PCからサイト開いて思い出したけどここ海だったね!誰も読まないと思って雑な小瓶投下します。(海の藻屑と化せ!笑)
生きることについて時々考える。
自分は、どうして生きなければならないのだろう。首でもつって死んだ方が、より正しい人生を送れる。今後起こりうるすべての過ち、迷惑を死後の処理のみで片付けることができる。生きることにメリットはあるのだろうか。私が生きていることは何かの役に立っているか。ありがちな話ではあるが、私は消費をせずに生きているわけではない。買った食品、日用品、その生産に関わった人間の生活のわずかな足しにはなっていると思う。そして同時に殺しているのだ。自分の命にそれと同等の価値があるのか?
生きることに理由などあってはならない。命に価値など与えてはならない。生まれたら死ぬまで生きることが生物の宿命であり、そもそも疑問を持ってはならないのだろう。このような疑問がまた強まってしまったのは、たいした理由はなく、周りより責任の重い仕事を引き受けていてその任期が終わっただけだ。自分は責任感で精神を保っているところがあり、次々と面倒なことを引き受けることで死にたいと思っても「あの仕事が終わるまでは堪えよう」とやりすごしてきた。先週、任期が終わり引継ぎをして、本当は次の仕事もあったのだが断った。他人に影響が出る用事はこなすが他のことは何もできない(食事も洗濯も、下手すりゃ風呂も)自分の健康や日常生活をこれ以上ないがしろにできないと思った。ストッパーをなくした今の自分は、自分にとってはいつ死んでもいい、今死ぬのが正しい存在だ。
しばらく前に発達障害の検査を受けたという小瓶を流したと思うのだが結果は、軽くはない広汎性発達障害(自閉症スペクトラム)と二次障害の抑うつとのことだった。今も自覚してる以上に支障でてるし挙動も自閉だし職場でかなり大変だと思うから支援も考えてねーと言われた(うん知ってた)。いやふざけるな、私は働きたい、本当に働けなかったら堪えられないと思う…。
自分が「こんなふうに」なってしまった経緯の何割かは発達障害で説明できてしまうのだろう。もっと早く検査を受けていれば避けられるトラブルは幾らでもあった。また何割かは機能不全家族などで説明できるのかも知れない。誰にも言いたくない、早く死んで無に帰したいような毒物を自分のなかに大量に保存しているから理由でもないと生きられないのかも知れない。自己肯定感というよりは自己記憶肯定感というか、そのようなものを取り入れるか…。
少し話がそれたが、今の自分の状態を「発達障害」や「機能不全家族」「アダルトチルドレン」では説明したくない気持ちがある。それは骨組みの一部だけを強調しているような違和感があって、これ以上事実を自分で曲げたくない。生きづらさの原因はきっと事実を思考で曲げてきたことにある。理解力につり合わない言語力と矛盾を許せない気質が合わさって安易な自己解決に走りがちなのかとか。(発達凹凸の凹の部分が言葉にまったく追いついて来ない、言葉が勝手に突っ走ることがしんどい原因の1つで、1人で考え事をするときは矛盾に堪える待ち時間が必要かもしれないことは検査結果から思った)。分かりやすい単語に飛びついて良い思いをしたことがないのだ。
