都合のいい強さだけを見て欲しくて、
惹かれて欲しくて、
それで、都合のいい弱さだけを見せて、
慰めてほしいんだ。
現時点で出来もしないことを
演技で取り繕って、それを褒めて欲しくて、
そうやって自分の過去の惨めさを
払拭したがっている。
それが、自分自身の完全否定であるとも
わからないで。
それで、その本当の
惨めさ愚かさ哀れさから目を背けて、
私は私自身の作り出した
見せかけの弱さを罵倒しながら溺愛する。
それってそこまで苦しくなくて、
でも少し苦しい。
だって、本当じゃないし、
自分だって薄々気付いているから。
口汚く罵って
他人の慰めを誘発しようとする。
その見せかけの弱さはもしかすれば、
自分の演じたい事柄の
弱き面なのかもしれない。
マイナスな事柄でも、周りから見たら
私はその演じたい事柄に囚われているように
見えるから、とか。
そんなの錯覚で、執着しているのは
こちら側なのにね。
本当の弱さというものを見破られることが
心底不快に思ってしまうんだよ。
それを、見破られてしまいそうになったら、
私の都合のいい面だけ見せられなくなったら
逃走するんだ。
「ちがう!こんなのあたしじゃないのに!
でも、あなたはこれに気づいたら
誤解し始めてしまう、その前に逃げないと!」
って。
弁解しようもない自分の本質、真実なのに、
だからこそ
それを知られることをとても怖がる。
どうしてそんなに怖がるのって。
他人の解釈を極端に恐れるから。
他者に少しでも
マイナスイメージを持たれるのが
苦痛で耐えられないんだ。
だから友達もいない。
一瞬でも否定的で無関心な態度を取られると
足がすくむ。いや、勝手に、
次の教室に向かって足速に歩き出すんだ。
ああだめか、仕方がないな
って。
他人を責めるのはお門違いだ
私に魅力がないんだ
って。
お門違いなのはあなたの認知だ
というのにね。
他人はお前のことだけを考えて過ごすのか?
そんなわけ、ないのにね。
奥底で、自分が否定されて
当然だと思ってるんだ。
全ての人間が自分の本性を否定するって
思ってる。
親、クラスメイト、先生、宛メの人、
そして自分自身(超自我とでも?)も、
私を否定する。
私が私を仮に愛していたとしても
もう一人の私はそれを痛烈に否定する。
彼らに否定されるのが怖くて、
いつでもどこでも
本当じゃないことを想うんだ。
自己否定をするのは都合のいい慰めを
求めるためだと言ったけど、
他にも思ったのは、自己否定をすれば
誰にも否定されないよねってことだ。
自分自身の否定に他人は
肯定という否定をするかもしれない、
違うよって。
でもそれって嬉しいことだ。
否定という肯定をするかもしれない、
そうだねって。
でもそれってそんなに辛くはないんだ。
だから自分にまでも嘘をつく。
結局衝突が怖いんだ。
自分が一度肯定したものをもう一度
他者に、あるいは自分に
否定されるのが怖いんだ。
その矛盾を受け入れられないんだ。
いくら見てくれを変えても、
自信と展望にあふれた感じを演出して
周囲と自分を欺こうとも、
深層心理では臆病さがのぞく。
「私たちは無意識の願望を
知覚することはできないが
だからといってそれが私たちの行動に
影響を与えることを止められはしない」
英語のテストに出てきたフロイトのやつを
思い出した。
今現在私が触れることのできる最下層ですら
こんなにもカオスなのに、
一体私は何を思っているんだろうね。
怖いよ。