何となく大多数の他人は幸せそうに見える。
まぁ、実際そうなのかもしれない。
じゃあなんで、そう思ってしまうのだろう。
それは、曖昧なまま生きているからではないか。
ただ、それを成すのは難しい。
人生に目標のある人って、多分そうそういないんじゃないかな。
産み落とされて、育てられて、教育を受け、社会に出て、働き、やがて死んでいく。
そういう生き方がほぼ決まっている世界で、僕たちは生きているわけだから。
学校に行くことも働くことも、別に強制されているわけではないけど、生きていくために必要だからそうしている。
決まった型から抜け出せないんだ。
抜け出せるのは、本当にひと握りだけ。
そうすると人生が曖昧になっていく。
幸せとか、不幸せとか。
そういった価値観が曖昧になっていく。
価値観というモノサシが、自分の中にはっきり作られていない人間は、「普通」をモノサシに使う。
「容姿端麗な人間に価値がある」
「稼ぎが多ければ幸せである」
「結婚して家庭を持つことが幸せ」
「青春を謳歌することが幸せ」
残酷な「普通」と、窮屈なモノサシ。
自分の価値観を持って、自分の心が砕けないような、そんな人生に裏打ちされたようなモノサシを持って、抗えない「普通」と肩を並べて生きていこう。
常識とか、普通とか、そんなもん決まった形を成しているわけじゃあないんだから、せめて自分に並んだものを、自分に有利なモノサシで測れるようにしよう。
そういう、ある種諦めのような、小瓶でした。
皆さん本日もお疲れ様です。