名前のない小瓶
『辛い』と思えるのは、ちゃんと頷けるのは、小瓶主さん自身が『踏み留まれている』証です。つまり、どこかしら改善策は転がっているということですよ。
寄り添ってくれる周りの方々がいらっしゃるようですし、その気持ちがあるならぜったい大丈夫です。
私は学生時代に手術を受け、長い間学校に行きませんでした。たぶん、合計すると1年ほどサボっていた計算ですw
自宅療養中も、担任をはじめ最後には校長までやってきました。いたたまれませんでした…
勉強は病室でも出来ますが、激痛に耐えなければならないしリハビリはハードだし墓場まで病と付き合っていくことが確定しているので、何もかも投げ出したくなって「痛すぎる耐えられないもう死にたい」と溢したことは幾度となくあります。それを聞いた母は涙ぐんでいました。小瓶主さんと同じく、心が折れていました。母を気遣えないほどに絶望していたのです。自分のことで精一杯ですから。周りを見る余裕はとてもありませんでした。
ですが、今になって思えば、『病気から得たこと』も多かったです。最中は気付くことすら望むべくもありませんでしたので、終わった後で振り返ることができたのは僥倖でした。病気さえなければ楽に生きられたのに、と思わないこともありません。ハンデをバネにするには、並大抵の努力では足りないからです。それでも、自分が痛みを知っているからこそ以前よりも他人の痛みに寄り添えたり、ショートカットを編み出して他者の負担を減らし効率を上げられたりと、『できるようになったこと』は増えました。押しやられ気味の『健康に気を遣う』にも注意できるようになるとは、私自身思ってもみませんでしたよ。
また、学校の先生にお世話になったことを、より深く感謝できるようになりました。今までの薄っぺらなそれを知っていますから尚更です。
すぐには思いつかなくても、この山を登り終えたら小瓶主さんに見えてくるものはたくさんあるでしょう。
ともあれ、病と闘っている『今』だからこそ出来ることはたくさんあります。現に、ここへ書き込みできているのですから。
先人としては、この際にたくさん本を読むことを推したいです。喜劇、悲劇、何でも良いのです。身体が不自由だからこそ、そういった感覚は鋭敏になっているように思います。『失った機能を補うために脳は他の感覚を発達させる』という話はよく聞きます。それと同じです。
10年後のあなたが、この2017年を振り返った時にこの毎日を惜しまない選択をされることを、画面越しに祈っています。