長いし、支離滅裂だし、暗いです。
それでも良いなら読んでいただけると幸いです。
気付いた、というかやっと理解したことがあります。
私はずっとずっと頑張れば誰かの役に立てるのだとずっと考えてきました。
でもそうでなくて、本当は生きると言うことは、傷つけていくことなのですね。
生きることは厳しい。
だって我々は一日の食事をとるのだって必ず何かを殺しています。
ベジタリアンだって植物を殺しているでしょう。
綺麗な花畑は目立たない雑草を刈り取ったものだし、そんな綺麗な花ですら踏む人は大勢います。
ここまで極端ではなくとも、善意の行動ですら却って悪い結果を生むことはそう珍しい事ではない。意図的に害悪を加えようとした者と結果的に害悪を加えてしまった者、直感的には前者の方が「悪」であると感じますが、後者は(私も含めて)言い訳をしているだけな気がします。
「わざとじゃあない、だから許して欲しい」って言ってしまえばお終いですからね。
実の所救いようがないのは故意的ではなく、偶発的な出来事なのでしょう。目に見える巨悪より、そこらじゅうに顕在する無自覚な悪意の方が私は恐ろしい。
こんな風に考えていたら生きていけないじゃないか、と思ったかも知れません。
私もそう思います。事実苦しいです。
だけどどんなに良い事をしても意味は無いし、寧ろ害悪であると心の隅では思いながらも、いわゆる親切を振る舞わざる負えない。
それは私が救いようなく弱いからです。
何かに捨てられることが堪らなく怖い。
かといって頼れるほど他者を信じきれない。
しかも切り捨てる勇気も出ない。
私は良く人に頼られます。それは世間的には弱い人たちなのかも知れませんが、私がどう考えているかも知らずにそんな風に信じて、用が済んだら居なくなれるなんて少し羨ましいな、と思います。
そんな風に考えられたら、もう少し楽しい毎日が送れるかもしれません。
自分が嫌で、人間が嫌で、社会が嫌で、世界が嫌です。
どうして生きてるんだっけ、と良く考えています。
どうして平気で生きられるんだろうと不思議に思います。
堪らなく傲慢ですよね。
自分の行動に自負を抱きすぎている。
考えなくてもいい事を考え続けている。
だけど、仕方が無いんですよね。
それが生きる事なのだから。
私は昨日(唐突ですが)、ふとそのことを「理解できた」気がしました。
切っ掛けとかは特になく、「ああ、そういう事なんだな」って思いました。
そういうどうしようもなさを受け入れていくしかないんですよね。
痛くても辛くても悲しくても立ち向かっていかねばならない。
十字架を背負って歩み続ける。
人間らしさって多分そういう事でしょうか。
さて、皆さんに質問したいことがあります。
生きることが傷付ける事で、それがどうしようもないなら、私は何を成せばいいのでしょうか?
それとも何もすべきでない?
どうかそのヒントだけでも頂けないでしょうか。お願いします。
名前のない小瓶
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ななしさん
人間はまだまだ未熟なものなので、そこをハラに入れた上で「しょうがないなぁ」と思うしかないですよね。あんまり自分や他者を厳しく考え絶望するのは行き過ぎです。
他者のずるいところなど放っておけばよいのです。あんまり実害が大きいなら逃げれば良いです。
何かする時、未熟なので初めのうちは必ずなにか失敗します。しかし、自分なりの精一杯の善意で十分な準備の上慎重に行うことなら、その失敗もそう大きなものにならないはずです。
上をふまえて自分の感ずるままにしたいようにすれば大体良い結果になるでしょう。
ななしさん
読ませていただいて「なるほど!」と思いました!!
まさに今の私の心境にぴったり!です!
