心細くなった時、不安になった時には、気付いたら自傷痕を撫でている
見れば安心できるし、新しく刃を向けないという我慢の結果だと誇らしく思う
傷跡そのものに依存するなんて、リストカット全盛期の私からすれば驚くんだろうなぁ
私の自傷理由は自罰感から来るものだったから、入れれば入れるだけ自分を許すことができた
その傷は他人に見られないところにあるものほどスッキリできた
その衝動に耐えて6年になる
幻聴だと頭では理解していても自分の体を乗っ取られたかのようなあの感覚は、日増しに酷くなっていった
それを他人事のように思えるからこそ、私は私に興味がないのかもしれない
どこかで目にしたが、自傷行為をする人は自分が大好きなんだそうだ
わたしはわたしにすかれるようそがあるのか
自傷癖が母親にバレた時の反応は酷かった
縫合しなきゃならんレベルの傷を入れた時は凄まじい達成感を味わえたけど、なかなか止血できずに難儀した
どういう心境だったのかも、何故それまでよりも思い切った傷口を入れるに至ったのかも、今でもはっきりと覚えている
その日は登校日で、だから保健室で追加の処置をしてもらった
あの時、養護教諭の『誰にも言わないから』を信用さえしなければ、まだ同じストレス発散方法を今も使えていたんだろうか
たられば、なんて嫌いだけれどそう思わずにはいられない
今から思えば、養護教諭がそう言おうと担任へ伝えることも、そこから保護者へ伝わることも予想できることだった
だからといって、その日帰宅した私へ開口一番に「あんたの内申はこれで下がったからね、先生たちも大慌てしてたでしょう」と言われることになるとは思ってもみなかったのだと反論したい
馬鹿馬鹿しいじゃないか、私が初めてカッターで自分を切りつけたのは小学校4年からだ、その時は看過した癖に
今に始まったことではなかったんですよ、それを知らないからこそ「構ってほしくてリストカットなんてしたんでしょ」とかいう発言になるのだろうけれどちゃんちゃらおかしい
さらに、その翌日には顔を見たくもない親戚から「私たちはあんたのこと好きだからね」なんて偽善者ぶった電話を受けることになると予想できた者はいるのか
自傷について「やめてほしい」だとか「そんなことをしても何の意味もない」と捲し立てる親戚の声を聞きながら、考えていたことは血の繋がった母への諦めだった
怒りも勿論あったけれど、それ以上に言いふらされたことが衝撃だった
正直に書くなら、私は母が言いふらさないだろうと期待していた
母は強い人ではない、父や弟のように何も言わないなんて出来るはずもなかったのに
(妹は私をさして「病んでいる」「空っぽだ」と言う
間違ってはいないし、私自身もそうだと思っている
その答えに満足したから、それまで嫌いだった妹が途端に可愛く思えた
一方通行だけれど、前よりはましだと思いたい)
あの時の私は親戚に何と返事をしたのだろうか、記憶にないのなら覚える価値もないと判断した結果だとは思うけれど
自傷したいという欲求が消えることはなかったしこれからも変わらない
いつまで私はあの約束を守れるだろうか、自分でも自信がない
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「ヤメル」っていうのはね「ゼンブ」なのよ「スベテ」なの
「ちょっと」だろうが
「少し」だろうが
「一瞬」だろうが
「やってる」ってことに変わりないの
何かを「ヤメる」のも「ヤる」のも
成し遂げるという意味では同じなの
必要なものは行動と誠意
対象が何であれ、誰であれ、何かをスル、もしくはシナイって決めるのは、自分と約束するってことなの
そして、その約束をするのも破るのも、自分。
誰も自分の約束を肩代わりしてくれないからね
アナタが自分で考えて自分で決めなきゃいけないのよ
誰かの都合や助言じゃなくアナタにとって、ソレは必要なのか
誰かに迷惑をかける
でも、やりたい、それだってアナタの意志よ
それを無視して他人がこう言ったからとか世間体とか、常識とか考えて行動してたら結局辞められない
やめられるわけがない
だって「アナタ」は納得していないし
そんなんじゃ「アナタ」は「アナタ」と約束出来ないもの
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あのルールを、【いま手首にある自傷痕が消えるまで新しく自傷しない】を課した時、はっきりと思ったことは『理解はしても納得はできない』だった
周囲の物にも人にも八つ当たりしないで済む画期的な方法だと今でも思っている
人様にお薦めできる方法ではないからPRなどするつもりもない
自分が迷ったら読み返すためにこうして綴っておく
要は決意表明、これまでの6年間はそれを誰にも伝えず己だけで処理していたから衝動に負けそうになった
誰に拾われなくとも良い、ただ吐き出したいだけ
それを私が忘れないのならまだ余地はある
今更純粋無垢なんて望むべくもないけれど、これ以上自分に期待しなくて済むなら僥倖よ、ギョウコウ