うーん。私はもう少し楽になりたい。だって私は生物であるから本来なら生きる理由作りに奔走したり希死念慮をやり過ごしたり命の価値について考えたりしなくていいはずで、こんな苦しい作業を毎日繰り返したくはない。白黒思考やめろと言われても私の考え事は白黒思考ばかりだからそれを細かい白黒にするくらいしかできないし、考え事やめろと言われてもそれで矛盾や問題は解決するのか?と思ってしまう。もっと考えた方が楽そうだからまずは他人の考えを知って風通しをよくしたくて本を読んでいる。結局は言葉にしがみついているというあれです。実際の人間関係から色々満たされたほうがいいことは分かってるけどね、それができたら苦労しない。この1年8ヶ月、いや21年?対人関係築こうとかなり努力をしたのですが、だめです、私ここに関しては本当にだめかも知れない将来不安。あとは極限状態とまでは軽々しく言えないけど普通じゃない環境をあれこれ経験してみるとかかな、刺激のない生活では抜け出せない思考だから。あんまり関係ないけどこの間 お金全然ない、食べるものほとんどない、あと3週間ちょっと何で食いつなごう…という状態になってしまってお金に対する意識すごく変わった(笑)
今もしんどいけどこれからもしんどいのだろうか。生きるか死ぬかで悩んでいるうちはまだいいけれど、死ぬしかない日が遅かれ早かれ来る。そこまで先延ばしにするほど自分の命には価値があるか。今度は失敗しないだろうから慎重になっているし、結論を出すには物足りないからまだ待つが、今死ぬことが本当に正解と確信したら死ぬと思う。他人の詳細は知らないので何とも言えないけれど自分のことは知っている。自分が本当に死ぬべき存在であるなら、生きていることはおかしいんです。
書くの面倒になってきたからやめよ。毎日ぐるぐる回っている考え事をすっきり文章にまとめるなんて無理な話。大学なんて行って何になるの、どんな仕事して生きようか、頭よくなりたいなー、借金やだ、勉強したい、身内と縁切りたい、海王星の季節変化について、イマジナリ―フレンドについて信仰と宗教その他もろもろ希死念慮との共存とか、矛盾が嫌いと言いながら(だからこそ?)余計なことばかり考えて死にたくなりながら暮らしております。
Hatose
名前のない小瓶
48063通目の宛名のないメール
お返事が届いています
ななしさん
hatoseさんほど賢くないけど、hatoseさんのぐるぐる思考には自分の過去の中に既視感ありました。
死んどくなら早い方がいいな、と何度思ったことか。
現在、かなり甘やかされて暮らしています。子供もいまして、死んではおれない状況です。いや、死んだら死んだで子供達も元気に人生を送ってくれるんだろうと思って腑抜けています。
ちょっと家庭つくってみては?(提案)
私の場合ですが、子供を育ててみてようやく、これ以上やんなきゃいけないことって特にないな〜、あとは適当に生きて程々のところで死んどくか、みたいな感じになりましたので。
ななしさん
その白と黒
「正しい」と「正しくない」
のかわりに
「好ましい」と「好まない」
に変えてみるのはどうだろう。
矛盾は矛盾したままでも
いい気がするけどなあ
むしろそれが自然のような気がする。
生きたいのに、死にたい。
死にたいのに、生きたい。
たぶん自死を考えるほとんどすべての人が持つ、とても自然な矛盾だと思うよ。
矛盾してるな~自分。あはは~
って、笑っちゃえ。
白黒つけられない矛盾に満ちた世界を
白黒つけたがっちゃう
かわいい自分を笑っちゃえ。
笑いながら、泣いちゃえ。
泣きながら、怒っちゃえ。
怒りながら、笑っちゃえ。
矛盾いっぱいしちゃえ!
矛盾したまま、生きちゃえ!
