「100点じゃなくてもいいよ。80点で充分だよ」
「適当で良いんだよ」
とても優しい言葉だと思う。頑張りすぎている人にはきっと救われるような有難い言葉何だろう。
けれどね、私はひねくれてるから思ってしまう。
あなたは良くても私は駄目なんだよ、と。
私の点数とあなたの点数が必ずしも一致するとは限らない。
私の100点がやっとあなたの80点かも知れないし、或いは70、60、20点かも知れない。
結局の所採点者はあなた。OKをくれるのもあなた。
適当にやって、それであなたは本当に納得してくれる?
私は社会不適合者だから、己の無能さを自覚している。
だからごめんなさい。100点じゃなきゃ駄目だ。
私の80点が本当にあなたの80点と一致しているかが怖い。答案用紙を全て埋めた所で、その段階で100点とは断言できない。
勿論世の中点数で簡単には判断出来ないことが多い。
家事・仕事・人付き合い等は点数で判断できない。
私だけが良くても駄目なんだよな。相手がいるから。
だから今日も明日も明後日も100点がとれるように頑張らないといけない。
コミュニケーションは相手の正解を探す作業だと思う。
私に聞いているが、実はもう既に答えを持っていることが多い気がする。
そしてその答えを考えて選ばないとコミュニケーション失敗となる。
否定的・ネガティブな言葉を極力使わず、相手を傷付けない様な、それでいてオリジナリティ溢れ、自分の意思を持った言葉で返す。会話はテンポが大事なので間を空けずに早めに返す必要がある。
相手に媚びを売る訳ではなく、いわゆる「空気を読む」ことが求められる。常識が必要とされる。反対意見であれば尚更配慮が必要だ云々。
そんな事を考えていたらコミュニケーションをとる気力が無くなってきた。ただひたすら辛くてキツイ作業だ。
「考えすぎだよ」
私にそう言うあなたはきっと、これがそつなくこなせるんでしょうね。そつなくこなせる人に、「普通に」出来る人には分かりはしない。分かって貰おう何て思ってないけど。
大体・適当・おおよそが分からないから、自分の中でマニュアル・ルールを作らないと社会では生きていけない。
生きている以上、生きていかないといけない。
なのに、することが多いんだよ。
人間らしく、自分らしく生きるとは何?
外でも家でも人がそこにいる瞬間、コミュニケーションが始まる。友人・知り合い・家族・会社関係・学校関係と関係性はどうでもいい。
しんどくて、一人になりたいと思ってしまうことにかわりはないから。
分かってるよ、本当はあなたの方が私と話したくないんだろうなって思ってるんだろうってこと。
何言ってるか分からないし、会話のテンポ悪いし、目を見て話さないものね。
でもごめんなさい。
こんな私でも、生きている以上コミュニケーションとって社会で生きていくしかないんだよ。