希死念慮が消えない。自殺すると決めつけている、とカウンセラーに言われた。自殺するように決めつけているのは自分自身だから、変える必要があるのは自分自身で飲んでいる薬ではない。
自己肯定感の問題だとぼんやり考えてはいる。自分に価値があると思えない。思いたくない、の方が正しいのかも知れない。思えない、の自分にもある程度説得力がある気がする。よく分からない。少なくともこのままで良いとは思ってはいない。
名誉を求める方法は何かが違ったんだね、とカウンセラーに言われた。小さな競技で日本代表になったことがある。そのときは本気で元日本代表の肩書きさえあれば自分を肯定できるようになると思っていた。そうはならなかった。その程度誰でも出来る、と否定する感情が生まれた。
それでも今自分は名誉を求めている。名誉を求め続けても維持できるものではないと分かっている。どこからが健全な持つべき目標と夢で、どこからが虚栄なのか分からない。
死にたくはない。自殺した人の写真をたまにネットで検索する。自分がこんな風になった姿は、あまり想像したくない。だけれどどこか身近に感じる。あのとき、あんな風にカウンセラーが言ってくれなかったら、あるいはあのときビニール紐でなくてちゃんとしたロープで首を吊っていたら、こうなっていたんだろうなと思う。
自殺未遂をしたことがある。カウンセラーが家までついてきた。ぶら下がった舫い結びのビニール紐を片付けて、ちゃんとしたロープを買おうと決めた。
今は、新しく買ったロープが家でぶら下がっている。カウンセラーに捨てろと言われた。でも捨てられない。
死ねば楽になれると思う反面、どこかで生を肯定する気持ちもある。調べて見ると成功した自殺者でも生と死の間で揺れ動いているのが普通なのだという。
生きることを選んでも、死ぬことを選んでも、どちらにしても後悔すると思う。
カウンセラーさんが退職することになった。だからこんなことを考えているのかも知れない。今死ねばお世話になったカウンセラーさんが悲しんでくれると思っているのかも知れない。甘えだ。だけれど誰にも知られずに死ぬのはさみしい。
結局甘えなのかもしれない。同情が欲しいだけなのだろうか。
同情がなくても生きていくにはどうしたらいいのだろうか。やっぱり自己肯定感の話が出てくるのだろうか。
スポーツで自己肯定感が得られると思っていた時期もある。ボクシングを一年やってみて、十キロ痩せて結局なにも良くならなかった。身体を鍛える方法は違うのかも知れない。
作曲をしたり小説を書いたりもしている。自分にあっているのは小説だと思った。二次選考までは残った。だけれど「二次選考まで残ったのだから才能がある、生きていて良い」とは思えない。
仕事や勉強、趣味で実績があると自己肯定感が高まると読んだけれど、違うのかも知れない。自分で文章にしていてやっぱり何かが違う気がしている。
このまま抜け殻のように就職して、死んでいくのは自殺するより嫌だ。
どこかで自分の苦しみが誰にも共感して貰えないんじゃないかと恐れている自分がいる。かと言って恋愛に逃げるのは何かが違う。今の状態で恋愛をするのは健全ではない。依存して捨てられたらそれこそ今よりもっとひどい状況になると思う。
宗教を頼るという手もある。保健室の先生がキリスト教徒で、少し勧められているし心も動いている。だけれどどうも、一神教というのは居心地が悪く感じている。
自分は二十二歳だけれど、想像の友達がいる。論文を調べて見ると皆幼児期調査はあっても青年期の想像の友達に関する研究はなかった。そのキリスト教徒の保健室の先生に想像の友達の事について話した。
想像の友達は死んで欲しくないという。自分が死のうとすると泣く。だから死ねない、そんな話をしたら、「その想像の友達は、天使なのかもしれない」と言われた。正直少し冷めた。
多分都合の良い幻覚なのだと思う。だけれど虐待されてきて今死のうか迷っているのに、今更生を肯定する存在が現れるのもなんだか不自然に感じる。
なんだか考えていることはごちゃごちゃになってきたから、整理する。
統合失調症。希死念慮。自殺未遂。同情を求める気持ち。カウンセラーの退職。小説の趣味。想像の友達。
