまい、幸せも不幸も確率だとしたら何の意味が有るのだろう。
どんなに努力しても成功するのは確率だとしたら、生きる意味や努力する意味は無くなってしまう。
でも、現実は量子力学だから確率論なんだよね、本当にやり切れない。
私は生きる事に意味など無く、確率論で人間に生まれただけで、アステロイドベルトの塵と同じく、原子の確率のみの多くの存在の中の一つで有る。
そんな小さな存在でありながら、精一杯頑張っても不安定なサイコロに振り回され、イレギュラーな確率は天文学的数字でしか出ないから、皆と大差の無い死を迎える。
地球が誕生して、名も無き人々が無数に生まれ死んだ事は、生きる意味は慣性の法則かエネルギー保存の法則でしか無い様な気がするんだ。
冬
なんとなくわかるよ。気付いた時に意味がそこに立ち現れるって感じかな。
私はここには遊びに来た、そしてそのうち還る説を多分取りたいんだ。
だから今現在の自分を否定するゲームをやってるんだ説も肯定的なの。
必死になって生きなきゃも、必死になって死にたいも、それもアリなんだと思うの。アリなんだと思ったらなんだか笑える。(バカにしてるんじゃないのよ、自分がそれを肯定してるって俯瞰して、客観視して見たら、なんか力抜けてなんだあってなる、あの感じ)
なんでもアリなんだよなーって思ったら、無理しないで、自分に優しくなって、いい加減になって、取り敢えず『遊べば』いいんじゃんってトコに落ち着くのさ〜。
ななしさん
「生きていいのか」って事は生きているからこそ考えられる事であり、失われたものは戻っては来られない。
だから生きている事自体が奇跡だし生きている状況の中で死ななければならないのかもと自分を思い詰めないでほしい。
何故自分は生まれたのか?と疑問に思う事は度々感じる。でも何で生まれたのかなんて神様じゃない限り誰にも分からない事だから。
それよりも「今の自分は何がしたいのか」、「何をしている時の自分が好きなのか」、「誰の役にたちたいのか」、「幸せを見つける事」とか…本当は生きている意味なんて皆違うと思うし、色々あっても良いんだから深く考えなくても良いんじゃないのだろうか。
勿論明確に答えが出ているなら素敵だけれど、今すぐに生きている意味が無いと生きていちゃ駄目だとは思わない。それは社会を出たり好きな事を探したりしながら見つけたり、これが自分にとっての幸せとかなのかなとか感じていくと思うから、だから、皆頑張って生きていこうよ!
以下はまだお返事がない小瓶です。
お返事をしていただけると小瓶主さんはとてもうれしいと思います。