自分がずっと人より恵まれた環境で育ってきたという事実に苦しめられてきた。
「どうして私は恵まれているのにこんなに苦しい思いをしなきゃいけないんだろう、こんな感情を抱いてしまうんだろう」と。
でも最近、人はどれだけその環境が恵まれていようと負の感情を抱いてはいけないなんてことはないってことに気がついて、それでやっと
「私は誰かを恨んでもいいし、憎んでもいいんだ!」と思えた。
うれしかった。
お前の教育は失敗したんだよ! とでも言わんばかりに、母親を思いきり怒鳴りつけ、自室に戻ってありとあらゆるものを壁に投げつけたときのことだった。
母が憎い。
憎くて仕方がない。
だから、今まで育ててくれたこともお金の不自由なくさせてくれたことも、とくになんの感謝もない。むしろ、それで帳消しにしてやるよとしか思えない。
なにがそんなに憎いんだろう?
長い間抑圧していたせいでもう自分の感情の理由がよくわからなくなっているけれど、精神疾患のある姉とアルコール依存ぎみの父を作り上げた張本人であろう母という人間性をいまさら疑う気にもなれない。
最近受かった私大と受かりそうな地方国立大で進路を迷って、私は若干の親への後ろめたさから国立を選びそうだったけど
お金がかかるのはお前らが私を金がかからないように教育してこなかったからだろ、とだんだん思えてきた。
母のような人生でも幸せそうだと思えたら私も地方国公立卒の公務員にでもなっていただろうし
こんな憎しみを抱えていなければ親を思う気持ちの方が勝っただろうし
そもそも憎しみを抑圧したせいで完全な無気力状態に陥ることがなければ、私は自分の満足いく国立大に行っただろう。
許してな! あなたが向き合わなかった分だけ、私と姉はお金を消費する。
姉がショッピング中毒に陥っているのも、姉なりの無意識的な復讐なのだと思う。いわゆる代償行為。こういう、はたから見てる私でもわかることを理解できないのがあなただったね。
私は大学を卒業して立派な大人になるし、そしたらちゃんと姉を救えるように手配するし、それでもうチャラにしてあげるから
だからそれまでは養えよ、与えなかった分だけ。産んだ責任を、果たせよ。
とまあ、恨み言はおいといて。
私は憎みたいものを憎むことにした。
たとえそれが世間的に許されないことであろうとも。いくらお門違いで道理から外れたものだったとしても。
この憎しみにちゃんと向き合って、言語化して、肯定しない限り私は自分の人生を始められないだろうと確信している。
つい最近までは死にたくて仕方がなかったし、些細なことでイライラして親だけでなく他人にも攻撃的だった。楽しいはずのことが全く楽しくないし、謎のひどい疲労感と虚無感のせいでろくに勉強もできなかった。
でも「憎い」という感情に気がついてからは、他人に不機嫌を撒き散らすこともむやみに衝突して体力を削ることも無くなったし、死にたいという気持ちが嘘みたいに消えてなくなった。
つまり私はただの不機嫌な人ではなく親への憎しみを無理に抑圧していた人だったのであり
私は「死にたかった」わけではなく、母に「死んで欲しかった」のだ。
自分の発言が最低なことも、誰かを動揺させたり苦しめたり嫌悪感を抱かせたりするかもしれないことも分かっている。
でも言わずにはいられない。私が誰かを憎んだという証拠を、現実のどこかに残しておきたい。
このまえめちゃくちゃにした部屋も、だからそのままになっている。
椅子は逆さまに倒れ、鉛筆やペットボトル、服の散乱したひどい部屋。
今の私には、ひどくそれらが愛おしい。
この憎しみだけが私という存在を証明してくれる気がするから。
生きてるなあ、と思う。
すさまじくみにくい感情と一緒に、私は今、生きている。
それは生きている感覚のしない、砂の味しかしないような毎日よりは、きっとよっぽど素敵なことだ。
母に「死んでくれ」と思える
そういう強烈な感情がまだ私にはあること
それがとても愛しい、うれしい。
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