変わろうとする時、
なかなかの、普遍性らしいですが、
過去の記憶、罪悪感、劣等感、無価値感が
臨場感を持って
脳内に現れます。
それでも、その再現フィルム上映中も
それらをどこか、俯瞰出来る、第三者の自分の目
というものが
(すでに、目が開いた「今」の自分の意識)
微かにでもあるのなら、
大丈夫なのです。
いちいち、ひたって、まじめにとりあうことなどない。
脳内を、走馬灯が流れていく。
ああ、流れていくなぁって、座禅の時と同じ意識です。
浮かぶがまま、それ以上は追わない。
次から次へと、試すように、アトランダムに
「元の手慣れたおまえにもどれ〜〜」と
やってきますが、流す、流す、流す!
最初は辛いけど、段々、慣れます。
そして、平行して、やりたくもないのにやってることを
やめる、または、ゆるめていく。
したいことがあれば、ちょっとチャレンジ!
何年もやっているのに、ちっとも変わらないという場合は
もとの、洗い出し自体が、間違っている時がある。
軌道修正です。
わたし、どうなるのかわからないけど
3回軌道修正して、本丸に辿り着いた.
そこに行き着くまでは、不登校のこと、身体の悩み
などが理由だと思っていて
心理講座へ通うようになって、
やたら、親がルーツだ!を連呼され、
もう、親とは心理的にいい距離で暮らしているので
かき回してみてもなにもないよ、って思ってたけど
本気出したら、すごくあった。
今の親のことじゃなくて、私を作って来た価値観は
親のモデリングだから、って意味。
私は、結構・・2年前くらいまでかなぁ?
自分が「女」であるということを、認めることを拒絶していた。
女性性のことです。
今の今だとわかるんだけど、
良い娘でいることが、親孝行だと思っていて
それは、ほんとは建前で、
母親の子供という振る舞い方をすることで
親の価値観が、合わなくて苦しいのに、
離れることが怖かったのだと思う。
でも、すこしずつ、いろんな他力を借りながら
向き合って、外していくうち、
(それ自体は10年くらい前からやりはじめてはいた)
どうも自分は、親とはまったく違う気質の人間であることが
自覚としてわかり、
「わたしが」欲すること、に焦点を当てて暮らすようにしてみた。
庇護を求めない生き方です。
長い時間をかけてつけた折り目なので、
元に戻ろうとするのは、誰でもあることだそうで
それでも、今の自分を大事にしたい思いがあれば
何度でも、何度でも、今の自分が望む方を優先。
赤ちゃんだって、生まれた時には、価値観も
〜ねばべきもない。
後天的な学習で積み上げた価値観であることに変わりはないから。
上書きです。
いつだって。
先月の、講座の後、小瓶にも流しましたが
人が辛いと思うのは、持っている価値観の方ではなく
(これ、ダミーです。ひっくり返しても
別のヤツが、モグラたたきみたいに顔を出しますので)
それ以前から持っている、セルフイメージの方なのです。
こっちをひっくり返すまでが、大変なんだけど
辿り着ければ、あとは、そいつが求める通り生きてみればいいのです。
その暮らしをしていたら、
3日前、何十年も、周りの人の声を信じない!と
言い張っていた私が、
事実、という証拠集めをする気になりました。
長かったです。
こんな日がくるとは思わなかった。
悩みがなくなることで、
翌日、16歳当時の、他人軸にもどっていて
「それ、ちがーう」って、観察者視点の私がいてくれたので
まだ、よかったんですが、
なんていうか、
歪んでいても、それまで手慣れた場所へ帰ろうという習性はあるんだなぁって
脳の無意識はバカなとこがある、という話を聞いたことがあるので
まさに、それだなと思いました。
自分でも、もう、今ではいいかげんわかって来たんですが
新しいなにかが、自分の中に入ってくると、
それまでの自分と融合するのに、少しだけ時間がかかる。
ただそれだけのことです。
(これ、変化の前のいいものなのに、揺り返しを悪い物と思って
その感情にはまりこんでいたので、元の木阿弥ばかりやらかしていた)
恐らく、何かをわかっているのに、
思い出せない、問答状態だなって、思ったので
深追いせずに、・・といいつつ
昨日も、夜カフェならず、夜マックで(低コスト)ねばっていたら
あああっっ!!・・となり、
まだ、ほやほやですが、一致点を体感しました。
(悩みがない&他人に穴埋めをしてもらう必要などない)
庇護ない人同士の人間関係を見ていると、泣きそうになります。
どの人も孤高で、自分の好きと嫌いには忠実ですが、
出し合う物は、純粋な愛情です。
見返りを要求する必要はないので、天然石のようないびつさはありますが
真摯すぎて、泣けてきます。
少し、または、うんと、先を歩く人の背中を見て
人は、変われるというよりは
本来持っている、自分のパーソナリティで、生きられるんだって
変わることは逃げること、と小さい頃から、勝手に思い込んでいたので
それも、長々自縄自縛の原因でもありました。
仕事だとわりと、すんなり受け入れるだけどねぇ・・
どんな山の登りかたしたっていいじゃーん、って。
登っていくうちに、設定したゴール、変わってもいいじゃーんって。
もともとの気質が、よそのひとより、
オレを縛るな!・・が強いので(いま思うと)
それを抑える分、しつけとしては、結果的に
〜ねばべき多用でないと、親としては思い通りに動かせないということだったのかなと
書きながら、気づき、ギョッとしています。
だから、古い「〜ねばべき」、まだまだあると思います。
どんどん出て来て、対峙対峙対峙だと思います。
流す流すのほうか。
昨夜、駅からの帰り道、もっと明るい気持ちでいるかと思いきや
自分の選択ミスで、この何十年
女性なら一番きれいで輝ける時期を(体力あるし)
なんて、無駄に生きてしまってたんだ・・と
涙もでないくらい、やりきれなさいっぱいになってしまい
16歳以降、全く遊んで来なかったので、
全部取り返してやる!
遊んでない人は、ブレーキの掛け方知らないから
中高年からデビューすると、暴走して
破綻するって、昔からいうけど
そんなもん、所詮、お前の人生じゃなくて
ワシの人生じゃ、外野はだまっとけ!と思い、
取り戻すかのように、チャラチャラ生きてやる!
と思いましたが、
睡眠時、脳内は整理されるので
目覚めてやはり、わたしは、自分の食指が動くことだけ
手を出して行こう!・・に落ち着きました。
私は、未だに、人に甘えるところがすごいけど
依存の人にだけはならない。
このふたつ、全然意味違うからな!
そんなもんになるくらいなら、ひとりでいる方がマシ!
他人に従う人生だけは、死んでもイヤ!
これ、わたしの原動力。
すくすく、かわいく生きたいなぁ〜〜
で、寿命!
それでいい。