私は今何もできずに動けなくなっています。
何かやれ、と散々言われるけど、動けません。
でも、そういうことを考えるのは本当に大切だと思います。
でも、傷つけながらでもやっぱり生きていかないといけないのだと思います。
生きていて、誰も傷つけずに生きるのは不可能だし難しい。
人間を続けることは疲れますよね。
私はそれなので動きたくなくなっているのです。
でも、この文章に巡り合えて本当によかったと思います。
悩んでるのが自分だけではないことがわかってよかったと思います。
ななしさん
何かを傷つけることは悪くないことだと私は思います。みんな何かを傷つけてます。誰しも、加害者であり被害者なんです。
あなたにできることは、あなたを大切にしてくれる人やあなたが好きだと思う相手に、精一杯、あなたの思いを伝えることです。思いを伝えるということは、愛するということだとおもいます。あなたはあなたの周りを、あなたの世界を、あなたのできる範囲で愛してください。積極的に関わり、対話してください。結果的に相手や自分が傷つくことになっても、なにもしない、言わない傍観者でいる寂しさより、ずっとずっと暖かいです。
あなたもあなたの周りも、みんな傷ついたと嘆きながら誰かを傷つけています。みんなものすごいエゴイストですよね。でも、あなたも気づいてるようにそれが人という生き物です。そんな風に疲れながらも、精一杯生きている人間て、とても可愛くいと思いませんか?もっとゆるやかな目で、世界を見てください。
難しい質問でした。自己満足的な回答になってしまって、ごめんなさい。
ななしさん
傷つけた分だけ助ければいい
だけど助けることによって他のものが傷つく
何をしても傷つくものはでてきてしまいます。それを仕方が無いと捉えられれば一番楽ですが、あなたはそれができない。考え過ぎです。世界にはあなたしかいないわけじゃないんです。たくさんの人がいる。あなたが傷つけてしまったものを、癒やす人もいる。たくさんの人がいてそうやって地球はまわってきました。きっとこれからもそうです。これからもたくさん傷つくものがでてきます。それは避けられない。あなたがどれだけ傷つけないように気をつけても、他の誰かが傷つけます。だけど大丈夫です。地球はまわるのをやめたりしないから。すべてのものに終わりが近づいているから。
ななしさん
命を頂いて生きるのは
人間だけではありません。
ただ人間は取りすぎるところがありますね。
必要最低限で良い筈なんです。
ただ食べていかねば生きてはいけません。
だから感謝をしながら生きる。
他の命を奪ってまで生きている自分の命と毎日に感謝しながら大切に生きる。
良いとか悪いとか
決めているのはアナタ自信です。
世の中には良いことがあるから悪いことがあります。
裏があるから表があります。
生まれるから死んでいきます。
何が良くて何が悪いわけでもなく
それが世の中にあるただ全ての事だと思います。
イヤな思いも、楽しい思いも、どちらが悪いわけでもなく
それらが全てです。
私達はただ受け入れてくだけだと思いますよ。
答えになってなかったらゴメンナサイ。
ななしさん
あなたのロジックは、所々飛躍や破綻が見られますが、おおむね軸はぶれていません。
そこで、パラダイムを変えてみることを勧めますよ。
以前の僕同様、物事を一面的に捉え、反対の面を軽んじているようにお見受けするので。
たしかに、あなたのロジックとその根拠をもってすれば多少の手直しすれば鉄壁の論陣をはれるので、否定するのは難しいですね。
ただ、一面だけで是とするのは危険ですよ。
あなたの価値を、あなたの存在を、認めて受け入れた人たちの思いや優しさも踏みにじり、根底から否定してしまうことになるんです。
美しいものを知ったから、醜いものを知る。
善意を知るから、悪意を知る。
優しさを知るから無関心を知る。
周囲の状況や時間で優しくもなれれば、無関心にもなる。
あなたがネガティブな面だけにフォーカスせずに、どの様な見方をすれば、それはあなたにとってギフトになるか、考えられるように、あなたが、いまここのあなた自身を知って受け入れ、認めることで他人も許すことで、あなたは本来のあなたに近づけますよ。
その一歩が、パラダイムを変えてみること。
お互いに人生の旅を往く身、お互いに自らを高める、自分が自分に責任をもって、自分の意志で自分の人生を生きていきませんか?
