いつも何気ない会話から一点でも気になることがあるとそこからもう収拾がつかないくらいの感情までに発展するなんてことがよくあるのだが、
今日は母からのきっとなんの気もない一言から今までの自分の人生への大きな後悔であったり、哀しみにまで到達してしまった。
朝食は食パンと卵焼き。いつもの違う感じがいいなあと思い、巻き卵ではなくスクランブルエッグにしてもらった。
きっと使っている卵の量であったり調味料も変わらないはずなのだが、なんだかいつもと違う感じがして少し嬉しくなった。
そこでわたしは
「なんかいつもと違う感じがする〜!容量とかかな」
などと言ってみた
すると
「容量????なんのこと?」
母はちょっとしたことでも言葉の使い方が違うと突っかかってくる(まるで某番組の様)
私「あー、卵の量」
母「そうよ、容量なんて言ったらお皿のほうを指すんだから。」
私「(めんどくさ)」
母「一々言葉の使い方に突っ込む母親(笑)」
この会話の最後の一言に私は引っかかってしまった
「だから話すのが嫌いになったんだよ」
私は小さい頃、親の仕事の都合で海外に住んでいた。日本の義務教育とやらの半分程は受けていなかった。
その為か、私の母は「娘には日本人としての必要最低限のことが身についていない」というイメージがついているらしい。
確かに日本語学校には週一で通っていたものの、たまに見るアニメやマンガ、家族との日常会話以外から日本語を聞く機会が少なかった。帰国後は擬態語擬音語に少々苦しんだ覚えもある。
うちの家族はみなそれぞれ物知りで、勤勉だ。社会人の義務としてニュースは毎日チェックしているし、新聞も時間をかけて読んでいる。読書家が多いからか家にある本の量もかなりある。それに加えて興味が多く、国際情勢やスポーツ、世の中の人が話題にする様なことは結構知っている方だと思う。物知りな家族にわたしはいつも「なんで?」「どういう意味?」「どうして?」といつも聞いては説明をさせていた。
そんな環境に囲まれて生きてきたわたしは「知らないことは恥」なんて雰囲気を恐れるようになる。
大学受験勉強を始めたばかりの頃、勉強が苦手だった私は世界史が得意な母と兄に色々聞こうと楽しみにしていた。「この国はどこ?」「この戦いってどういうこと?」「この時の時代背景って?」歴史に詳しい2人なら自らの知識を存分に披露してくれる、なんて期待をしてしまったことを後悔した。
自慢ではないが、私は驚くほどに勉強が下手である。テストがあれば平均点取れるか取れないかギリギリのライン。好きな教科の授業は楽しいが成績にはなかなか反映されない。(集中力がもともとない為に授業を真面目に受けることができなかったのも原因の1つかもしれないが)
受験期は私にとって苦痛でしかなかった。
なによりも苦しかったのが家族からのなんの気もないはずの威圧だった。
少し行き詰まったとき、世間話程度にある問題への意見を聞こうとしたところ
「そんなこともわからないの?」
「こんなんで受験生とは聞いて呆れるね」
「本当に勉強してるの?」
基本的な問題を聞いた時ほど言われるのである。ド忘れ程度でもだ。
本当に苦痛だった。
自分なりに頑張っていることもあるし、最初に比べたら知識もそれなりに増えた。なのに。
「こんなことも知らないなんて、恥ずかしい」
もともと人との会話が苦手であったわたしには家族との会話を諦めるには十分な言葉であった。
自分の持つ意見はどれだけ間違っているのか、自分の考えはどれだけ社会に不要なものなのか、
なにが意地悪って「恥ずかしい」なんていいながら答えを教えてくれなかったのが余計に自分の感情を刺激していたと思う。
わたしは受験期における小論文問題に割いていた時間がとても貴重であったと思う。とくに哲学的な知識が必要であった時。この時にわたしは様々な考えを知ることができた。
特に気に入っているのが
「無知の知」
である。
知らないことは悪いことではない。でも「知らなかった事を知る」ことは人間にとっては素晴らしい経験なのだ、みたいな言葉。
知らないことは恥ではない。むしろ新しい発見ができるいいチャンスなのだ。そんなはずなのに、なのに…
と、まあこんな感じで巡り巡ってあらゆる方向へのdisまでに成長していくわたしの頭
こんな考えはとりあえず文字に起こしてどこかへ流れてしまへ〜〜