変わりたい私の、ちっぽけな宣言。
とある人がとあるところでこんなことを言っていました。
「次はミスをしたくない。欲しがれば欲しがるほど手に入れる可能性が近づくはずだ」
それを見た私は違和感を抱きました。
欲しいと願えば願うほど、プレッシャーや空回り、挙げ句の果てには疲れて置いていかれて、遠ざかってしまうこともある。
それに、たしかに、数字の結果やモノならそうすれば手に入るかもしれない。
でも、形のないものはそれで手に入るのでしょうか。
私が心の底でずーーっと欲しくて欲しくて仕方ないものは、「承認」です。
認められたい。
とことん掘りさげていくと、私を取り巻くオプション無しで、私を私として見てほしい。
他者から貰う安心感で満たされたい。
でもこういうものって上限が、ない。
自分でふと「あ、お腹いっぱいだ」って認識しなければ、ずーっとお腹がすいたまま。
吐きそうなほど胃袋に詰め込んでも、お腹いっぱいって思えなかったら、ひたすら求めて詰め込むしかないのです。
必死で求めているのに、上限がないから満たされない。
手に入れたと感じることができない。
即ち、感覚的には手に入れていないのと同じ。
私の欲しいものは、今のまま求め続けるだけでは手に入らないのです。
ほんとはけっこう前から気づいていたのだけれど、認めてしまったら目の前のことを頑張る理由がなくなってしまうから、気づかないフリをしていました。
でも、さすがに自分でもそういうのが気持ち悪くて耐えられなくなってきちゃったので、思い切って認めてみました。
すっきり。
で、認めた上で、今度は自分が納得する頑張る為の理由はなんだろうな、と。
考えて、考えて考えて。
結論。
理由はナシ!
目の前にある頑張るべき事を「義務」として受け入れてしまえば理由は不要じゃないかと思いました。
任された、お仕事や作業と同じ。
自分がやりたい・やりたくないじゃなくて、やらないといけないこと。
で、それは何だかんだで自分が「変わるべき時に迷わずそこに飛び込んでいく」ための準備になる。
そんなふうに意味づけました。
(自分で書いていてなんとなく言葉足らずに感じる)
目の前の義務をこなす、というのは、3年くらい前の自分に戻ったみたいで、ちょっと怖いなと思うけれど、
最近病院でも良い方向に変化していると言われたし、自分でもなんとなく意識とかそういう感じの何かが少し変わったという感覚があるので、
今の自分ならそういう風にしても、3年前の二の舞にはならないはず!
と、思い切ってそんな決断をしてみました。
それから、大事な決断をもう一つ。
義務として目の前のことに取り組むために、私は無欲になります。(宣言)
正確に言うと、認められることによって満たされたいという欲求に対して無欲になります。
求めません。その欲求、捨てます。
今までも、色々なものを捨ててきたから大した変化ではないのかもしれませんが。
捨てるものをチェンジします。
冒頭に書いたある人の発言とは正反対。
求めないことで何かを得ようと思います。
求める行為にずっとしがみついてきたから、そこから脱却します。
無の境地、極めます。(大袈裟)
案外、その方が欲しいものが手に入ったりして(笑)
なんて言っているあたり欲深いな、自分(笑)
反省、反省。
47564通目の宛名のないメール
お返事が届いています
どん
素敵な文章ですね!
私も勇気づけられました。
無理をせず、自分らしく
生きてください。
りぃふ
(小瓶主)
ベルさん
お返事ありがとうございます!
同じような悩みを抱えている人がいると知って、少し安心しました。
視点の転換ですか!
気持ちを溢れさせる。なんだか素敵ですね。
私にも進展があったら是非教えてください!
お互い前に進めるといいですね。
りぃふ
(小瓶主)
1通目の方
お返事ありがとうございます。
ちょうどリンク先に書いてあったこと、まさに!それをやりたいと思っています。
ドンピシャすぎてびっくり。
参考にさせていただきます!!