(この世に生きるみんな、そうだと思うよ(^_^))
(あと「不食」って知ってる?(知らなかったら調べてみて)皆が皆、すぐにできることじゃないかもしれないけど、
その存在を知ってれば、究極、不食の人になればいい!って、少し気持ちがラクになるかも、と思いました (^_^))
ななしさん
とても心に染みる文章です。
いろいろ大変な事が続いた事でしょう。
人は誰かの犠牲で成り立っている訳ではないけれど、頑張りばかりでは辛すぎる。
時に支えあって、お互いを思いやる事が大切だと思う。
何故なら同じ時間を生きて、互いに不安な未来に向かって生きているのだから。
本音で死んで欲しくはない。
主様のハンディと戦って来た事を、決して無駄にしたく無い。
周囲に理解者が居たのなら、全然違った人生だったのに。
主様の年齢や性別も分からず失礼な事とは思いますが、この小瓶を見て「兄弟姉妹だったらな」と正直に思いました。
同情なんかじゃ無く、これだけ頭の良い人なら、同じ職場に入れて同じプロジェクトをしたいなと思った。
人間関係が嫌なら、僕の財産を使って投資家でも良いななんて、勝手に思いました。
あなたは生きる価値の有る人です。
海鮮丼より
烏羽
俺もちょくちょく生死感のようなものについて考えてた。
まとまりもないし、読みにくい上長文なので、もし読む時は気を付けてください。
なんだろね、自分が考えてきた事と、Hatoseさんの小瓶から考えてみると、生きる目的や理由、価値とかを考える上で、前提がないとなかなかはっきりしてこなかったんじゃないかって思う。元がもともと、曖昧な気がするし。
結局、自分としては、白黒だろうが白と黒の両方だろうが、混じり合った灰色だろうが、そうやって細々と、白と黒を付けていく事しか、出来ないのかもしれないとも思う。
自分自身が、できてこなかったと思ってる。
その上で、俺としては、生きなければいけないのか、死ななければならないのか、何が正しくて何が悪い(とされている)のか、そういうはっきりした事もわからなかったから、前提から考えてみたんよ。
そうしてできた前提っていうのは、自他共に、多分、どう生きたいか、どんな事があっても、どんな自分として生きていきたいのか、あるいは逆に、なぜ死にたいか、なんで死にたいと思う、感じているのか、そんな感じの気持ちなんじゃないかなと考えてみた。
順序というか、その上で考えたり、行動してみたり、その後にまた考えてみたりする事で、少しずつ形が見えてくるものなのかもしれないな、って。
今はほら、苦しかったりしてさ。
このまま生きていく事に思いを馳せると、死ぬのが(何らかの感情や理由で)正しいという、前提で考えている可能性があって、死というものへ重点が行っているのかもしれない。
俺は、そこらへん、文面を読んだ限りHatoseさんと価値観が違うんだと思ったんだけど、生き死にどちらにも、理由をつける事は正しいのか、悪いのか、よくわからない。
理由が正しい場合もある、そう言えたり、思ったりする事も、そうじゃなかったり、逆に正しくない事もあるだろうと思う。
一概には言えなくて、迷ってる。迷ってるけど、それでいいんだとも思う。
色んな、人それぞれ違った価値観があるからこそ。
確かに考え事をやめても、矛盾や問題が解決するとは限らない。
でもそれは、考え事「だけ」を、生きている中でしていた場合においてしか、確実だとは、個人的には思えないかな。
だから、そうじゃないなら、解決しないとも思えない。(事細かすぎるので、そこら辺不快に感じる要素があったらすまん)
でも、考える事が辛くなってきたら、一旦手を止めるというか、休んだ方が良い時もあるかもしれない。
白黒思考をやめろって、伝えたいわけじゃないよ。しているかどうかに重心のある話をしたい訳でもない。
ただ、自分自身が白黒、どんな風に付けているのか、白か黒かは判然とわからないけど、こう考えているんじゃないかと更にそこへ白黒付けて考えて、白黒を超える方法もあると思うんだ。
自分の考えに常に疑問を持とうとするというか。(お勧めはしないが、一意見として)
事実を思考で曲げられるという事は、事実だと思うイメージのような価値観を思考で歪められる事かと考えてみる。
もしもそういう事なら、それは思考で思考を変えている、いい意味で変える事ができる、という事にもなるかもしれない。
今までの事から、その事の、悪い側面の1つを学んだんだろう。多分。
例え白黒思考ばかりだからといって、「これからも」それしか出来ないのか、それを変えられないのか。
可能性としては考えられるだろうけど、事実としてはそういう可能性がある、というだけで、事実に確実に結び付いたか、結び付くか、と思うと、わからないと思うし。
(振り返れば、そう結び付けて考える事が俺自身よくあったので)
これに関しては、自分なりの根拠があろうと、他所の人の根拠があろうと、わからないのは同じだと俺は思う。
ややこしいんだけど、どう足掻いても、本質的な第三者の目線に立つ事が出来ない、と考える事もできなくないし。
そう言う風な考え方をする、という前提からは、1つの側面、かもしれない。という捉え方は出来ても、その全てであるとはどうも考えにくいじゃない?
