考えすぎて、悩みすぎて、頭がぐちゃぐちゃです。誰か、わたしを否定してください。お願いします。
いろいろ考えたんですけど何を悩んでいるのかももう分からなくてまとめられなくて、吐き出したいこと全部書いたらすごく長くなりました。すみません。
結構小さいころ(小学校に入る前)から、なんか人と話が合わないなと感じることが多々ありました。話題が合わない、とかではなく会話がかみ合わない、自分の言っていることが相手に全く理解されない時があるという感じです。なんてことないことかもしれないんですが、わたしにはそれが嫌で嫌でたまらなくてすごく不快で、多分今でも世界で一番嫌いなものは嚙み合わない会話であるくらい、当時も今も嫌でした。
同じ頃、同級生ともめて結果相手に号泣させて謝らせてしまったことがあったんです。ざっくり内容を説明すると、軽めの脅しを受けたけど、私にとって別に困ることでもなんでもなかったり実現不可能だったりして、脅しだとよく分からなくて、それをありのまま伝えていったら最終的にその子に「階段から突き落とす」まで言わせてしまったのでさすがにその子が先生に怒られたという感じです。当時のわたしは、その子が何で怒られると分かり切ってるようなことをしたのかも分かりませんでしたし、動機も聞いたけれどその動機もわたしには理解不能なものでした。
でも、それを機に、その後こう思ったんです。もしかしてわたしのことをみんなが分からないのは、私がみんなのことを分からないからなんじゃないかと。
上に挙げたほど極端な例はないですが、他にも他人の気持ちだとか行動だとかがよく分からないことがあって、決まってそういう私に分からないことはみんなには分かりそうなことだったりしました。ルールを破りたいとか、どこでも(トイレ行くのにも)友達と一緒にいたいとか、人に嫌がらせをしたいとか、目立つのは嫌とか。
だから、ちゃんとみんなのこと分かるようになりたいと思いました。本を読んだり、どんな話をするのか、どんな人がどんな人をどんな風に思ってるのか、人を観察したり、いっぱい考えたりしました。
本は普通に好きでした。文字が普通の人と少し違う見え方になってしまう病気をもってるんですけど、それでも本が好きなくらい大好きです。本を読んでいて人は通常嫌いな人とは話したがらないと知りました。だから、”誰にでも好かれる”は難しいけれど、せめて”嫉妬以外の要因で嫌われない”人になろうと思いました。できれば嫉妬もされたくないけど、場合によってはそれを避けるのは不可能なので。
だから、わたしの夢は人の気持ちに寄り添える、何でもできる人になることでした。まるで、何かのお話の主人公みたいな、そんな人になることでした。
そうすればきっと、世界で一番嫌いなものが私の世界から消えてくれるはずだから。何も考えずに、何にもわずらわされずに、傷つかずに、ただ人とのおしゃべりを楽しめるはずだから。
ほんのちょっとずつ、だんだん人に「?」というリアクションを取られることも少なくなっていって、ちゃんと成長していけて、これでいいんだと思いました。まだ完全じゃないけど、全然未完成だけど、大人になるまでまだたくさん時間があるから大丈夫だと。そんな風に夢見ていました。
高学年になった時、クラスが荒れていじめが起きました。いじめられたのはわたしではなくクラスメイトでした。よく知らない子でした。女子男子クラスのほぼ全員がいじめに参加していました。とはいっても絶対関わらない、距離を積極的に置く程度の人から積極的に悪口を言うという人までいましたが。
そのいじめに対してわたしは参加しませんでした。
参加しないだけでした。
どういうことかというと、「別に無視はしない、悪口は言わない、そう思うよねと言われても同調しない(分からないという)、その子の机運ぶの嫌がらない」ということはするけど、悪口を言った相手を叱ったり、状況も知らないのに無条件にかばったりはしなかったという感じです。よく知らない人のことを悪く言うのも、よく知らない人に無償の愛をあげるのも、当時のわたしには、そのどちらもいいこととは思えなかったので。
いじめられてた子と多少仲良くなった後も、別に特にいじめからはかばいませんでした。わたしは、何でみんながその子を嫌っているのか知らなかったので。まあ、さすがに物損とか傷害があったら別だったと思いますけど。わたしが知る限りは無視とか悪口とかだったので。
卒業していろいろあって中学生になって何かもやもやしていました。というのも、正常性バイアスなんでしょうか、当時は別に異常と思っていなかったんですけど、思い返してみると学校側がまあまあ良くない対応をしていたなと思ったからです。
いじめを認識しているし、軽い学級崩壊を認識しているのにどうにもしない(できない)担任とか、体罰教師とか、無駄に連呼される連帯責任という言葉とか。
いじめに関してはともかく、みんなが教師達を嫌って学級崩壊になっていたのって至極当然のことだったのではないか。あれ? じゃあおとなしくいい子にしていた私って、正しいの? 正しくないの?
