わたしは少しずつ
嘘をついている、ことになるのだろうか?
思っていることを吐き出してしまうと、
それによって、パンドラの箱が開くことがある。
開いた箱から出たものは
最新版の本音で、
直前に吐き出した「思っていること」とは
180度違うことだったりすることもある。
ひとつひとつにうそはないし、
人間,一貫性なんてないから人間じゃん,
という思いはあるけど
その考え方を理解してくれる人自体
そんなに居るとも思えない。
その人の、いい人ぶる仮面が外れて、
残酷さが増していて、わたしはそれをぼーっと見ている。
同じものを私も持っている。
知ってる〜〜*
それは、時にコミュニケーション能力という言葉と
置き換えることも出来るが
わたしの場合は、もういいでしょう。
こころがなさすぎ、責めたい誰かと大差はない。
真綿で首を絞めるやり方ではない分
痛みはきついが、
わたしはずっとそれを渇望していたのだろう。
あなたは知らぬ間に
最後のミッションを遂行している。
失って絶望することまで、フルセットの
フルコースだったのだ。
全部平らげるまで、延々と運ばれてくる。
「知る」ことは、時々そんな風に痛みを伴う。
一番ちいさなマトリョーシカの中には
何が入っているのだろう?
++++
今の私は、少し、こころぼそい
山の砂利道だらけのカーブを
走行しているのだと思う。
すでにこころの中は、
もう、どうにも、こうするしかない
こう生きるしかない、の胆石みたいな石が
身体の中をゴロゴロしていて
はらをくくるというきっかけ欲しさに
誰かに、背中を押してもらいたくて
合図だかを待っている状態だ。
(いばやさんの記事を読んだ直後なので、
さかつめさん風になってるな)
もちろん、誰か(さかつめさん的)の
勇気ある生き方を見て、
ようし!と、覚悟を決めても
だってあの人が言ったから
・・みたいな物は微塵もない。
最終的に決めるというのは、いつだって、
どんな理由経由であれ
自己判断以外のなにものでもないから。
そういうわけで、上地先生の占いと、
さかつめさんに勝手に後押しされ
「ああ,もういいかな」って思った。
言いたいことを書けば、ビッグダディと同じセリフになってしまう。
「オレはこんな男だ~」
もう、いろいろなことにつかれた。
同時に、わたしは何も知らないひと
だったんだなぁってことも
痛感。
気づいても,察したりはしないで行こうと思う。
どうでもいい人も、大事な人も、
他者であることに変わりはない。
気持ちが通じ合うと,途端に相手とわたしで
「うち」という名の世間を作る。
違和感の大きいタイプの意見の相違を感じても、
愛情を失う不安から物が言えなくなるのだ。
(これ,完全に私と母親との関係でした、モデリングです)
いつもここんとこで、ハラがくくれなかった。
その瞬間、存在給のわたしではなくなる。
顔色を見ることを空気を読むと、間違えて学習している
バカな人の寸劇が始まるだけなのだ。
「失う」ということを
集団の中にいても
「ひとりになる」ということを許可する!
うすら笑いを全部捨てる。
当たりのいい人を良きものとするのはもうやめる。
そんなつもりもなかったが、
習い性というのは、そこに魂がない場合
単純に自分を蝕み、身を滅ぼすだけだ。
偽悪ぶるのも,これもまた表裏一体。
そういう、こどもっぽいのもノーサンキューだ。
そう、もう、作ったようなのはいい。
もうたくさんだ。
やめます。
続けていたら、ほんとうに自分がこわれてしまう。
悪い人と思われる部分を表に出すくらいで
わたしはきっとちょうどいい。
悪い人と呼ばれる面を持っていても
あらかじめすべての面が悪い人と決まっている
人間ではない。
弱い面についても同じだ。
そんな、片面だけの不都合な人間は居ない。
これは詭弁じゃない。
本物で居たい。
だから、嫌われていい。
御の字なのだ。
そんな私でいいという、希有な人が
いたらラッキーいなかったら、しょうがねーな、って
とこなんだろね。