烏羽さん
いつもお返事ありがとうございます。
烏羽さんは、私の言葉不足を上手く補ってくださっているので、「そう、これ!これが言いたかった!!」ってぴたりとハマるので、お返事をいただけるとすごく嬉しいです。
ちょうどいい距離感、手探り中でまだ確実なものが手に入った感覚はないのですが、なんとなーく、これかなって思うものが少し見えたような気がします。
焦らずじっくり探していくつもりです。
「ない」と思っているけれど実は「ある」話、心当たりがあってぎくりとしました。
一番認めてほしい人には認めてもらえないのに、そうでない人に認められて、
今度はその人の期待にも応えたいと思って頑張ったら、別の人に認められて、また期待されて…
気づいたら、認められるために他人のイメージする自分を演じていました。
そういうのからも、脱却しないとなぁ。
どれだけ頑張っても果たせないこともある。
ちょっと楽になった気がします。
疲れたら休んで、上手に自分をコントロールしながら立ち向かおうと思います。
最近やっと気づいたのですが、努力するって闇雲に頑張ることじゃないんですね。
自分の限界とか、能力とか考えて、無理のないようにペース配分をしつつの、全力。
それこそ以前におっしゃっていた、80%を100%にするようなことなのだろうな、と。
今までは、何も考えずにがむしゃらに突っ走ってきたから、疲れて倒れて起き上がれなくなってしまったので、
ちゃんと立ち上がったら今度は同じことを繰り返さないようにしたいです。
無の境地を目的にしないようにすることについては本当に気をつけます。
(無意識にそうしてしまいそうだなと自分でも思っていました…)
僧侶レベル1、頑張ります!
(長くなってしまってごめんなさい。また助言いただけると嬉しいです。ありがとうございました!)
ベル
りぃふさんのこの小瓶、僕にドストライク過ぎてことあるごとに読み返しています。
僕も承認欲求を持っていて、僕の場合はそれが凄まじく強い。
このことはこれまでの僕を宛メで見てきた人ならお気づきかもしれません。
求めても、上限がないから満たされない感覚、すっごく分かります。
それなら求めるのを止める。
僕もそう思い至りました。
じゃあ、求めないためにはどうしたら良いかを考えた結果、視点を変えようと思いました。
自分の視点で見るから欲しくなる。
持つのは自分じゃなくても良い、そう思うようにしました。
でも、それでも人の気持ちを求めてしまう自分がいるんです。
それほどまでに僕の承認欲求は強い。
だから、僕は求め方を変えることにしました。
人の気持ちを求めるのではなく
人の気持ちを溢れさせる。
溢れ出た気持ちを感じさせてもらう。
そのためにはどうしたら良いのか。
それが今の僕の課題です。
僕は僕の方法で、自分の問題と向き合ってみます。
りぃふさんも進展があったらまたお話を聞かせてください。
烏羽
うはははは!(笑)
それでいいんじゃねぇの。
ここから先は例の如くすんごく長かったり纏まってなかったりするので、時間のある時、読みたい余裕のある時に読んでね。
意外と自分が本当に必要だとか、無意識に大事だと思う事には、知らず知らず目が向かうようになってるもんさ。
人それぞれが成長の過程で得た、それぞれの苦しみも、自分自身の判断の材料になる。
りぃふさんの考えたように、他のものを求める事でも、欲しかったものを得られる可能性は十分あると思う。
回り道が必ず近道になるかはわからないけれど、自分で真剣に考えて、悩んで、動いて、四苦八苦したり喜んだりして、その先に出た答えは、回り道だと思えても、実際には近道になれると思う。
その答えが、今出てきた道なんだから。
まあ、あえて余計な口を挟むなら、今度は無の境地を求めるだけだと思うんだがね。
無を欲するというか。(ただの解釈の違い)
本人の真心と、悩んだり考えたり、行動したりした経験あってこそ、言葉はその人にとっての本当の意味を持つことが出来る。
故に、自分自身が捉える言葉の意味も、その時々の自分の思う事、目の当たっている事が少なからず関わって、変わってくるものじゃないかね。
とある人の言葉や、その人がどう思うのかはさておき、自分の思いや気持ちを感じ取り、違和感を言葉に出来た事そのものは、いい事だと思う。
