先日、「他人の不幸は蜜の味」を具体化した様な性格の方とお話しする機会がありました。
その人は「他人が不幸になってるのは見てて楽しい」と私に言いました。
ですが、私はそんな風には思えなかった人間なので「そうかな、私はみんなには幸せになってほしいけど」と言うと、彼は「うわぁ、偽善者だね」と言い返してきました。
偽善とは何なのでしょう。もちろん、書いたままの通りなのですが。
他人の幸せを望むことは偽善になるのでしょうか。
私は幼稚園に通っていたころから中学にかけていじめを受けていました。
物を隠されたり、悪口を言われたり、暴力を振られたりしてました。
その影響もあってか、周りの人には「こんな嫌な思いはしてほしくない」と感じるようになりました。
勿論、幸せアピールや惚気話は確かに好きではありません。
ただ、どんな形であれ個人が頑張って勝ち取った幸せを見て「不幸になればいいのに」などは決して思いません。
逆に不幸な人を見ると辛くなります。エゴみたいなところはありますが、胸が苦しくなってしまいます。
これらすべてが偽善だというのであれば、私は一体何を思って生きればいいのでしょうか。
涙を流しながら「不幸になればいいのに」と言えばいいのでしょうか。
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キングテレサ
その発言をした方は、人として「終わっています」ね、それを言ったら終わりですよ、人の不幸を楽しむのはありえないですよ!あなたはどこも「偽善者」ではありません!それは信じていいですからね、あなたの心に優しさがある時点で、あなたは「立派な人間」ですから。
名前のない小瓶
はじめまして。
素敵な考えをお持ちの方ですね。
わたしは見習いたいと思いましたよ。
れいくん
そんなことはないと思いますよ。
俺は自分の陰口を言ってくる嫌いなひとの不幸を願うことはたまにありますが、人の不幸を喜ぶことはできないですね。見ててこっちまで苦しくなってきます。
それに偽善の定義なんて、誰かが決めるものじゃないですし。その彼はあなたの気持ちが理解できないんでしょうね。
まぁ全くおんなじ考えの人なんて居ないので、そんな考え方をする人もいるんだ、くらいでいいんじゃないですかね。
あなたはあなたです。
人の幸せを願うことは素晴らしいことですよ。偽善だなんて勝手に言わせておけばいいんです。
あなたの幸せを願っています。
ななしさん
「偽善者だね」発言はただの僻みだと思います。
私はどちらかというと、他人の不幸は蜜の味側の人間です。でも、そう感じてしまう自分は醜いと自覚しています。だから、主様のように心から他人の幸福を願える人に出会うと、自分の醜さが露呈してしまうような気がするのです。だから「偽善者」などという発想に逃げてしまうんです。
偽善者のレッテルを貼るのは、他人の幸福を願えない人間の自己弁護であり逃げです。
その美しい考えをどうか捨てずにいてください。私も主様のような考え方ができるように努力をしようと思いました。
ななしさん
自分も同じです。辛い経験からそういう優しさを得ることができると感じています。しかしながら自分は仕事がうまくいき、立場を得ることによってその優しさを失いかけていました。得ることによって失うものもあるのだと思います。その後転職し、また思い出しました。自分の場合ですが、状況によって得たり、失うものであれば、それはまさに偽善なのではないかと思っています。大きなものを得ないように、これからは生きようと思っています。自分はそれが一番大切だと思うので。
貴方がそれを忘れない事を願っています。本当の優しさが存在する事を願っています。
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