父は家のドアをくぐった途端に怒鳴り始める。仕事は夜遅くまで、帰宅は24時過ぎることもあるけどどんな時間でも父の怒鳴り声と部屋のドアを乱暴に閉める家の揺れで目が覚めた。
母もわたしも日々ほんの些細な理由で怒鳴られて殴られて蹴られた。わたしが風邪を引いて寝込んでいると、勝手に風邪を引いたからと怒り狂って包丁を身体に当てられたこともあった。妹は不思議と父に可愛がられた。わたしは妹を見習えと何度も何度も言われた。わたしはわたしってなんてダメなやつなんだろうと思って反省した。
共働きで母は週7日パートに出ていた。土日になると父はわたしと妹を剣道の道場へ連れていった。妹はまだ小さかったから見学という体で遊んだり眠ったりしていた。
習い事をさせてもらえるだけありがたいのかもしれないけれど、正直剣道なんてすぐ辞めてしまいたかった。試合で負けたり、恐い先生に稽古を付けてもらうのを嫌がると父は周りの目も気にせずわたしを怒鳴りつけるから嫌だった。父も先生も恐ろしくて、周りの稽古相手や父兄の視線が恥ずかしかった。夏は暑くて冬は寒くてしもやけが痛かった。何もわからず隣で快適な服を着て、おやつを食べてすやすや眠る妹が羨ましかった。
父は早朝稽古と言って、わたしに毎日朝6時からの朝練を命じた。わたしは朝が苦手だったし剣道もやりたくなかったから適当にサボっていた。ある日それがバレてわたしは学校に行く前にこっ酷く殴られて蹴られ、部屋にあった姿見が割れておでこを切った。わたしが悪かったなと泣きながら反省した。
ある時わたしは試合で二回戦負けした。その次の日の日曜日、父はわたしを大きなグラウンドに連れていった。野球の練習をしている球団ややアスレチックで遊ぶ子たちがたくさんいた。グラウンドを10周素振りしながら回らないと家に帰さないと父はいった。わたしは剣道が嫌いだしなぜこんな恥ずかしいことをたった一人でしなければならないんだろうと思ったけど、殴られるのが怖くて仕方なく素振りをした。グラウンドは普通に走って回っても広くて、夕方までかかって素振りを終えた。素振りをする間にピクニックの人たちや野球の人たちがわたしをジロジロ見た。消えてしまいたかった。わたしが試合で負けたからいけないんだ。
ある土曜日の昼ごろ、父と妹はテーブルについていた。わたしは椅子に座ることを許されずに床で正座していろと言われた。父と妹はわたしの目の前で昼ごはんを食べた。わたしはその間父にスリッパで頭をはたかれていた。わたしが何をしたからこんなことされるんだろう、でも怒られてるんだから私が悪いんだろうと一人納得した。ご飯は食べられなかった。
パートから帰ってきた母は換気扇の下でタバコを吸いながら、わたしが小さい声で言うその話を聞いた。なんてかわいそうに。母はそれだけ言った。疲れた、遠い目をしていた。夕食は家族四人で食べた。父は味付けが薄いと言って怒り狂い、母は身体に気を遣っているのにとくってかかりいつもの様に母は殴られた。
わたしは荷物をまとめて妹の手を引き、暴力と悲鳴と怒声が響き渡る家のドアをそっと開けて家を出た。妹は幼稚園の年中、わたしは小学校二年生だった。これが初めての家出だった。その後駅前でうっかり交番の前を通りかかって保護されてしまい自宅へ強制送還された。父は、もう喧嘩なんかしないからね、いつもあんなことしてごめんねと口にした。わたしは何だか申し訳ない気持ちになった。親を謝らせるなんて、それに警察にも捕まったしわたしは本当に良くないことをしたんだと内心で自分を責めた。母もわたしたちを抱きしめて愛してるよと泣いた。もうお父さんとお母さんは喧嘩しなくなるんだなとうれしく思った。