俺も理解力に見合わない…というか、内容とか事情とか、細かな要素は違うだろうけど、知ったかぶりで、意味もわからずなんとなく言葉を使う事がよくあったから、それに悩んだりした上で、言葉1つ1つに対しても、そう思ったんだよね。
障害だかなんだかは、専門知識がないので正しい知識で触れこむ事はできないけど、それを知った上で自分自身への対応というか、成長というのかをする事はできると思う。
それは決して生やさしい道ではないのかもしれないけれど。
因みに、日記を書くと、記憶力の向上に繋がる、「らしい」。
テレビとかの知識なので、完全にあてには出来ないけど、カルシウム、ちゃんと摂ってるかー?
摂り過ぎは、まあどんな栄養でも困るのかもしれんが、牛乳とか小魚とか、大事みたいだぞ。(どんな事に大事なのかまでは知らぬ)
今はまだ無理かもしれないけれど、いつか、ほんの少しだけでも、考えはすっきりまとまる事もある、かもしれない。(逆の可能性も勿論あるかもわからん)
言葉や、矛盾という価値観への理解力が足りないなら、材料を集めつつ、理解出来るまで少しずつ、積み重ねてでも自分でゆっくり考えてみる事ができるなら、それでもいいじゃないか。
意味がわからなくて上手く使えない言葉があっても、使えない言葉がない訳じゃないだろうし。
(余談だけど俺は、意味がわからないとか、自信のない言葉は出来るだけ、逐一辞書を引くようにしたりして、そこから考えるように心掛けてる)
現実問題、直面している対人関係やら、問題に口を挟める訳ではないし、俺がどうこう出来る、確実な改善策を掲示できるとも思ってないけど、そう思って、自分は生きてます。
その点、一意見としては、Hatoseさんが矛盾なんかを知りたいというのなら、考えた事、言葉にしようとした事は、余計な事ではないと思うよ。
今はそう思えない、価値観の中にいたとしても。
頭の中には自分が作ったり、落とした価値観の盆栽だらけさ。
その中で、趣向が変わって、カットの仕方が変わるものもあるだろう。
落として積もり積もったものにだって、価値を見出す事もあるかもしれない。
俺は今でもカットしている。
盆栽を叩き壊したり、棚に飾ったりつもりになったりしている。
飾ったつもりのものの中でも、時が経つと何か違うと思って叩き壊す事があれば、それもまた面白いものだと思い、壊さず残す事もある。
伸び放題のものもある。
同じ過ちを繰り返したり、それを悲しく思ったり、面白く思ったり、思おうとしたり、思おうとしなかったり。
俺はずっと、盆栽をカットし続けるだろう。
勿論、あの時の盆栽とは意味も、下に散らばってるものの数も、選んだ鉢の数も、選んだ土も、切り揃えたり育てようとしたものも違うがね。
つまるところ、生きる意味に理由は果てしなく付ける事、作る事が出来るし、死ぬ事に関しても似たようなものかと思う。
理由などない、という意味(理由)を付ける事も。
忘れてようが忘れてまいが、悲しいとか嬉しいとかを抜きにして、今と昔は違う事が、違うと思える事こそが、先の為に肝心なのかもしれない。
頭の中の盆栽をカットし続けて何年目になるんだろう…。まあいいや。
その中で、そういう価値観を見つけた。
そういう刈り方を、多分俺は見つけたんだよ。
いろんな価値観に、いろんな趣があるって事をさ。(だからと言ってどうという事もないが)
とにかく今は、お疲れ様。
インフルとか風邪には気を付けて、喉を大事にね〜。
まりちゃん
自営くらいのアットホームスタンスで
出来る業種って生き方もあるよ。
いわゆる得意なことを、グーンと伸ばして
それで、メシを食っていく生き方。
一緒にいたいひとがいるなら
およめさんでもいいじゃん。
既存の枠に、合わせないとって思うから
合いづらい自分を発見するたび
せめてしまうとか、あるんかなぁ?
(しらんけどな)
以下はまだお返事がない小瓶です。
お返事をしていただけると小瓶主さんはとてもうれしいと思います。