ななしさん
そりゃ人間だっていきものだもの
以下引用
悪人正機(あくにんしょうき)は、浄土真宗の教義の中で重要な意味を持つ思想で、「“悪人”こそが阿弥陀仏の本願(他力本願)による救済の主正の根機である」という意味である。
阿弥陀仏が救済したい対象は、衆生である。すべての衆生は、末法濁世を生きる煩悩具足の凡夫たる「悪人」である。よって自分は「悪人」であると目覚させられた者こそ、阿弥陀仏の救済の対象であることを知りえるという意である。
非表示悪人と善人
「悪人正機」の意味を知る上で、「善人」と「悪人」をどのように解釈するかが重要である。ここでいう善悪とは、法的な問題や道徳的な問題をさしているのではない。また一般的・常識的な善悪でもない。親鸞が説いたのは仏の視点による善悪である。
法律や倫理・道徳を基準にすれば、この世には善人と悪人がいるが、どんな小さな悪も見逃さない仏の眼から見れば、すべての人は悪人だと浄土真宗では教える。
悪人
衆生は、末法に生きる凡夫であり、仏の視点によれば「善悪」の判断すらできない、根源的な「悪人」であると捉える。
阿弥陀仏の光明に照らされた時、すなわち真実に目覚させられた時に、自らがまことの善は一つも出来ない悪人であると気づかされる。その時に初めて気付かされる「悪人」である。
善人
親鸞はすべての人の本当の姿は悪人だと述べているから、「善人」は、真実の姿が分からず善行を完遂できない身である事に気づくことのできていない「悪人」であるとする。
また自分のやった善行によって往生しようとする行為(自力作善)は、「どんな悪人でも救済する」とされる「阿弥陀仏の本願力」を疑う心であると捉える。(#本願ぼこりも参照のこと。)
因果
凡夫は、「因」がもたらされ、「縁」によっては、思わぬ「果」を生む。つまり、善と思い行った事(因)が、縁によっては、善をもたらす事(善果)もあれば、悪をもたらす事(悪果)もある。どのような「果」を生むか、解らないのも「悪人」である。
http://ja.m.wikipedia.org/wiki/悪人正機
ななしさん
ただ、思うように生き続ければいいと思います。
なにかにこだわりすぎて、結果自ら命を断ってしまうことが、ありませんよう。
ななしさん
分かります
努力はむくわれるけど
それは必ずではないんですよね…
でもいまさら
変えられないし…
あなたはとても優しい方なんですね
ななしさん
確かに人を傷つけてしまうことはあるよ。生きていくには何かしらの命を奪ってる。善意な行動が人に害を与えるかもしれない。
でも、みんなを幸せにしようとしなくてもいいんじゃない。目の前にいる人だけを笑顔にできれば。別にそれができなくても、人間、傷つけて傷つけられるんだからお互い様なんじゃないかな。
野菜を食べるのも確かに命を奪ってるのかもしれないけど、ぶっちゃけ野菜は食べられるのが本望だと思うよ。命を頂いているけど、それに感謝の気持ちを持っていたらいいと思うな。
ななしさん
主さんが考える「傷つける」、
を「エネルギーを搾取する」と考えてみると、
突然ですが、我々は車と同じだと思いませんか。
食べ物とガソリンは、我々と車が動くための動力源です。
車は走るためにガソリンを入れます。
では我々は何のために食べるのでしょうか。
ここからは持論ですが、
私は人生の幸せを全うするために食べます。
幸せだから明日も生きようと願い、食べます。
多いとは言えないお給料であっても、
楽しいことを考え実行できて今幸せだから、明日も生きるのです。
さて、やっと質問に答えますが、
「あなたに秘められた内なる才能を探して開花させること」が、あなたの人生を充実させ、同時にあなたの幸せになると私は考えます。
あなたの才能に多くの人が魅せられ感動させることができたならば、
あなたはその時初めて傷つけてきた(食べてきた)ものを
生かせていると証明できるのではないでしょうかね。
そうでなくとも、なんだって良いのです。
ボランティアしてみたり、絵を描いて人に見せてみたり。
新しいことに挑戦して、充実した人生を送ることができればその時点で
あなたが摂取したエネルギーを活かしていると言えるでしょう。
車も時がたつと動かなくなります。我々も然り。
車はある日突然事故に遭うと廃車になります。我々も然り。
いつ来るかわからないけど必ず来る死なら、
それまでに思いっきり人生を楽しんでおくのが、一番じゃないかな?
