あれをやる。これをやる。
あれをやればこっちが出てきて、これをやればあっちが出てくる。
人生こんな事ばかりで嫌になる。
率先して物事を抱えめる人の気がしれない。
凄いよね。みんな。
自分なんかどれだけ自分の人生から物を削ぎ落とせるかばかり考えているのに
こっちを削ぎ落とせばあっちとのバランスが悪くなり、あっちを削ぎ落とせばこっちのバランスが悪くなる。
結局人間関係も切れるものは片っぱしから切って行くのだけれども、結局切ったそばから他の人間関係がまた目障りになってきて関係を断っていく。
今じゃすっかりラインの連絡先も綺麗になってきて、最初はこんな人間関係を切り続けてたらそのうち寂しくならないかなと思っていたけれど、これが全くの逆で一人になればなるほどなんだか色々なしがらみや演じてきた自分を捨て去ることができてどんどん楽になって行く。
でもね。人間どうしてもどうしても切れない縁が一つだけある。
家族。
こればっかしは本当に中々どうして断つ事ができない。
独り立ちとか、色々と物理的な距離を離す方法はあるけれども結局それは物理的な距離が開いただけで色々な厄介事が無くなる訳じゃない。
社会活動する上で結局親の世話にならないといけない事が多々あるし、人生の至るところで自分の出自だのなんだのっていうのを問われる機会も多々ある。
極めつけは、やっぱり親が死んだときの事。
これがまだ起きていないだけに、いつか起こると思うと悲しくて寂しくて仕方がなくなる。
だからなのか分からないけど、そういう事を考えると自分が先に死んでしまいたいと考えたりもする。
親不孝者とかって聞こえてきそうだけど、そういう精神論的なものじゃなくて自分のは一種の心理的防衛なような気がする。
自分が歩く道の先で必ず悲しい事が起こる事が分かっていて、それが不可避だとわかっているのならとれる最善手は歩くのをやめる事。ちがう?
人生をできるだけ軽く軽く、不確定要素は排除できるだけ排除して自分の身一つだけであとは何もイレギュラーが起こりえない全てが予定調和な人生を歩みたいと願っている自分には、最終的にこの人間本来の部分がどうしても邪魔になるんです。
そういう事考えていると、やっぱり死ぬ事って何か一種の救済のようにすら思えてくる。
死んだ後はもう何も残りはしない。逆に言えばもう何も変わりはしない。闘争の終わり、抵抗の終わり。本来あるべきエントロピーの拡散に従って、無秩序になってそれで終わり。
毎日毎日、苦しんで苦しんでどうにか自分の散逸構造が崩れないように崩れないようにとやっているのが馬鹿みたい。
自分が求める絶対の普遍みたいな概念はもしかすると死んだ後に来るのかもしれない。
こんな事ばかり毎日考えている人間だから、たまにすごく疲れる。嘘、毎日疲れる。
だからもう本当に、できれば消えたい。
一番の普遍ってなんだか知ってますか?
それは生まれてこないこと。自分にとって一番の願いは、できれば神様か凄い科学者にお願いして自分の存在が存在したその事実自体をこの瞬間抹消して欲しいという事。
消えたいんだ。ただもう全部無かった事にして欲しいんだ。
どこに行くのかはもう知ってる。そしてそれには何の意味もない事も知ってる。
ならもうそもそも行かなくていいじゃないかって……そう思ってしまうんだよね。
ななしさん
あなたと同じようなことを考えたことがあります。
そして、自分の考えを端的にこうして書き起こすことができるあなたの能力にただ感心しました。私は考えただけで、わかりやすい言葉にはできなかったので。
不確定要素のない人生を目指すこと、とても理想的で、チャレンジしがいのある目標ですよね。死ぬまでの暇つぶしにはもってこいだと思います。
ところで、「家族が死ぬ」ということ、それは本当に不確定要素でしょうか。生物は必ずいつか死ぬ、それがわかっているならもしかして確定要素として数えることができたりして。「死ぬことは悲しい」のも、もしかして確定事項ではないのかもしれない。
「死んだあとは何も残らない」、それも本当にあなたの人生のゴールとして設定するに値する確定要素でしょうか。唯物論は数多ある死生観のひとつでしかなく、私が知る限りですが死後にまだ存続を見出す思想もたくさんあります。
結論に辿り着くのって、難しくもあり、楽しくもありますよね。