金があったら幸せか?
どうだろうか?
欲しかったモノや
買いたかったモノや
行きたかった場所や
身に付けたかったモノや
支配したかった会社や
会いたかったヒトや
…etc
…色々な欲望を
消し去り、
「しあわせ」
…という状態に
なれる
…とお思いだろうか?
だが…
それは
本当に
「しあわせ」
だろうか?
「しあわせ」
たり得ると言えるだろうか?
どうだろうか?
ある人は言った。
お金持ちでも
幸せでない人がいる…と
まさかと思うだろう。
だが、そのまさかのようだ。
「カネ」という
「モノ」があるだけ。
「モノ」に囲まれただけ。
「モノ」の管理に疲弊した。
虚飾でしかないと…
…いう人も居るには居るらしい。
どうだろう?
人によっては
「カネ」という
「モノ」があることにより
豊かになり
気持ちも満たされて
平穏な日常が
来た。
…だから幸せだと
言う方も
いらっしゃるようだが…
それはそれで…
よかったね。
おめでとさん。
だ。
以上。笑っておしまい。
ある本にあった…
人はいつも
やりたいことを
している。
…と。
屁理屈っぽく
見えたのだが
考えてみると
合っている
のかもしれない。
…おかしな話だな…
そんな
おかしな話に
満ち溢れている
世の中…
ですが…
意味なく問うなら…
どうなんですか?
楽しいですか?
嬉しいですか?
…みたいな…
ななしさん
主さん、お釈迦様のようなことを言いますね。彼もそうだったようですよ。彼は苦行の末に、ある女性からお粥を頂いたことで悟りをひらいたとか。
今まで私も、かなりの欲に振り回されて生きてきました。でも、結局は「くだらない、つまんねー」で終わっていた…。
なぜか?『自分を愛して、自分が本当に望んだことをやっていなかった』から。特に自分を愛せていなかったんです。
たとえば私が、石ころをもらったとしても…嬉しくない(笑)
でも、石が大好きな人から見れば、それはすんごい石だと喜ぶのかもしれない。
「大好き」って、大人になるうちに無意識に押さえつけちゃうと思うんです。自分が「大好き」って言えるのは、自分が好きなものをわかっているから。自分を愛して理解できているから。
これがワンセットになることで、幸せを感じれるんじゃないかなって、私は思います。…お釈迦様は自ら「苦」行をしていた。自分を愛せていなかった。だから、お粥(当時は高価なもの)を食べて、「あ!自分を愛せてなかったんだ」と悟ったのかもしれません。実は無宗教なんで、自己解釈f(^_^;ごめんなさい。