みんなが何を思っていたのか、わたしには分かりませんでした。
と、このもやもやはまたさらに大きくなりました。なんでかというといじめられたからです。わたしが、いじめられてた子に。
まあ、そんなにひどいいじめじゃないんですけど悪口言われたり授業妨害されたりするくらいでしたし。物損とか傷害とかはなかったですし。
結果はというと、うやむやに終わりました。わたしが乗っかってしまった別の子への意地悪も、わたしがされた意地悪も、おそらくほかの子が受けたであろう意地悪も全部うやむやで終わりました。
後味は最悪ですけどとりあえず一件落着してふと、わたしは一体どこで間違えちゃったのかなと思いました。
反省点はいっぱいありました。でも、あの時、高学年の時の私はああするしかなかったと思いました。あの時私ができたこととしてはあれが精いっぱいだったし、できる限り頑張った、あれ以上やれることはなかったと思いました。でも、もしかしたら、それこそ物語の主人公みたいに、もっと、みんなの気持ちに寄り添って、いじめにもちゃんと向き合って、学校側が悪ならみんなと立ち向かって……そういうことができたかもしれないのに。そんなことができたらよかったのに。わたしじゃできなかった。できなかったから、こうなった。
それでも、何もしなかったよりはましだったんじゃないかとも思いました。
思って違うと否定してしまいました。
違う、わたしがいたからかもしれない。
良かれと思ってクラスの仕事をした。
正しくないと思っていじめに参加しなかった。
先生は、そんなわたしを信頼していた。
信頼できる生徒であってしまった。
…………じゃあもし、わたしがいなかったらどうなっていたのだろう。
いじめの参加率は100%になって、ノートは配られなくて、給食は10分遅れで始まって――目も当てられないことになるだろうか。
いや、そこまでいったならさすがに学校側だって何かしたのでは?
わたしがいたからこそ、「まだ大丈夫だ」なんて無用な安心感を与えてしまっていたのでは。
わたしがしていたと思った正しいことって何なんだろう。
たらればの話ですが、そんな風に思ってしまいました。
じゃあ、今度は間違えないようにしなきゃ。今度こそ人の気持ちに寄り添って、何が正しいかは「一般的に」とかで判断しないで、自分で決めて、そうしたら何でもできるちゃんとした大人になれるはずだから。
性懲りもなく、わたしはそんな風に思ってしまいました。
むかしは、夢を見ている自分が好きでした。
人のことが分からなくて、傷つけてしまうのが嫌で、傷つけられるのも嫌で、だから学んで探って寄り添おうと頑張る自分は、世界にとって良くはないかもしれないけど、良くないものの中ならちょっとだけましな気がして、夢を見ている自分が好きでした。
でも、今は嫌いです。怖いです。あきらめの悪いというか悪すぎる自分が嫌です。最近は日々の行動が、宿題にしろ勉強にしろコミュニケーションにしろ、自分の定める基準に満たないと判断すると、自分で自分の足や腕、おなかを殴ったりたたいたりしてしまいます。
ちゃんとできなきゃちゃんとやらなきゃと思うのがつらいです。
本当は夢をあきらめたくないです。頑張って積み重ねてきたことも、考えてきたことも、ずっとわたしの大事な一部で、大事な大事な夢で、なんでか、辛いのに手放せないです。
でも、このままじゃ多分わたしはダメになってしまいます。きっといつか壊れてしまいます。
だから、お願いします。
誰か、わたしの夢を否定してください。
ここまで読んでくださった方、わたしの長い自分語りに付き合ってくれてありがとうございます。
否定うんぬんじゃなくても、共感したこととか思ったこととかお返事くださるとありがたいです。
本当にありがとうございました。長々とすみません。
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