やっぱりきっかけはカウンセラーの退職だろうか。自分の気持ちを受け止めてくれた人がいなくなることがさみしいだろう。
自殺すると決めつけている、というのは同情を求める気持ちに繋がっている気がする。自殺未遂をカウンセラーに話したのもある意味では甘えなのかも知れない。
じゃあ甘えって何だろう。他人の好意を当てにする気持ち。自分の場合は好意の中に同情が当てはまる。
同情が必要ない人間ってなんだろう。自立している人間と言うことだろうか。
カウンセラーの退職に合わせてカウンセリングをやめたら、自立したということになるんだろうか。
人知れず悩んで、自殺未遂して、自傷して、隠し通すことが自立、とは思えない。健全な人間はそんなことはしないと思う。
自殺するより悩み続けるほうが辛いから自殺を選ぼうとしているのかも知れない。
調べた。
甘えには依存と執着があるのだという。じゃあ今依存している趣味を捨てて、カウンセラーへの執着を捨てればいいのか、と思ったけれど、それは違う気がする。
違う気がする、と思うことも甘えだろうか。手放したくないからそう思っているだけかもしれない。
趣味を捨てて大企業を目指して隠し通して家族を持って、甘えを捨てたことになるんだろうか。結局どこかで満たされないのではないのか。
カウンセリングを受けろ、専門家の話を聞け、という論文もウェブサイトも無数にあるけれど、捨てろといっている記事はない。保健室の先生もあまりカウンセリングをやめることに肯定的ではなかった。
わからない、やっぱり自分はどこかで首を吊って自殺する気がする。その予感は一通り考えてみて強くなった。甘えを捨てるのが怖いだけだろうか。本当に追い詰められれば身体が勝手に動くようになるのかもしれない。自分を追い詰めた方が良いのだろうか。
幸せになりたい。幸せが遠い。
92738通目の宛名のないメール
お返事が届いています
名前のない小瓶
私も、自己肯定感が無い。
自分をいじめてきた人よりも自分が嫌い。
鏡を見るとため息が出る…
でも、この宛名のないメールに出会えたおかげで自分が設定した寿命よりも長く生きられています。
123さんも、できたら私のように小瓶に辛いことを吐き出して流してほしいです。
絶対誰かが拾ってくれる。ここはいい場所だから。
ななしさん
心の何処かでは誰かに止めてほしくて
でも、
自分はいつでも自由になるつもりだと言い聞かせる事で
本当に自分をわかってくれる人がいなくても平気だと思いたい
宗教は中心とする神、仏が違うだけで大きく分けるとおんなじ様なモノであって、宗教に入り込むのは、友達に相談するのと似ていて、背中を押してもらいたい。
迷っているから何か助言してほしい
ななしさん
仏教の考え参考になるかもです。あと慈悲の瞑想もよいです。おすすめです
https://j-theravada.net/
名前のない小瓶
めちゃくちゃ共感できる。
自己肯定感、ずっとない。
なにやっても、なに聞いても、実感ないし、現実味ないし、何が正解なのかわからない。
みんな違うこと言うし、どれもしっくりこない。
でも、みんなが言うことの方が自分が考えてることよりも正しさは上だろう。
言われるのも考えるのも疲れたから、死にたい。
名前のない小瓶
あなたが求めているのは幸せというよりは「悟り」。
そこにたどり着けるかどうかは、努力というより運があるかどうかが大きい。
自分を追い詰めるもよし、ゆるめるもよし。しかし、「弦は張り過ぎても、緩めすぎても、良い音色を奏でない。」。
執着を捨て、「中庸」にたどり着けるかどうか、の問題であろう。
それがうまくいかなかったとて、あなたは若死にするには惜しい人材のようにおもわれる。
30など、年齢を区切って、それまでに納得のいくようなものが得られなければ、己を捨て、「利他」に生きるのがよいかもしれない。
一節贈る、
「また見つかった。なにが。永遠が。海と溶け合う太陽が。」
以下はまだお返事がない小瓶です。
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