人生全然うまくいってないっていうか
思い描いてたものと違うなっていうか
このままじゃ生きていくことが苦しくなってしまうほど不幸な人生しか待ち受けていないような気がしていたけど
今だって生きているのが苦しくてたまらないのに、これから生きやすくなる保証なんてどこにもないよな。
たとえどんな成功をしても
どんな素晴らしい人間と出逢おうと
コンプレックスを克服しようと
わたしの中にある自己否定感情は、きっとずっと消えることはない。
なら、死ねばいいか〜という気がしてきた。
「あーもうちょっとね、若い頃は好き勝手やってきましたけど、そんな甘ったれた人間には到底手に負えないほど生きるのって大変だったんですねえ、誰のせいでもないけれど、ええ、生きるのにもう完全に失敗しましたね、だからちょっとはやくこの人生からはリタイアしようかなと思います、もう無に還ります、人類的には私はおそらく社会の癌なのでね、これが人生で最後の、私からのせめてもの社会貢献ですよ全く」
とか言っちゃって滑稽に死ぬのが、一番後悔ない気がしてきた。
死んでしまいたい。
泥のように眠りたい。
可能性も夢も希望も
そんなもの本当はどうでもいい
わたしは安寧を求めているだけだ。
「愛」などという大層なものは求めない、そんなものは知覚できない
ただわたしがわたしであるということをどうにかして肯定するか肯定されたい
がむしゃらに頑張って肯定されることがないのならいっそのこと
がむしゃらにわがままになって、そんなわたしを肯定したい
そしてそのまま死んでしまいたい。
中途半端がいちばんみじめだと思う。
だって、肯定されたいなら頑張れよ
肯定したいなら徹底的に抗戦しろよ
と思うから。
失敗したら死ねばいい
というつもりで生き抜いてしまえたらいい、と思う。
拳銃をこめかみに向けて、ぱん、と。
「人生の試行回数nはただいま終了し、次の魂の試行へ移ります」
てな感じに死んでしまいたい。
死ぬことはもっとライトにとらえられてもいいという気がしてきた。
だって死にたいと願ったってことは
多かれ少なかれこの世に社会に自分が適応できなかった証拠で
そんな人間が「死にたい死にたい」などとうらみつらみを吐き出し負のオーラを纏いながら生きていくくらいだったら、もう死んでしまうほうが周りに害がないんじゃないか。
「あ、死んだんだー、そっか」
それで終わり。
「もっと生きてて欲しかった!」
と言う人はいてもいいけど
「それは〇〇のせいだ」
「こんなの間違ってる」
と言う人は、いなくてもいいと思う。
だってしょうがないじゃん。
こんなに追い詰められて、どうしようもなかったんだから。
「肉食動物に追い詰められた動物の運命は、自分の脚でその危機的状況から逃げるか、逃げ遅れて喰われて死ぬかしかない」
それだけの話じゃないのか。
誰も助けてくれなかったのならもうしょうがない
わたしたちはそれ以上を期待するべきではない
わたしはこの社会に不要な人間だったというだけだ。
そのことについてしっかりと自分で考えて自分なりの結論を出したうえで、生きるか死ぬかは選択すればいいと思う。
後出しじゃんけんの慰めや憤りに意味なんてないし
「たとえ無価値無用の人間であろうが私たちは弱い人間を何の根拠もなしに助けるべきだ」などという理念を「全体的には助けられる側」が望むのはおかしいことのような気がする。
だからわたしは自然の摂理として、散々好き勝手やって、それでうまくいけば「よかったね」だし、うまくいかなかったならもう死んでしまったほうがいい気がする。
その方がずっと気が楽で、自分らしく生きられる気がする。
別に死にたくないなら死ななければいいだけだし。
うん。だから何もかもうまくいかなくなったら、死のうかな。
逆にいえば、それまではわたしは生きているということだ。
自分でなせる享楽の限りを尽くして
希死念慮を存分に湧き上がらせて
メランコリック、敗北的、上等だよ。
わたしは死にたいと思っていいんだ。
だって死にたいと思うのが、人間の欠陥品として生まれたものの性なのだから。
仕方がない。
わたしが悪いわけじゃない。
だれが悪いわけでもない。
わたしには人権が付与されているので
生きるも死ぬも自由に選択していい。
だから「うまくいかなかったら死ぬ」というさっきの決意を後年にさらっとくつがえしたところで、誰かに殺されることもない。
わたしの生死を決めるのはわたしでいいんだ。
そうだ。
わたしはずっと、そう思ってたんだ。
それがわたしの中での正解だったんだ。
わたしは死んでもいい。
わたしはわたしを許さなくてもいい。
ひさびさにすがすがしい気持ちになれた。