レベルの高めな高校に入った。自分の為じゃない。この時はまだ大学なんて具体的に考えてなかった。勉強して、良い成績を取ったら褒められた。だから、受験というものが初めてだった私は、なるべく高いレベルのところに入るという選択肢以外、考えられなかった。その高校なら、自分のレベルもより上げられて、まだよく分からないけど難関大学に行けるかもしれないと思っていた。
無事合格し入学したが、その後は散々だった。内申重視で入った私が、試験の実力がある周りの生徒に追いつけるはずがなかった。いや違う。そんなの頑張り次第だ。私が頑張らなかったからだ。でもそう思いたくなってしまう。自分を正当化したくなってしまう。
勉強を怠けていた記憶はない。だけど、血反吐を吐きながら勉強していたわけじゃない。それでも月日を重ねる度、目標大学のレベルは落ちていった。
そのうち、黙々と勉強をする周りの優秀な生徒が怖いと感じるようになった。私は、「周りの生徒と私は価値観が違うんだ」と思うようになった。そんなの言い訳にすぎなかった。
仕舞いには、第1志望で受かったはずのその高校に入ったことを、後悔してしまった。
「ワンランク下の高校に入っていれば、こんなに辛い思いはしなかったかもしれない。」
悩みを聞いてくれる親や先生に、そう言うのが辛かった。
大学受験の際に要された"自分の為に"勉強することは、私にとって初めてと言ってよかった。だから、プライドも、難関大学への執着も無くなった私は、酷く困惑した。
「皆は頑張って高いレベルの大学を目指している…私も目指したほうが良いんだろう。でも、あんな思いはしたくない。ほどほどがいい。」この気持ちは、しつこく私にこびりついた。
レベルの高い大学に入る人間なんて、どれほど少ないだろう。入れなかった人間は、人生どん底なのだうか?多分だけどそうじゃない。いわゆるFラン大学に入る人達は、大学に入らない人達は、どういう気持ちなんだろう。ちゃんと幸せになれるのだろうか。皆は難関大へなぜ行くのだろう。やはり自己満足なのだろうか。
とにかく自分が、人として認めてもらえればそれで良かった。だけど、受験生というものは、努力して、頑張って、全力でやって、合否に関わらず涙を流すものだ。それに比べて私はどうだ?
「全力で頑張らないのが受験生か?」「最後まで粘らないのが受験生か?」
「ほどほどで終わらせるのが受験生か?」
「それは人としてどうなんだ?」言わずもがな、人として最低だった。
私は、頑張った証を欲しがった。「頑張れない」と嘆いて、それが「頑張らない」ことだと知りながら。私は、命の危険を感じさえしないと、頑張らないのだと気づいた。頑張らない自分に苦しむくらいなら、殴られながら強制的にも頑張りたいと思えた。
頑張った証として、私は最終的に体の傷を選んだ。
切れ味の悪いカミソリを、腕に強く押し付けた。本気で切ろうとすればできるかもしれないが、皮膚が破れる感覚が怖くて、押し付けるだけにした。押し付けた痕が残るのを、嬉しいと思った。そして、すぐ痕が消えてしまうのを、寂しいと思った。
消えない痕を残すのにも、皮膚を切るという努力が必要なのだと気づいた。努力をしない自分は、当然そうしなかった。
既に、自分にとってほどほどの大学に受かっている。第1志望(としているだけ)の大学は、繰上げ合格候補になった。その後の入試には出願した。
自分にとって何が正解なのかわからない。第1志望に受かったとして、「今度はきっと大丈夫」と入って再び後悔すれば、今度こそ死にたくなってしまう。怖い。いや、自分次第だ。わかっている。全て言い訳になるのも、わかっている。
せめて私は、嫌なことでも頑張る自分になりたい。