関連があるかどうか。そんなの、やってみなけりゃわからないという謙虚さ(スタート?)を認識できれば、それでいいと思うのさ。
それが現時点で俺の思ってる丁度いい距離感なんだわ。
そう考えた所から逆に言えば、その言葉を発した人の丁度いいとか、その時の視点が、自分の状況として合わなかっただけ。
受け止めたとしても、態々無理に受け入れる必要はなくて。要らんならそれでええのさ。
そんなものじゃないかと思う。
その上でまだ気になるなら、まだなんか、自分にとって大事な事がある…のかもしれない。
宛メで垣間見えるのは端々ながら、りぃふさんが、少しずつ自分の力を付けていくのを見て、勝手にこっちも元気を貰った。
例えちっぽけでも、積み重ねる事で大きな一歩のきっかけになる、そんな事だってある。そう確信できた。
それと…
心の中から出てくるものは、実はもう、大小はあるとしても持っているものだから、自分の中にそれがないと思って、欲しいと望めば望むほど、大事な事から少しずつ離れていってしまう事も、場合によってはあるのかもしれないね。
存在してないと、そもそも認識は出来ない気がするから、小さくても存在しないと、そもそも「ない(他人よりも)」という事自体に気付けないとも思うし。
「ない」あるいは強く「ある」、と思う事で、承認欲求で言えば、実はある程度認められた経験があったからこそ、求めてしまう場合もあったんじゃないかなと。
小さなものはより小さなものに。大きなものも小さなものに。
小さなものは大きなものに。大きなものもさらに大きなものに。
そうやって良くも悪くも、感じ取るようになっていってしまうものなのかもしれない。
自分なりに考え出した答えなら、自分で実際に試して、いい事も悪い事も知っていけばいいと思いはしたんだけど、それに関しても思った事を書かせて貰えるなら…
(ご本人も言葉足らずって書かれてるし、誤解しまくりだったらすみません)
もしもやらないといけない、という思いに耐えかねたら、どれだけ頑張っても果たせない事もあるかもしれないと思えばいいのさ。
上手く行く時もあればとことん上手く行かない時もある。そんときゃ本当に笑いしか出てこない事もあるかもな。
神様は乗り越えられないような試練込みで人を試してるらしいし。(神がいるかは知らん)
それに近い考え方なのかな?と思ったんで。
義務のように思う事が出来る、その原点は自分だから、もしもその考え方に疲れたら、一旦脇におけばいいんよ。
それもチェンジに含まれるんじゃないかね。
まあ、要は疲れたら一旦休めばいいって事。
何やるにしても、間を置かないで継続し続ける事はとても難しいんじゃないかと思う。
…特に、やらなきゃいけないって部分に感じるものがあったんでね。
仕事も、お金という対価がある。だから、辛くてもやりたくない事も出来る時がある。
という事もあるんじゃないかな。
だから、理由なく、やりたくない事を無理にはあまりしない方がいいんじゃないか、ってね。
…やりたくない事も、やってみたい!やらなきゃ困る状況だから、やりたくない気持ちもあるけど、したいんだ。というならまた別だと思うけれど。
とりあえず、倫理観とかは勿論考慮した上での話だども、何かをしたいって自発的な欲求そのものは、大事にして欲しいと思ったかなあ。
捨てるというのは、承認欲求を優先する事から離れるという意味なんでしょ?
離れたいと思う。それも確かに何かをしたいという気持ちなんだろうし、目の前の事を義務として、無欲な上でやってみたい、それなら出来そうだというのも、行動に移したい欲求なんだろうと思ってさ。
最後にもお節介掛けますが、無の境地という手段を、目的にはしないように気を付けてね。(多分わかってる事かとは思うのですが、その上であえて、大事かなと個人的に思ったので書きました)
行動欲求あっての、無の境地だろうから。そうなってしまうと、せっかくそう使われようと思っていた無の境地も、上手く輝く事が出来ないから。
さあ、僧侶レベル1の始まりだ!(勝手に)
ななしさん
以下はまだお返事がない小瓶です。
お返事をしていただけると小瓶主さんはとてもうれしいと思います。