子供の頃から、自分の好きなものを考える、選択する、ということをしてこなかった。
可愛いもの。好きなもの。いいもの。
それらは、自動的に、妹や、スクールカースト制度上位の子が手にできるように、自分は好きでもないものを自動的に好きと言って、手に取っていたからだ。
中学の部活も、毒祖母の、指先を使うと頭が良くなるから、という謎の理論を言うので、空気を読んで、吹奏楽部に入った。毒祖母は得意気に「ブラスバンド部」のことを「"プ"ラスバンドー部」と言っていた。
人気の楽器、可愛い楽器は、カースト制度上位の子達が当然手にしなくてはならない。私は全然人気のなさそうな楽器を選び、それを「やりたい」と言った。
進学先も、毒祖母の独断で決められた。私は県下の進学校に進める成績を持っていたが、遠くにある商業高校しか選ばせてもらえなかった。学校が遠いのに、家事もさせられた。
卒業したら、進学は駄目で、「これまで育ててやった恩返しとして、お金を入れない父親の代わりに、おめえが生活費をメインで出せ」と言われた。しかも、どういう理屈かわからないが、事務職以外は毒祖母が近所から恥をかくからと、事務職しか許されなかった。
高卒で、事務職で、家計は大変きつかった。
祖母の思惑はこうだった。
当時の田舎では、まだまだ女の子は事務職をして、
22歳頃で結婚するのが自慢できる女の子、という古い古い価値観が残っていた。
ちなみに、正月は振り袖をきて会社にいけ!と本気で毒祖母に言われた。そんなの、東京証券取引所でしかやってねえんでないの?皆の笑いもんだよ。
私は、小さいときから自分の意見がなかった。
だから、毒祖母の見栄の為の人形として、あの人の言う通りに、陰では家族のサンドバッグとして生きてきた。
………
酷い鬱を抱えながらも、初めて遠方で自由を手にして、途方に暮れてしまった。
将来的にどうしたらいいのか全くわからなかった。
行政に相談する、という発想も出てこなかった。
「勉強」はできても、「頭」が悪いのだろう。
自分がないからだ。空っぽだからだ。
………
毒家庭から絶縁し、もうすぐ20年近く経つ。
私は、この歳になっても未だに我慢グセが抜けない。
私はこうしたい、というのがあまりないので、便利に利用される。
でも、最近、この服は好き、とか、ここには嫌な思いをするからもう行かない、等の、
小さな意思が心の表面に段々浮上してきて、それをようやく表現ようになってきている。
少し解毒が進んだのかな、と思う。
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ななしさん
読んでいて、ずいぶん長い旅をして来られたのだなぁと思いました。
最近は良い方向に進んでおられるようで、ホッとしました。
好きなもの、嫌いなもの、したいこと、したくないこと、
それぞれ、増えていくといいなと思います。
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