自分がやってきたことを無駄ではない、正しいことだとするために情報を得て理論武装。
そういう人が多い気がする。
折角視野が広いのに、自分のことを美化する為にその柔軟な意見から取捨選択してしまう。
死にたくなるほどの苦労は「むしろ苦労がなければ私はダメだった」
いじめられたことを無駄にしたくなくて「いじめられたから大切な人に出会えた、優しくなれた」
イジメの罪悪感を抱えたくなくて「いじめられるのは弱いから」
私はセックスしたかったけど結婚前まで我慢したから「できちゃった婚はこういう理由でいけない。婚前交渉を拒んだから別れるなんて狭量だ」
私は学生で子供ができたけど子育てしてきたから「学生であろうと若いうちにもっとセックスして子供産んで然るべき。糾弾される謂れはない」
私は耐えたから「耐えない人はダメだ」
耐えきれずに逃げ出したから「耐えるだけのやつはバカ」
卑近な例だとこういうものがある。
ある面から見ればこれらの意見はすべて正しい。有益な意見もあるだろう。ただ、その人の素性が見えると「自分のこと美化したいんだなぁ」と思うことがある。
自分のことを第一に考えずに意見を持てる人は素晴らしいなと思うし、尊敬する。
自分の正当化、過去の美化ありきの理論武装は、醜いなと最近になって思う。
そういう動機の意見が、巷には溢れている。私含め、大抵の人の意見は、そんなもの。
そうは言っても、いつまでも無駄なことだと捉えていると憂鬱になりかねないので、脳が勝手にバイアスをかけてくれる訳なのですがね。
自分だって、たぶんそう。ただ、自覚して生きていたいなと思ったんだ。
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正しいんだけど正しくない。
僕は何処か後ろ向きな理由付けにそう感じます。言い訳していますよね。自分の人生にも、社会にも。僕はよく、言い訳するなと言われますが、これこそが本当の言い訳というものだと思います。
自分らしく生きていない。
世間一般の考えに合わせ、凝り固まっている。
そう感じます。
窮屈ですね。楽しくない。息苦しさすら覚えます。
僕が常日頃感じている事ですが、それよりも卑屈であると感じます。
皆が皆、全てにおいて自由にしたら大変な事になるのは必然なのかもはしれませんが、大事だと感じているところだけは自由という息継ぎをしても良いのではないか、と僕は思います。
幸福というものは人それぞれ形が違う訳ですが、それら全てが権利によって保証される事を僕は望みます。
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