私は今生きている。死にたいけど死ねない。死ぬのが怖いから。痛そうで嫌だから死ねない。死にたいのに死ねないことほど悲しくて辛いことはない。私は誰かの生きる希望理由になれたかな?私はなんのために生きているのだろうか?私の生きる理由さえ分かればいいのに。ないから死んでも別にどうでもいい。
名前のない小瓶
67916通目の宛名のないメール
小瓶主の返事あり
お返事が届いています
名前のない小瓶
(小瓶主)
頭の中は死ぬことでいっぱい最近痛くないかもしれない死に方を見つけた高いところから一気に飛び降りるこんなことがてきたなら今更こんなに苦しまなくて済んだのに
名前のない小瓶
私もそう思っています。
あなたも私も
なんのために生きるかを
探すことを生きる理由に
してみませんか。
烏羽
あるだろ。
痛そうで嫌。死ぬのが怖い。
少なくともそれだって生きてる理由だ。
だから死ぬのが嫌で、生きたいんじゃないのか?
俺には文章から察する事しか出来ないし、その察する事ですら大したものじゃない。
辛い事があったのかもしれない。苦しくて悩んでいるのかもしれない。それだけだ。
ただ、それだけは、そうなんじゃないかと考えてる。
生きているのが苦しいのは、言葉の通り生きている事が苦しいんじゃなくて、生きている中で、あった一つの要因が、辛さや苦しさになってるんじゃないかと思う。
でも、それをどうしようかと悩んで、それでも上手く答えは出せなくて、問題もなくなる訳でなし、苦しんで。
そこから抜け出したい、どうにかしたい、だから、一つ、死んだらどうなるのかを考えたんじゃないだろうか。
実際どうかは解らんがな。
自分語りなんて興味はないだろうが、俺も死にたいと思った事があるし、それに対して十数年悩んだ。
首吊りなり山で身を投げようとするなり、大した怪我もない程度のものだったが、自殺未遂もした。
死ぬのが怖かった、それが死にたい気持ちに勝ったのもあったんだろうな。
それでも、死にたいながらに、なあなあに生きてきた。
強いて言うなら、今でも、食材、食べ物、命への感謝や申し訳なさから、背中を押されるように生きてるだけだ。
実際一歩間違えれば死に掛けた事もあったが、死ぬ間際抵抗しない訳でもない。
死ぬ時は死ぬんだろうがな。
それでも、それなりに、自分の思う事に納得やら理解やら、自分自身との向き合いやら、引きこもり続けて、だらだらと考え続けて来た。
何を誇れる訳でもないが、何もしてない訳でもない。
以前よりは…、死にたいとは思わなくなったが、まあ、生きたいとも思ってはいない。
一応やりたい事はあるんだがな。
例えば、平和に過ごしたいとかだな。
ゆっくり過ごしたい、平穏な時間を過ごしたい。
楽しい事もあってほしいし、ゲーム程度の、簡単な乗り越えられるようなものならば苦しみも楽しみに変わる。
生きる理由があると言えばそうではないのかもしれないが、そういった、今俺が生きている理由ならある。
小瓶主さんにもないか?
暖かい布団で寝たいとか、美味い飯が食いたいとか。
上手くいかなくて悔しいとか、悲しいとか、もっといい事があってほしいとかな。
神さんがどうとか、そんなもんは知らんがね、思い浮かぶとしたら、実生活のそういうのが理由の一つなんじゃないか。
まあ、人生を振り返るのに遅いも早いもないと思うが、同じように、死んでいい理由を考えるのにも遅いも早いもない。
生きていきたいと思えるような意味も同じよ。
小瓶主さんがどうしたいかは、主さん自身にしか決められないと思うのでね、俺は生きて欲しいとも死んで欲しいとも、どうも思わんよ。
少しは、死んでほしくないとは思うかもしれんがね。
誰かの為に生きたい、希望になる何かを残したい、いつかの俺も、多少はそう思って、それでここまで来て、こんな事を書いてるのかもしれん。
せめて自分という生を残さないように、それでも何かを、生きた証を求めたのか、生命体の構造がそうさせるのか、よく解らんが。
よく解らなくとも、元々考える事自体は嫌いじゃなかったんで、そのよく解らなさに救われているとでも言うのかね、現状はそうだ。
死ぬ理由、生きる理由、そんなのは、他の誰に向けたものであろうとなかろうと、誰を起点にしていようとなかろうと、自分自身の中にしかない。
主さんは、人から、あなたにはこういう生きる意味があると言われて、納得できるか?
これこれこういう死ぬ理由があると言われて、合点が行くか?
生の半ばで見出した、自分の生きる理由や死ぬ理由に、満足が行くか?
そもそも、今までに生きる理由や死ぬ理由を考えて、生きて来たか?
なんでもいい。
なんでもいいが、人は意味を作る事が出来る。
自分の為か、誰かの為かなんて判然としない、あるいは、その両方の為の、なんらかの意味だ。
ああじゃないか、こうじゃないかと、考える事はどれだけでも出来る。
だから、自分の心そのものを分ける事も出来てしまう。
矛盾のある意味も難なく作り出して、正しくあるように整頓できてしまう。
だが、それも生きる事の一端だ。
ある時は理性と呼ばれたり、ある時は感情的とも呼ばれる。
強いて言うなら、それは、生きている理由を作り出している一つの要因なのかもしれんな。
たった二十数年、されど二十数年、俺が得た生の一端は、自分の内も相手の内も、確実な事は解らないって事だ。
そして、ある程度ならば、解るかもしれないって事だ。
返事なんてなくてもいいが、主さんはどうだ。
何か、振り返って、得たと納得出来るようなものはあったか。
楽しさでも苦しさでも、なんでもいい。
とりとめのないような事でもなんだっていい。
俺はそれらが、どんな理由にでも出来ると思っている。
…やろうとも思わないがな。
やろうと思わずとも、人間は普段から、良くも悪くもそういう事をしているだろうから。
そんな中で、何か大切な事があるとすれば、それらを何に活かすか、少なくとも、知り得る所の人間は、選択できるという事だろうか。
選択したとして、行動に活かせるかどうか、実行するかどうか、その理由に従うかどうか、また良くも悪くも、それらは全て別の事なんだろうがね。
勇気が出ない、なんて、大きなリスクや衝撃があるであろう、と思えるものに直面した人は言う。
俺もそのうちの一人だ。
だけど、大したリスクもなく、簡単に手が届く事、手を出せそうな事…、例えば鼻毛が気になれば抜くとか切るとか、今やっているようにダラダラと文字を打ち込んでいる事とかだな。
それは勇気なんてものを気にしなくても出来る。
まあ、誰ぞ人に対して何かしらの意見を書くというのも、実は勇気の要る事だと思うんだがな。
もしも、主さんに生きる理由、生きていたいような理由がかけらでもあるというのなら、それを見えなくさせるくらい、生きている中で嫌な事とはなんだ。
答えなくてもいい。
少なくとも、それを乗り越えるために生きている訳じゃないから、死にたくなっている事だけは確かだ。
そんな苦しくなるような事の為に、生きてる訳じゃないだろう?
名前のない小瓶
生きる理由を持ってる人は
どれくらいいるんだろうね
私も死にたい。
早く死にたいって、1日何回も呟く
つらいね
以下はまだお返事がない小瓶です。
お返事をしていただけると小瓶主さんはとてもうれしいと思います。