わたしは高校一年生になった。入学した高校はわたしには合わなかった。友達はいたけれど、クラス違いだったからわたしはいつも一人で過ごした。それなら友達は学校を休みがちだった。一人で過ごすのは嫌いじゃなかったけど、中学の時は沢山友達がいたから本当は仲間とワイワイ遊びたかった。
父は相変わらずわたしと母を怒鳴って殴った蹴っていたし、妹だけを可愛がった。家にいても怯え疲れるからと学校の自習室で夜七時まで勉強した。ある日夜の自習室にやってきた先生がわたしを見つけると、一年生でしょ?三年生の受験勉強の邪魔だからもう帰りなさいと言った。自習室は席に余裕があった。でもなにかがフッと消えてしまった気がした。わたしの居場所は無くなってしまったような気がした。
冬の雨の夜、その日はクリスマスだった。いつものように家で父と母は怒鳴り、怒鳴りながらもクリスマスのチーズフォンデュはテーブルに載っていた。わたしはクリスマスが好きだった。お正月も、そういう行事が好きだった。家族行事に怒鳴り声はセットだった。
チーズフォンデュの小鍋や皿を父は投げつけた。母も怒鳴りながら抵抗した。妹は気丈に止めて!と仲裁に入った。
わたしはいつのまにか父の胸ぐらを掴んで押し倒していた。わたしを殴りながら父は喚いていた。わたしは渾身の力で父親を押さえつけた。殺してしまっても正当防衛のような気がした。母は父を指してきゃー人殺しー!などとアホのようなことを叫んでいた。妹は泣いていた。
わたしは家を飛び出した。引っ越した関係で友達の家は隣の市にあった。みんな家族円満な家庭だった。我が家もそうだと思っていたけど、これはもう違うよね。
半袖に上下ジャージ、誰にも捕まらないように急いで出てきたから裸足に健康サンダルで雨の中を泣きながら歩いた。傘は持ってなかった。行くあてもなかった。何も持ってなくて、時間は夜中の10時だった。
道を通る人たちが泣きながらびしょ濡れで歩くわたしを遠慮なく訝しげにジロジロ見た。どうでもいいと思った。わたしはあんたたちの対岸の火事だよ、と思った。どうしてわたしがアンタらじゃないんだろう、暖かそうな服を着て、楽しそうで、と思った。
わたしは結局また隣の市の警察に保護された。警察は迎えに来たわたしの親に怒った。こんな薄着で飛び出す子の気持ちを考えてやれと言った。家の近所から通報されて家にはパトカーも来たらしかった。
警察はあなたをここに拘束する権利がないから、家に帰りたくなければあなたがかえりたくないと言わなきゃいけないよと警察の人に言われた気がする。定かじゃないけれど、でもわたしは家に帰った。まだ家族の形があると信じてたのかもしれない。
その後父母は離婚して、わたしと妹は母について出ていった。DV離婚調停の時の弁護士は、これがお父さんの愛情表現なのよ、高校まで出してもらえてるんだからあなたはもう少し有難がってもいいと思うけどと言った。たしかにそうかもしれないけど、聞く耳を持てる時期ではなかったし、今でもあれはどうかと思う。
今わたしは社会人として暮らしているけど、過去のことが要因になって精神障害を抱えてしまった。 精神障害者への差別は一番酷いと聞いているので、自分がとても面倒くさく嫌だと思う。わたしだって明るく普通の人として生きたいし、普通の価値観で普通に恋愛したり遊んだり、人と意見を交わしたりしたい。
父はわたしに会いたいと言っているらしい。
母は、母自身と父は他人だけど、あなたはあの人の子供なんだからと無理矢理わたしを父にあわせたこともある。 わたしが一番苦しんだ時いちども助けてくれなかった母のことも、父と同じくらい許すことができないでいる。
それでも女で一つでわたしを高校卒業までさせてくれた母には感謝しないといけないような気もする。父は学費も慰謝料も払わなかった。
妹は何の障害も無く、可愛く明るい学生生活を送っている。
わたしは父を母を、自分をいつ許せるようになるのかと思うと、気が遠くなりそうだと感じている