Nより。
ななしさん
【小瓶主さんからお返事きたよ】
投稿主です。
まずは沢山のお返事ありがとうございます。
傷付けるという事。
しかしそれは傷付くという事でもあります。
相手を刺す刃には柄が付いていません。
少なくとも私にとって何かをするということは自分を少しづつ殺していくことです。
つまり結局私は傷付きたくないのでしょう。
誰かを仮定してまで相手の為になっているようなふりをする。
そうまでして私は傷付きたくないのです。
皆さんの意見を読んで思案した結果そういう事なのだろう、と思いました。
酷い偽善者です。
少なくとも「良い人」の範疇から外れないようにしている。
最早偽善者とすら言えないかもしれない。
今思い返すと、傷付きたくない、と言うのが私の生きる動力でした。
失くしたくない、と言うのが私の生きる目標でした。
寧ろ傷つけているのは私なのに。
失うものすら持っていないのに。
「幸せを求めても良いのだ」と皆さんは仰ってくれました。
しかし、私はもうこんなにもごく個人的な幸せの為に生きているのです。
今更何を求めれば良いのだろう。
正直言ってもう何一つ見えません。
もしも目を伏せて耳を塞いで口を閉ざして鉱石のように生きられたらいいのに。
でもそれは決して叶わないから、私はやはり生きていくしかない。
涙を堪えて、孤独に震えて、何もない荒野を歩いてくのです。
それがこんな生き方に対してのせめてもの償いであるし、希望でもあります。
生きていれば、いつか自分の考えをはっきりと違う、と言えるかもしれない。
そう、本当は、「違う」って言い切りたい。
それが言えるだけの経験が私には無いだけで。
そういう風に思えるようになったのは、救いだと思います。
元々何も無かったのだから、「かもしれない」だけで充分です。
生きることは傷付ける事であるけれど、祈る事でもあると感じました。
返事を下さった皆さんには謝らねばならないと思います。
始めは、ありがとうございます、元気が出ました、とか適当に書こうと思いました。
だけど、それは本当の気持ちでは無かったし、皆さんの優しさを裏切る結果になるでしょう。
だから、偽りない気持ちをここに記しました。
もしも、読んでいて不快に思われたなら、それは私に非があります。
涙を堪えて、と書いたばかりなのに、少し泣いてしまいました。
だから涙を拭くため、ここで筆を置きます。
本当にありがとう。
ななしさん
自分がやりたいと思ったことだけやればいいのでは?
客観的に見て、明らかに人を傷つける行為(殺す、陰口、いじめ)は結果的に不利益なことしか返ってきませんからね。
逆に善行は利益になることが返ってくるのが大半です。
だからそのなかで、自分がやりたいと思ったことだけをやってください。
それでもし悪い結果になったとしても、自分が本当にやろうと思ったことなら
ななしさん
勝手ですが、質問文?回答文を読んだ上で、私はあなたに強くシンパシーを感じています。善し悪しは別として、真っ直ぐ生きようとする人程、世の中の矛盾や感じなくても良い壁を感じるはずです。もし貴方が私の思うような人ならば、テレビを観るのが辛いんじゃないかな。
私は29になる男ですが、これだけは言わせて下さい。
あなたは決して間違ってなどいないよ!
ななしさん
思想や信念に殉じた所で
人はそれでも間違うんだよ
そういうもんなの
間違う様に出来てるの
だから
間違わない事に心を注いで
それが虚しいなんて当たり前
以下はまだお返事がない小瓶です。
お返事をしていただけると小瓶主さんはとてもうれしいと思います。