かなりいい歳の男性です。
からかう、ひやかす、あざける、いやしめる、しいたげる
私は人に向けてすることではないと思い、また、お互いの親しさや近しさがあってのからかいやひやかしだと思います。
しかし、それが常ではないと思い、それがが続けば嘲りや賤しめになって虐げることになると思います。
人を見下す嘲りや賤しめ、虐げは、自分の考えの基にないと思っています。
自分はそういう考えが浮かびにくく、意識的や意図的であればよいという考えも基にはないと思っています。
嘲りや賤しめ、虐げの考えを持っていない人でも、からかいやひやかしを続けると、嘲りや賤しめが考えの基になり、集って虐げるのでないでしょうか。
いい歳になってようやくなのか、いい歳になったからなのか、両方であり、私はどちらかというと後者かと思います。
この先は、これまでの人生より時間も短く、やれることも減り、身につくことは僅かばかりで、変わることだけが少しできるだけだと思います。
相当の期間、人付き合いから引いて離れて、一人を選んで過ごし続けたのも、もともとが人見知りで引っ込み思案なのも間違いありません。からかいやひやかしに、普通の人と同じように好意を受け取ることができないのかもしれません。
不快に思っても、目立たないようにおかしくないように、受け応えてきましたし、今も受け応えています。
そういうのは止めよう。からかいやひやかしに疎くなり、嘲り合い、賤しめ合い、集って虐げることからは遠ざかろう。それらが楽しい方々はそちら様同士で、この先ずっと幸せに過ごしてほしいと思います。
自分はそれらに楽しさを見出せない、価値を見出せない。この先の自分には不要なものとして遠ざかろう。愚直と言われても真摯に生きる方々とこの先を過ごしたい。
人付き合いは不毛ではなく、嫌いな人とも付き合わなければならないと言うのもわかります。しかし、それは日和見とも、集って仲間外れを作ることとも違うと思います。だから、仲間外れがいないと「仲間」と呼ばない方々とは遠ざかろう。
愚痴の言い合いは悪口の言い合いに繋がると思います。愚痴でも悪口でも陰口でも、それらが好きで聞くのも話すのも好きな人同士で、ずっと過ごしてほしいと思います。愚痴も言えない人と言われても、愚痴ばかりの人と過ごしたくない。愚痴は切りがなく、愚痴を言って気が晴れても、愚痴を言われた方は気が沈むことがある。愚痴は否定するとすぐに悪口や陰口に換わって属人化する。近しさや親しさ、仲間と仲間外れ、うちとよそ、様々な因子があっても、快不快で不快さを優先する方々、不快さがなければ話せない方々、不快さの共有を優先する方々とは遠ざかろう。不快さこそが変容のきっかけという方々とは遠ざかろう。人を不快にさせてもすべてを赦される聖人はいない。不快にさせ合うのをお互いさまだという方々とこの先も一緒にいようとするのは止めよう。
かなりいい歳をしています。こういうことをこちらに書き込む歳ではなく、また、そういう考えを率直に話し合える人がいないのも間違いありません。歳の分だけ、言い方や言いようは身についていると思います。ほんの少しだけですが、借りものの言い方や言いようは見分けられるようになっているかと思います。ただ、一人考えるだけでは辛い時間が延びるだけだと思ったので書きました。