わたしは愛されたかったです。
母と父とに愛してほしかったです。
アダルトチルドレンという状態をご存知でしょうか? わたしはそれなんです。
罵倒を受けて育ちました。叩かれて育ちました。体だけ育ちました。子供の時に身につけるべき他者への愛着が、身につかないまま、体だけ大人になりました。
わたしは人を愛することができません。だって、愛されたことがないからです。愛を実感したことが無いからです。
文字の上では、知っています。物語や、他者の口から語られる愛が、どのような形なのかは、知っています。解ります。
わたしはそれをなぞる事は出来ます。憧れて、心打たれ、胸が苦しくなります。
でもどうしても、わたしはそれを手に入れることは出来ない。自分への愛を感じることが出来ない。
わたしは人を信じることが出来ません。好きになることも愛することも出来ません。わたしも自分自身を愛せません。いまそれが苦しくてならない。
誰も愛せないのに、ひとりは寂しいんです。寂しいから、愛してもらいたいのに、わたしは愛を信じることが出来ないんです。
もうこれ以上孤独と向き合えそうにありません。独りであることが苦しくてたまらない。心の繋がりを求めているのに、怖くて、自分自身でそれを拒絶してしまうんです。
だってお母さんもお父さんもわたしを大切にしてくれなかったのに、どうして赤の他人がわたしを大切にしてくれるだなんて、思えるでしょうか。
結婚もできないし、子供も持てません。愛しているふりは出来るかもしれないけれど、もし夫も子供も愛することが出来なかったらと思うと。私自身が、両親と同じひどいことを、大切にしなくてはいけない人達にしてしまうと思うと。
それがその人たちの人生をめちゃくちゃにしてしまうことを知っているからこそ、とりあえずやってみるだなんて軽はずみなことは出来ないんです。
どうすればいいのでしょうか。どうすれば、わたしは解放されるんでしょうか。どうしたら楽に息が出来るようになるんでしょうか。どうしたら、未来に希望が持てるんでしょうか。
もうただただ毎日、なんのために眠って起きて食べるのか、その意味すらわからなくなってしまいました。
ななしさん
「せめて、愛に似たものでも」
ないよりはずっといい、という精神分析家・木田恵子さんの言葉です。
「歳をとってから外国語を学んだ人のように、(彼らは)愛の言葉をなまりなしではしゃべれないのだ」
けれども、その第二言語は十分に機能しうると、ブルース・D.ペリーという心理学者は著作の中で実例を元に述べています。
希望があるとすれば、愛することができている人からその所作を学び、実践して行くことだと思います。
とりわけ、自分に対して。
優しくする、安心させる、小さな事でも褒める、楽しませる…。
愛は気持ちですが、伝えるには行動が必要です。
最初は不器用でも構いません。
赤ちゃんが愛されていると感じるのは、優しい手と声で何百回、何千回と世話をされることからです。
あなたが眠ったり食べたりする時、同時にそのやり直しの機会も得ているのです。
「おいしいね」
「今日も頑張ったね、ゆっくり休もうね」
そういった一言を、できるだけ優しく添えることから始めてみて下さい。
怯えているなら、大丈夫と。
寂しいなら、そばにいるからねと。
少し時間はかかりますが、心の穴は塞がって来ます。